第1話③
頼河は最初に薄目を開けたとき、そこを病院だと思った。
天井にはライトもなく、窓から差し込む昼の日差しが、黒ずんだ木の天井をぼんやりと照らしている。
古臭い、という匂いを頼河は初めて知った。年月を経た木造建築に暮らしたことのない彼は知る由もなかったが、それは木と埃の匂いだった。
(……こんな病院もあるのか)
と思いながら、頼河はもう一度目を閉じ、ひとつ溜息を吐く。
生きている。
それだけは分かった。
彼はしばらくの間、それだけを噛み締めた。
大きく息を吸い、吐き出す。体のどこにも痛みはない。あの、永久に取れない汚れのように思われた
自分と同じ温度の血の感触もない。ゴワゴワとした布団を頼りに体の感覚を研ぎ澄ませば、欠けることなく自分の四肢がそこにあると分かる。
ただそれだけのことが、なんと幸せなことだろう。
次に頼河は勇気を振り絞って、手に力を入れてみる。
あれほどの大事故だったのだ。そんなことをすれば全身に痛みが走ると思われた。しかし痛みは来なかった。すこしの強張りだけで、自分の手はあっけなく握りしめられた。
自分の体はあれほどの大怪我から完治しているのか、と頼河は訝しんだ。
だとしたらどれだけ眠っていたのだろう。数週間か、数か月か。
今は何月で、ここはどこなのか。
と思ったその時。
(……?)
目を閉じたままの頼河の唇に、なにか柔らかいものが触れた。
自分の唇より一回り小さい、みずみずしいそれは、まるで唇のような……。
その唇のような何かが。
思いっきり頼河の肺に息を吹き込んできた。
「ごぶほっ!!!!」
流石に飛び起きた。
強制的に肺に空気を送られることがこれほど強烈なインパクトだとは。
「お兄さま!お客人が起きました!わたくしの人工呼吸で!」
飛び起きた頼河の頭をひょいっと避けたその小さな女の子。年は10歳くらいか。赤毛に茶色い目。薄汚れた麻の服は、まるで中世を舞台にしたファンタジー小説の挿絵から飛び出してきたかのよう。
コスプレにしては様になっている、と頼河は思う。
しかしそれよりも。
「人……工呼吸……?」
肺爆殺未遂の間違いでは?
状況を呑み込めていない頼河は部屋を見渡す。
木造の薄汚れた天井しか見ていなかったが、そこはどうみても病院ではなかった。否、そもそもこんなつくりの家が日本にあるのかというほど、簡素な家屋。壁も戸も床も剥き出しの木製で、格子の組まれた小さなガラス窓からの光以外にも板の隙間から光の筋がいくつも差し込んでいる。
そして小さな窓から見える景色は、まるで中世ヨーロッパの街並み。
「目が覚めたのかい!?」
声と同時に勢いよく扉が開き、今度は青年が飛び込んできた。
少女と同じ赤毛はぼさぼさで、眼鏡と相まって優しそうな印象を受ける。年齢は頼河と同じ、15、6歳といったところか。身長は頼河より低く、体つきも細いのだが、何に興奮しているのかテンションが高く、圧がすごい。
「人工呼吸が効いたのか!」
青年が興奮を抑えきれない様子で、少女に確認する。
「間違いないですわ!わたくしが人工呼吸した途端、まるで生命を吹き込まれたかのように飛び起きました!」
少女の方もかなりエキサイトしている様子。
吹き込まれたのは生命じゃなくて空気だ、とツッコみたいが、咳が止まらない頼河は声を出すことができない。
「なるほど!じゃあもう一度人工呼吸だ!今度は僕が!」
言うが早いか、無駄に使命感に燃えた目をした青年が頼河に向かって飛んでくる。
唇から。
「なんでだああああ!!」
頼河はたまらずそれを殴り飛ばした。
頼河の会心の一撃を受けた青年は血しぶきの線を描きながら吹っ飛び、壁にぶち当たって建物を揺らした。