ここにいない私
楽しかった休日も過ぎれば、勝にとっては苦痛な学校生活の始まりだ。休日という概念のない私でも、日曜日と言われる日は勝と大いに遊べる日だということはわかったので、次の日の月曜日が来ると、勝が学校に行かなければならないのがたまらなく嫌だった。特に、勝がいじめられたのを目撃してしまった今となっては。
認めるのは尺だけれど、翔太がいなかったら、勝はもっといじめられていただろう。というのも、やり方は汚いが、自称覚の翔太が相手の弱みを握って、勝がいじめられないようにしているらしい。本当に勝のことを思っての行動なのか、甚だ怪しいのだけど。
勝は、休憩時間にまた体育館裏に行っている。といっても一人でできることには限りがあるので、スマホにダウンロードしたゲームアプリを楽しんでいた。限られた時間内でのゲームなので、慌ててやるせいかときおり焦って変なミスを繰りだしてしまうので、楽しむというよりは変なストレスが加わっていた。
「ああ、またやっちゃった……。これじゃハイスコア取れないな……」
キーンコーンカーンコーン……。キーンコーンカーンコーン……。
「あっ、しまった! 速く教室に戻らなきゃ!」
勝は慌ててしまったせいかスマホを手から落としてしまった。そしてそのスマホをとろうとした時……。
バキッ。
目の前に足が強く踏み込まれたと同時に嫌な音がした。その瞬間、勝の額に嫌な汗が吹きだした。この足……。
「ずいぶんとお愉しみじゃないか、日野~。ライングループから外された意味、分かってるよな? お前のような奴が楽しむなって言ってるんだよ!」
目の前のそいつは、勝の胸ぐらを思いっきりつかみ、勝の頬を強くぶん殴った。勝は自分を殴った相手がこの学校で、1、2を争う相当なワルだということに気が付いた時には、もう前歯をへし折られていた。
「うぐっ」
口から鮮血が流れ出て、目から火花が飛び散った。勝は殴られ、蹴られながらこう思った。
(こいつ、こんなことでしかストレス解消できないのか? こいつのほうこそ、楽しみってものがないんじゃないか……)
いったいなぜこいつがまた、勝の家にいるんだろう? 勝母との散歩を終えた私は、真っ先に勝の部屋に行ったのだけど、そこにはあのいけ好かないふわふわがあたかも自分の家であるかのようにそこにいたのだ。ふわふわは私の存在を確認するなり、あけすけもなくこう言った。
「今日は残念なお知らせがあってここに来たの。今日起きたことは紛れもなくあなたが引き起こしたことよっ」
ふわふわがそう言ったとたん、私は勝の身に何か悪いことが起きたのだと直感した。私の心配そうな目を見てとったふわふわは、勝がケガしたときの映像を見せてここぞとばかり畳みかけた。
「勝がいじめっ子にケガさせられたのよ。原因はあなたしかいないでしょ? あなたが勝のところに来なければ、勝があんな痛い目に遭わずに済んだのよっ。勝のことを本当に大事に思ってるなら、ここから出ていきなさいよ! 早く!」
そう言うやいなや、ふわふわはまたあの得体のしれない力を使って私を家から放りだそうとした。私は、放りだされまいと必死に前肢で踏ん張ったが、相手の力のほうが強かった。私の足は床から離れ、あけ放した窓の外に出されてしまった。なんとか家に戻ろうとしたが、ドアも、庭先の窓も開けられそうになかった。なんてやつ! そこまでして私を勝から離したいなんて、もしかしてあのふわふわ、勝のことが好きなの? 私が必死にドアを開けようとしたが、またしても体が浮いた。
「あなたは、ほかの妖怪たちと仲良くあの裏山で過ごせばいいんだわ!」
その声を聞き終わらないうちに、私は空高く吹き飛ばされてしまった。本当に、なんてやつなの!
その頃、勝は保健室のベッドに寝かされていた。歯が折れたせいで、口元が痛々しい。その傍らで保険の先生が電話をかけていた。
「ええ、大事には至ってませんから。本当に前歯が折れただけみたいですので。でも、念のため今日は早めに帰ったほうがいいでしょう。お母さん、迎えに来られますか? ……よかった。それでは日野君にそのように伝えておきますね」
先生は受話器を置くと、勝に向き直った。
「日野君のお母さん、迎えにこれるみたいよ。あとで、病院に行って診てもらいなさいね」
「う゛~」
勝は返事をしようとしたが、あまりの痛さに顔をしかめてしまった。
「む、無理してしゃべろうとしなくてもいいのよ……」
先生が心配そうに勝の目をのぞきこむ。今まで気分が悪いと口実を作って寝に来る生徒ばかりだったため、勝のような事態は初めてと言えた。しかし、体育の授業でねん挫したとかで来る生徒もいないではない。ただ、これほどのケガをしてくる生徒はほぼいないといってよかったため、先生は内心焦っていたのだ。
私は、勝母が学校に勝を迎えに行っているとき、裏山の背の高い樹に引っかかっていた。体中擦り傷だらけだったが、地面に直撃しょうものならそれこそただでは済まなかっただろう。私はふわふわに対する呪詛を繰り返しながら、慎重に樹から降りようとした。が、下を見て気がくじけそうになった。地面がとても遠くに見える! しかも悪いことに枝は途中までしかなかった。これでどうやって降りろっていうのよ?!
「ク、ク~ン」
私は怖くなって間の抜けた声を出してしまった。勝に助けを求めようにも、勝は私がこんな目に遭っていることを知らないのだ。ここは独りで何とか切り抜けるしかないことを思い知らされた。
日が翳ってきて、気温が下がり始めてきた。きっと勝は私がいないことに気が付いてどこに行ったかと探し回っているに違いない。そう自分に言い聞かせてみたものの、木の上でどうにもできない状態であることに変わりはなかった。私は怖さからくる震えが止まらず、次の枝に飛び乗る勇気が持てそうになかった。ムササビとか言う動物ならば、いとも簡単に隣の木に滑空していくのだろう。しかし、あいにく私にはそのための皮膜がないのだ。彼らのように飛ぼうとしてみたところで地面に激突するのがオチだ。
どんどん辺りが暗くなってきたため、私は心ぼそくなってきた。私、ここで飢え死にしてしまうの? そんな疑念が頭の中を駆け巡る。それにここは、妖怪の巣くう裏山なのだ。いつ何時彼らに見つかるとも知れないのだ。だが、そのもしかしては当たってしまった。私の周りで何かガサゴソという音が聞こえてきたのだ。私はその音を立てたものが私に気づきませんようにと願ったけれど、遅かった。
勝は、帰宅後母親に付き添われ病院に行っていたので、私の窮状を知る由もなかった。勝は折れた前歯のことで頭がいっぱいだったのだ。麻酔をかけ残った歯を取り除いてもらったが、歯はもう永久歯だったので、もう生えることはないと言われショックを受けていた。腫れが引いた後で義歯をつけることになったが、それまでは抜けたままでいなくてはならないのだ。そのとき、周りの人たちに何と言われるか気が気でなかったのだ。
「歯が折れるなんて何があったの? ……あ、腫れてるからしゃべれないんだったのよね……」
勝はそれを聞いてスマホのラインで返そうかと思ったが、スマホは壊されてしまったことを思いだし、気が滅入った。これからスマホなしの生活なんて耐えられそうにない。お母さんに新しいスマホをねだろうかとも思ったが、今はそれどころではないだろう。あのごろつきに目をつけられてしまった今となっては。
「ま~た、ここに来るなんて、あんたってよっぽどほかの犬には嫌われてるのかしら? それとも、あたし達のこと、皆殺しにしようって魂胆なのかしらねぇ」
私の目の前にいるそれは、鳥のようでいて、鳥ではなかった。なぜならその鳥は、人語をしゃべるインコ、ではなく人語を話すカラスのようなものだった。のようなもの、というのはこのカラスは厳密にはカラスではないからだった。よくよく見れば足が三本あるし、しかも、しゃべるカラスによくありがちなだみ声ではなく、きれいな女性の声色だったのだ。私があっけに取られているのにも拘らず、そのカラスはしゃべり好きなのかまだしゃべっている。
「……まあ、あたしたちの存在を感知できるって時点で普通の犬とは違うんですものねぇ。あの鬼が言うのも無理はないわねぇ」
え? さっき、このカラス、鬼って言わなかった? ……ということは、このカラスも妖怪なのかしら? 見たことないカラスだし、きっとそうなのだろう。キョトンとした私の顔を見てとったカラスは慌ててこう言いつくろった。
「あのね、私をほかの物の怪たちと一緒にしないでちょうだいよ。一応、あたしは神の使い、なんですから。なんなら証拠を見せてあげてもいいのよ?」
そう言うとカラスはカーと鳴いた。なんだ、やっぱりただのカラスじゃないの。だが、カラスが一声鳴いた次の瞬間、暗くなったはずの裏山にまた日が射してきた。暗くて心細くなってきた私の心に一筋の明かりが射してきたようだった。……もしかして、明るくなったのって、このカラスのおかげなの? それを見越したかのようにカラスが何か聞いてきた。
「どう、すごいでしょ? 伊達に神の使いしてないんですからね」
勝が家に帰るころ、もう日が傾き始めていた。私は、神の使いと称するカラスの計らいでなんとか家に戻ることができていたので、私に起きたことは勝にはわからないままだろう。しかし、私が家に帰ったとなれば、あのふわふわがまた何かするかもしれないと思うと気が気でなかった。
だが、家に帰って来た勝を見てその心配はどこかへ飛んでいった。なにしろ勝が痛々しい顔で帰って来たのだから。あのふわふわが勝がこんな目に遭うのは私のせいだと言ったが、もしそのことが起こることを分かっているのなら、ふわふわ自信が勝を守ってもよかったはずだ。私だったら勝を守りに行けるはず。成長してきて成犬ほどではないけど大きくなってきたのだから、大丈夫なはず。勝は出迎えた私を見て、微笑もうとしたが、口元が腫れていて、無理に笑っているような感じがした。
「クゥ~ン」
「だいじょぶ、なんともないって」
口が痛いのか、何ともおかしなしゃべり方になっていた。
「……どういうことよ。ここから連れていけないって? あなた、何でもできるんでしょ? 私はここから出たいのよ!」
少女は顔を赤くしながらふわふわに詰め寄った。彼女はほとんどの時間を一人で過ごしていたため、何とかしてでもこの山から出ていきたかったのだ。それなのに、このふわふわときたら、そんなことはできないと抜かしてきた。
「あのね。私にも、できることとできないことがあるんです! だから、あなたをここから出すことはできないの!」
こんな説明で少女が納得されるはずもなかった。そう言われた少女は怒りが収まるどころかますますはらわたが煮えくり返った。
「どうしてよ! 何が理由なのよ! そんなことも説明されないままじゃ、はいそうですかって言えるわけないじゃない!」
ふわふわは本当のことを言ったほうがいいと判断し、こう言った。
「だって、あなた地縛霊よ」
私の目の前に現れた少年は、手に持った花をここ最近できたばかりの崖のそばにおいた。それを見た瞬間、私はなぜだか震えが止まらなくなった。
「……あの崖はっ、痛っ」
こめかみに鋭い痛みが走る。そしてわけのわからないことに、真っ逆さまに落ちていく感覚に襲われ、思わずしゃがみこんだ。……これは、いったいどういうことなの? 私が震えているのを見てとった少年は私のほうに近寄ってきた。
「あの、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫よ。少し眩暈がしただけ……」
私がそう言っても、目の前の少年は心配そうな顔のままだ。とりあえず、気を遣わせてはまずいと思い、話題を振ることにした。
「あの、さっき君は私に会えないかもしれないって言ったよね? 私に、何か用事があってここまで来たの?」
でも、どうしてこの子は私のことを知っていて、そして私がここにいると思ったのだろう? 少年はためらいがちにこう言った。
「……あなたが行方不明だというニュースを見ました」




