第1話⑥
場所は再びクラフト&レナシ宅。
「さて、なぜ僕が君に魔法の使い方を教えられないのかというとだね」
レナシがキッチンで食材を調理するすぐ横で、クラフトとライガは向かい合った。
指し棒を手に立つクラフトの背後には、数式が無造作に書き込まれた黒板。食卓に座らされたライガの前にはノートと万年筆。よく見れば、周囲の壁際には本と紙の山。まさに講義が始まりそうな様相である。
「それは僕が魔法をほとんど使えないからだ」
聞いてみれば単純な話であった。
「ああ、そういうやつもいるのか」
ライガのほうは初めて見る万年筆が気になり、矯めつ眇めつしながら空返事。
「いる。でも厳密には魔法が使えないわけじゃない。魔力固有値が低すぎて、事象としての魔法が見かけ上発動しないほどに魔力の絶対値が低いんだ」
「ん、なんて?」
途中から何を言っているのか分からなくなったので、ライガは慌てて顔を上げる。
それを見て取ったクラフトが黒板に向き直り、それまで書いてあった数式を消したところに、ガツガツと新たな数式を書き込む。
「これが魔力の絶対値を表す公式だ。左辺のFが魔力の絶対値、右辺がそれを計算するための式で、分母のlは長さ。kは努力係数、c1とc2はそれぞれ魔法の使用者と、魔法を受ける対象の魔力固有値だ」
クラフトの怒涛の説明に、ライガは目をぱちくり。
「君のお兄さん、何言ってんの?」
とりあえず玉ねぎを剥いているレナシに聞いてみる。
「魔法力学です。お兄さまは魔法学オタクなんです」
ライガにとっては魔法力学という単語も初耳だったが、言われてみれば中学の理科や高校の物理の公式に似ているような気もする。
(要するに魔法を使うときの方程式みたいなもんか)
と、ライガは一応納得。
「Fを魔力の絶対値といったのは、これがベクトルでないからだ。魔力の方向は魔法の使用者の意識によって変化する。似たような公式でも重力では力のベクトルは下向きのみ、クーロン力なら引力と斥力の2通りしかないが、ベクトルの向きを自在に変えるという点で魔力はそれらとは大きく性質が異なると考えていいだろう」
クラフトの熱い視線に、ライガもとりあえず神妙な顔で頷いておく。
(わっかんね)
何を言っているのかはあまり理解していないが。
「わからないところは聞き流しておけばいいですよ」
隣からレナシのアドバイスがくる。
なるほど、この子もこの講義の被害経験があるんだな、とライガは同情した。
「この式で重要なのは、ここ」
クラフトが公式のkとc1を〇で囲みながら言う。
もともと書きなぐられていた式がさらに見づらくなる。
「魔法の使用者としての能力は、魔力固有値と努力係数の2種類があるということだ」
「うん、とりあえずその2つがわからん」
ライガにとっては聞いたことのない単語である。
「そうだね。言い換えれば、魔力固有値は生まれ持った才能。努力係数は文字通り努力」
「なるほど」
つまり魔法を使うには才能と努力が必要というわけか、とライガは理解する。わけのわからない単語で言われるよりはよっぽどわかりやすい。
「まあ努力係数っていう名称はがんばって練習したら変化するって意味じゃなくて、魔力の発生に対して意識的に影響を与えるという意味での努力なんだけどね」
「で、魔法が使えない人間は生まれ持った才能の方が低いってことか?」
「そう。魔力固有値というのは生物では、桁で言うと10のマイナス1乗から3乗まで個体差があるといわれている。つまり人によって0.1の人もいれば、9000の人もいる。年齢によって若干変化するが、大きくなるか小さくなるかは分からないし、どちらにしても微々たるものだ。ちなみに僕の魔力固有値は0.74」
「ちなみに私は233.6です」
なるほど。それがどのくらいの数値なのかは分からないが、クラフトの数値はかなり低そうに思われた。だからクラフトは魔法が使えない、ということまではわかる気がする。
「兄妹でも随分違うんだな」
ライガは二人を見比べてみるが、外見では違いはわからない。
「魔力固有値がどのように決定されるかは謎が多い。無生物なら物質と質量と形状が同じならほぼ同じ値が得られるが、生物では個体差がある。遺伝するのかどうかも不明で、現に兄弟姉妹でもばらつきがある。いかにして魔力固有値の高い生物が生まれるか、というのは今後の魔法遺伝生物学の大きなテーマだね」
「俺の魔力固有値って測れるのか?」
そうなると気になるのは自分の魔力固有値である。これがクラフトと同じくらいならばライガも魔法が使えないということであり、憧れの主人公への道はいきなり閉ざされることになるだろう。
「僕の持ってる魔力計測器で測れるけど、安物だから正確じゃないよ。それと今すぐは無理だね。眠ってからじゃないと」
「眠ってから?」
「起きている間は努力係数の変化があって計測値はバラバラだ。対して眠っている生物の努力係数は睡眠時努力係数といって、ほぼ一定の値をとる。おおよそ9.7かける10のマイナス8乗だ。魔力固有値を計測するためには眠ってから魔力値の変動率が毎分5%未満に」
「わかった」
ライガは手のひらで「待った」をかけて、クラフトを落ち着かせる。
この男、こういう話になると止まらなくなるらしい。
とりあえず眠っているときに測ればいいということだけ分かったのでよしとしよう。
それと同時にふと思いつく。
「魔力固有値が低くても、努力係数が高ければ魔法は使えるんだよな」
式の上では努力と才能の掛け算。それならば一方が低い分、もう一方が高ければ結果は同じはずだ。
「その通りだよ。ほら、僕でもこれくらいはできる」
そういうとクラフトは、壁際の紙束の上に置かれた拳大の鉄球を手に取る。
それを自身の顔の前に。そして手を下ろす。
鉄球はクラフトの眼前に静止したまま。
まるで手品のような光景。
ライガは絶句して歩み寄り、鉄球の周りの空中に手をかざす。当然ながら鉄球には糸も針金もかかっていない。正真正銘、空中に浮遊している。
恐る恐る鉄球に触れてみる。
クラフトが目を閉じ、すこし表情に力がこもる。集中しているのだろうか。
ツンツンと指先でついてみても、元の位置に戻ってくる。
(……なんか、おもしろいな)
夢中になって連打するライガ。
次の瞬間。
ぷつんと糸が切れたように、鉄球は落下した。
「足いいいいぃっ!!!!」
ライガの足めがけて。
160cmほどの高さからの1kgほどの鉄球の直撃を受け、ライガの小指の骨とライガの本体が悲鳴を上げた。片膝をついて首を垂れ、小刻みに震える姿はまるで何かに許しを乞うかのよう。
「という感じにね。しかしこの程度のことは魔法とは呼べないんだよ。分類するなら低級な土属性魔法ということになるが、こんなことに魔力を使うなら手で持っていた方が楽だろう。魔法と呼ぶならこの10倍の質量のものを自分の周囲10mで自在に操れるようでないとダメだ」
「いや、足……」
「先ほどの現象を数式で考えてみよう。先ほど鉄球には下向きの重力と、上向きの魔力が働いていた。その二つの力が釣り合っていたから鉄球は空中で静止した。重力はmg、魔力は先ほどの式だ。この鉄球の質量mは1kg、重力加速度gは9.8、魔力固有値はおおよそ10だ。僕の魔力固有値が0.74、僕と鉄球の距離はおおよそ50cmとしよう。距離は計算上生物の目からの距離をとるが、正確には魔力は脳からの距離の二乗に反比例するとされる。そう、動物が頭部に角を持っているのを不思議に思ったことはないかい?あれは脳に近い部分に武器を備えることによって魔力による補助を最大限に発揮するという意図が……」
得意げに黒板に数値を書き込みながらのクラフトの講義。
を、聴いているものは誰もいない。
「骨は大丈夫そうですね」
「一応冷やすものくれるか?」
「タオルとってきます」
ライガとレナシは床に座り込んで、小指の応急処置中。
「……で、これを計算すると先ほどの僕の努力係数はおおよそ0.33。特別な訓練を受けていない人間ではかなり優秀な数値といえる。努力係数は意識の集中や対象との親和性で大きくなる。この鉄球は僕がよく実験に使っているものなので、その親和性の大きさも関与しているだろう。とはいえ努力係数は魔力固有値以上に変動が大きいのも事実。僕と同じくらい魔力固有値が低くても魔法師になった人物はいるかもしれない。だけどね、僕は別に魔法師を目指してるわけじゃない」
黒板に向かっていたクラフトが後ろを振り返ると、応急処置を終えた二人が優雅に果物とお茶で一息ついていた。
「聞いてたかい?」
「途中からな」
若干険しい表情で眼鏡を上げるクラフト。
気にせずお茶をすするライガとレナシ。
「要するに俺もやってみればいいんだろ?その鉄球浮かせるやつ」
「うん。魔力固有値が高ければ動かせるかもしれない。しかしライガは魔法のない世界から来たんだよね。魔力を使う感覚がわからないと、努力係数がどうなるかわからないな」
たしかに。こちらの世界に来てからも、無意識にでも魔法を使ったことはない。
「とりあえず、さきほどのお兄さまを真似てみてはどうでしょう」
そういいながら、レナシが指先をひょいと振ると、床に転がっていた鉄球がライガ目の前にふわりと飛んできた。なるほど。クラフトは目の前まで持ってきて浮遊させるのが精いっぱいだったが、レナシは離れたところにあっても楽に動かせる。これが魔力固有値の違いなのだろう。
などと考えつつ、手を差し出して受け止めようとするライガであるが、ふわりと、といってもそれは鉄球である。
「指いいいいぃっ!!!!」
両手の小指を机と鉄球の間に挟まれ、ライガは再び悶絶。
「重要なのは集中力だ。これから起こる事象をイメージすること。それが明確なほど成功率は高い。もっともこれは理論魔法学じゃなくて、古典魔法学の考え方だけどね。実際に魔法を使うなら理論魔法学的な考え方よりも古典魔法学のほうがわかりやすい」
「いや、指……」
「魔法師は自分の魔法にオリジナルの名前をつけて発動時に唱えることが多いです。いわゆる自己暗示によって集中力を高めるんです。ライガさまも『鉄球よ、浮けー!』みたいな感じで叫んでみては?」
「いや、指……」
話を聞かない赤毛2人。
腫れ上がった小指をふーふーと冷ますライガへの同情は皆無。
「さあ!」
「さあ!」
促され、ライガは諦めて鉄球を手に立ち上がる。
鉄球を己の眼前に掲げる。
イメージ。自分が手を下ろしても、この鉄球がここで静止するイメージを思い浮かべる。
それどころか、もういっそのこと、このぼろ家の天井を突き抜けよとばかりに歯を食いしばる。
「鉄球よ、浮け」
手を下ろす。
鉄球も一緒に降りる。
「鉄球よ、浮け!」
手の動きとともに鉄球が上下する。
「浮け!浮け!浮け浮け浮けえええええええ!」
ブンブンと。
顔の前で手のひらと鉄球が上下動。浮く気配はない。
1分ほどそれを繰り返してから、ライガは肩で息をしながら二人に問うた。
「変な奴が筋トレしてるみたいになってないか?」
「なってるね」
「なってますね」
なっていた。
「なんでだよ!」
ライガは八つ当たり気味に鉄球を床に投げつける。
幸い板張りの床は破壊されず、鉄球はボヨンボヨンと部屋の隅へ。
「そりゃ最初からは無理だよ」
「まあ気長にやってみることですね」
クラフトとレナシが他人事のように言った。