1 退職させられました。
――その日、私は油断していた。
気になってた人に初めて食事に誘われて、浮かれていたんだと思う。
だから、普段だったら気付けたはずの危険に気付けなかった。
「……君が悪いんだよ」
仕事が長引いたせいで帰宅時間がいつもよりかなり遅くなっていた上に、外は雨が降っていた。
そして何よりも、家に帰ったら食事の予定を決める為に彼と電話をする約束をしてた事が、私を逸らせたんだと思う。
その結果、少しでも早く家に帰りたくて、スマホ片手にうきうきとした気分のまま普段だったら絶対に通らないはずの人通りの少ない道を通ってしまった。
そして……
ドンッ!
「ぐっ……ぁっ……」
人の気配を感じると同時に背後から受けた衝撃。
咄嗟に零れた掠れた声。
「ねぇ、何で俺というものいながら、別の男とデートなんてしようと思ったの?」
気付いた時には全てが遅かった。
差していた傘が手から離れ、小さな音と共に風に煽られ転がっていく。
背中が燃えるように熱かった。
背中から下に向って徐々にじんわりと生温かく濡れていく感触がする。
次第に足が痺れてきて力が入らなくなり、その場に崩れ落ちるように倒れた。
倒れていく時に見える景色はまるでスローモーションのようだった。
体が地面にあたる鈍い衝撃が止まった後に視界に映ったのは、濡れたアスファルトと自分が握りしめていたスマホの明かり。
そして、雨水に濡れて少し汚れた男物の革靴と……元々黒いアスファルトを更に黒く染め上げる赤い液体。
「何で、浮気なんてしようと思ったの?」
頭上から落された低めの声は、悲しみと強い怒りを無理矢理押し込めているかのように震えていた。
「っ……」
何か言おうとして口を開いたけれど、まともな音は出ず、雨音にかき消された。
遠退いていく意識を必死で繋ぎ止めながら、視線を上げて革靴の持ち主を見上げる。
「こんなに愛してたのに、何で俺を裏切ったの?」
濡れたスーツのズボン。
上着。
女性のそれよりも太めの首筋。
徐々に視線を上げていき、遂に彼の顔へと到達する。
革靴の持ち主と目があった。
滂沱の涙を流すその瞳。
「…………」
それを見た瞬間、私は思った。
……すみません。おたく、どちら様ですか?
私へと激しい怒りを向けるその人物の事を、私は知らなかった――。
……って、おい!!
ナレーションっぽく呟いた自分の心の声に思わずツッコミを入れた瞬間、私の意識はプツリッと途切れた。