目に見えているもの
ガラスが割られてしまったとあって、その後犯人探しが先生たちによって行われた。生徒たちは口をそろえてガラスが勝手に割れたと異口同音に言うので、口裏を合わせているのだと勝手に解釈されたが、嘘を言っているのではないと、その場に居合わせた先生からの信頼厚い学級委員長が言ったので、犯人捜しは打ち切られた。
勝にとってこの出来事は、とんだ災難だったのだけれどもこの出来事のおかげで自分から目を逸らすきっかけができたと喜んでいた。その上、ガラスが割れてからというもの、この学校ではなかった学校の七不思議が語られるようになった。最初はごく単純なものだったが、次第に話に尾ひれがついていき、ガラスが割れた裏にはこの学校には目に見えない何かが棲みついていて生徒が何かやらかすたびに、お仕置きとして校内のさまざまなものが壊れていく、という内容になっていった。
「俺も見たかったな~。その割れる瞬間。何も触ってないのに突然割れたなんてさ」
孝輔が喜々として語るのを聞いた幸也が口を挟んだ。
「ち、違うって。翔太の学校に妖怪が乗りこんでいく夢を見たんだって……。勝手に割れたわけじゃ……」
「でも、誰もその姿を見てないんだろ? 妖怪かどうかなんて……。なあ、良平?」
話を振られた良平は飲んでいた缶ジュースをこぼしそうになった。勝は今、翔太、稔、孝輔、良平、幸也と隣町の公園に来て学校で起きたことを話している最中だった。私はというと、大好きな稔のそばに陣取って稔の手を一生懸命に嘗めているところだった。何だか嫌がっているように感じるけれど、気にしないでおこう。
「なんで俺に振るんだよ。第一、翔太の学校に俺がいるはずがないのは知ってるだろ。お前じゃないんだから」
良平は最後のところを強調して言った。この話ぶりから察するに、孝輔は誰にも見つからなかったら入っては行けないところへ侵入するのが趣味のように思えた。
「わりぃわりぃっ。そうだったなっ。でも、本当に……」
「おい、よせよ。それを言ったらまるで小野の見た夢に嘘があるって言ってることになるぞ」
意外なことに、これを言ったのは翔太だった。そしてさらに意外なことに、稔が翔太の言ったことを肯定してみせたのだった。
「今日ばかりは、真野の言う通りだ。口はほどほどに慎んだほうがいいぞ、佐野」
「……わりぃ」
「ねぇ、話がどんどんずれてっているように思うんだけど」
勝がここで初めて口を開いた。どうも勝はこのグループのなかでは聞き役に回ってしまうらしい。
勝たちの妖怪談議が長引いてきたので、いよいよ退屈しそうになったとき、どこからか心地の良い音色が聞こえてきた。どうやらそう遠くないところから聞こえてるらしい。しかし、勝たちはそれに気が付いている様子はない。私は勝の気をひこうとしたが、話に熱中していて気が付いてもらえなかった。なので、私一人でその音を確かめることにした。そう遠く離れないのだから、大丈夫よ。私はみんなの目をかいくぐりその音のほうへ向っていった。
きれいな音色を奏でているのは、人間ではなかった。というのもその人から人間の匂いはしてこなかったからだ。しかし、見た目は人間そのものといってよかった。ただ、どこか性別の判断が付きがたいような顔だちをしていた。その人は楽器を弾いていて私に気がつかなかいようだった。
「ワン!」
私が一声吠えてみると、その人はようやく楽器を奏でる手を止め、私のほうを見た。
「ちょっと、機嫌よく琴を弾いている時に邪魔しないでもらえるかな」
少し怒った顔つきでその人は私をたしなめた。やはり、声を聞いても男性なのか、女性なのか判断が付きかねた。私は直感でこの人は怒らせるとまずいと判断し、とりあえず、勝が最高の笑顔と呼んでいる顔を見せてみることにした。私の笑顔を見てもその人は、ニコリともしなかったので、これはやばいと感じ始めたとき、隣に誰か来るのを感じた。
「邪魔してしまってすみません。阿修羅さん。別に悪気があったわけじゃないんですよ。な、ヨル?」
そう言ったのは、勝の友達の中で唯一妖怪が見える良平だった。他の皆はキョトンとしている、ということはこの人はやっぱり人間ではないということなのね。
「しかし、こいつはおく……」
あしゅらさんと呼ばれた人の言葉は最後まで続かなかった。と、いうのも誰かが蹴ったボールがその人に当たりそうになったからだった。あしゅらさんはギリギリのところで交わしたものの、「ボールを投げ飛ばした人は誰か」と爆発してしまった。
「誰だ! この蹴鞠みたいなものを投げつけた奴は! 許さん! 殺してやる!」
良平は困ったことになったなという顔をすると、懐から独特な香りのする袋をとりだした。しかし、あしゅらさんはもう駆けだしていたので、良平は勝たちに警告を出さなければいけなかった。
「皆! この公園から出ていって!」
良平がそう言ったとたん、勝をのぞいた他の皆は何が起こったかわかったようだった。
「え? 一体何が……?」
勝だけが何が起こっているのか分からなかったが、翔太に手をひかれて公園を出ていかざるを得なくなった。
「飯野があんな声を出す時は、ヤバい妖怪が出たってことだよ!」
「え、妖怪がいるの!?」
勝は目を輝かせたが、翔太の握力には勝てなかったようで、引いて行かれるままになった。稔や幸也は別方向に走っていったし、孝輔はいつの間にか姿が見えなくなっていた。私と良平はあしゅらさんを追っていったので、公園には誰もいなくなっていた。しかし、良平のあしゅらさん追撃はあっけなく終わった。走って行くうちに良平の顔から暑くないはずなのに大量の汗が吹きだし、足が震え出してきたからだった。良平の苦しそうな顔を見て私はどうしようかと思った時、良平は息も絶え絶え、といったふうに言葉を振り絞った。
「はぁっ、はぁっ。よ、ヨル、これを、あのさっきの人、阿修羅さんに、渡してくれないか? はぁっ、はぁっ。わ、渡してくれる、だけでいいから……」
私はとても大事なことを任されたと感じ、良平から手渡された袋を口にはさんだ。その瞬間、得も言われぬ幸福感が満ちてくるのを感じたが、良平から言われたことをふいにするわけにもいかなかったので、幸福感に満たされつつ私は走っていった。……それにしても、あのボール誰が蹴ったのかしら。だれもボールなんて持ってきてなかった、わよね?
私が駆けだすと、あしゅらさんは意外にも近くにいた。ボールを蹴った人はいないかと血眼になってあたりを探し回ってるからなのだけど、勝たちはうまく隠れたようで、誰も見つかっていなかった。幸福感が私を包み込んでいたとはいえ、怒った顔をしたあしゅらさんを目の前にして少し腰が引けてしまった。いったいどうやって渡せばいいのだろう……。絶対私がひどい目に遭わされるわよね……。そんなこんなで渡そうか迷っている時、とうとうあしゅらさんは私がそばにいることに気が付いてしまった。
「ああっ、もうっ! いちいち邪魔するな! 私はあの蹴鞠を飛ばしたものを懲らしめなければ気が済まん! 邪魔をするようだったらお前もただじゃおかんぞ!」
そう言うとあしゅらさんは手を振りかざした。思わず目をつぶると、後ろから何かがぶつかってくるのを感じた。一体なんてことをするのよ! そして、当たり前のことだけど、あしゅらさんにぶつかってしまった。今度こそ殺されてしまう! 稔にまだ私の気持ちを受け止めてもらってないのに!
けれども、いくら待てども怒りの拳が私に落ちることはなかった。目を開けて確認してみると、私のくわえてた良平から渡された袋の中身があしゅらさんの顔いっぱいにぶちまけられていた。私はそのありさまを見て可笑しくなってきたのだけど、驚いたことにあしゅらさんの怒りは静まったみたいで、それどころか、満面の笑みになっていた。あれほど怒っていたのに、どうしたのかしら? もしかすると、この袋の中見のせいなのかしら? あしゅらさんは起き上がると、私の頭を撫でた。
「すまなかったな。こんなことで怒るんじゃなかったよ。こんな幸せな気持ちになったのは、初めてのような気がするよ」
あしゅらさんはそう言うと、満面の笑みのままそのままどこかへ行ってしまった。とりあえず、これでよかった、のよね。あしゅらさんがどこかへ行ってしまうと、どこかへ雲隠れしていた勝たちが戻ってきた。
「よくやったな! ヨル! まさか、あのとき自分からぶつかりに行くなんて勇気があるよ!」
勝はそう言って私をほめた。……それじゃ、私にぶつかったのは一体誰なの? 私が疑問に思う間もなく、稔が良平のそばに駆けよった。
「……喜んでいる場合じゃないみたいだ。飯野の具合が悪くなってる」
良平はすぐさま母親に迎えに来られた。良平の母親が来る間、誰もが押し黙っていた。稔と幸也は亮平の体調を慮ってか、二人して飲み物を買ってきた。私はその間、良平のそばにいながらあることを考えていた。それはあしゅらさんを怒らせた張本人は誰かということだ。あのボールのことがなければ、良平はこんな目に遭わずに済んだかもしれなかったのに、あのボールのせいで、走る羽目になってしまったのだ。
……あしゅらさんを止めることができたのは誰かが私にぶつかってきたからなのだけど、いったい誰が助けてくれたのだろう? それに、どうして勝は私があしゅらさんをやっつけたということがわかったの? 勝は、稔たちと違って、普通の人間の子よね? 私の横で勝が思いだしたかのように翔太にこう言った。
「それにしても、助かったよ。真野が妖怪の心も読めるおかげでどこにいるかわかったんだから」
「あったり前だっ。俺は飯野と違って妖怪は見れねえけど、考えることのできる奴の思考は読めるんだ」
「じゃあさ。ヨルの考えてることもわかる?」
え? 勝ったら急に何を言いだすのかしら? 私の考えてることを知りたいですって?
「何言ってるんだよ? こいつの顔を見たら考えなんて読まなくってもわかるだろう? こいつ、相当稔に熱上げてるぜ」
!!! あろうことか、こんなやつに私が稔のことを好きだってことがばれてたなんて! しかもばらすなんて~!
「ワンワン!」
「お、動揺してるぞっ。犬って本当にわかりやすいんだよな~」
翔太はそう言うと、私の顔をつまんだ。もうっ、翔太なんか好きになんかなってやらないんだから!
腰が抜けそうになった。一瞬狼かと思ったほどだ。けれど、日本には狼などいないことを思いだし、気を落ち着かせた。大きすぎる犬は、あの少女を食べてしまうのではないかと冷や冷やしたが、そうではなかった。けれど、あの女の子の顔は苦しげな表情だった。私は何とかしてあげたかったけれど、あの犬の見た目の恐ろしさのせいで、立ち上がることができなくなっていた。醜い傷でおおわれた体は、まるで、怨霊が苦悶の表情を浮かべているように見えたのだ。あの犬が少女を殺してしまう前に、なんとかしなければ。
そこで私はあの子の名前を呼んで、犬の気をそらそうとした。だけど、私はあの子の名前を聞いてないことに今更ながらに気がついた。だったら、この際、大声で喚いてみようか? 息を吸ってみる。そして……。
「……あー」
大声を出しているつもりで出した声はか細かった。しかし、あの犬は少女を襲うそぶりは全く見せなかった。それどころか、そのままどこかへと行ってしまった。……結局、私は何がしたかったんだろう、私は。あの子はもしかしたら本当に幽霊かも知れないのだから、助けることに意味なんてなかったかもしれないのに……。私が尻もちをついたままでいると、少女が私のところまで来た。私が木のそばに隠れていたこと、気が付いていたらしかった。
「……助ける気がないんだったら、そのままどこかへ行ってくれてもよかったのに。いい人ぶるの、もうやめにして」
気が付かないだけで、皆自分の意見を正当だと信じているものだ。自分の意見こそが正しくて、他の意見が間違っているというわけだ。けれど、信じられないことが目の前に起きてしまったとしたら、もし自分の信念が間違っていたとしたら、一体これから何が正しいと言いきれるようになれるのだろうか。
今の私が置かれた状況は、信じたくないようなことだらけだった。信じたくないようなことが一度に起きて、私を打ちのめそうとする。こんな時には、もう自分の目を信じないほうが、いいのかな……。けれど、あの子の発した言葉が貫いた私の胸の痛みは、まぎれもなく、そこにあった。




