第1話②
夕暮れの街角。帰宅ラッシュの自動車が荒々しく横を抜け、立ち並ぶ信号が一斉に色を変える。
頼河はいつものように、本屋に寄ってから家路を辿っていた。
家に帰っても、学校にいても居場所はない。
頼河の両親は彼の成績と自分たちの仕事にしか興味がなく、ほとんど家にはいない。いたとしても「勉強をしろ」と言ってくるだけで楽しい思い出もない。だからできるだけ時間を潰してから家に帰るようにしていた。
頼河の成績は決して悪いほうではなかった。むしろ学年でも上位に入る。運動も苦手ではない。顔も悪くないし、コミュニケーション能力にも大きな問題はなかった。そんな彼がなぜ学校でも居場所のない日陰者であるのかというと、ひとえに彼の人付き合いの悪さが原因であった。
彼は人とつるむことを避けている一面があった。
話題合わせや友達の順位付け、グループ間の対立、男女のいざこざなどが本質的に苦手だった。
(いや。俺の一番の問題は自分に自信がないことだ)
だからこそ争いを避けてしまう。他人の目が気になる。
誰にも負けない何かが一つでもあれば。自分を信じられれば。
(そうだ。例えば)
頼河が視線を送る先、横断歩道とはいえ道のど真ん中ではしゃぐ高校生がいた。しかもなんと、先ほど頼河の後頭部にカバンをぶつけた同級生のグループである。
本屋に寄っていた間に追い抜かれていたらしい。
(ああいうのも、注意できるはずなんだ)
自分に自信があれば。
頼河がその横断歩道にたどり着いても、彼らはまだ、ゲラゲラと笑いながら、じゃれあいながら、横断歩道を渡っていた。周囲の通行人が彼らを睨みながら通り過ぎるのも、まるで気づいていない様子である。
頼河が渡ろうとしたところで、横断歩道の信号は赤に変わった。
同級生のグループはもう渡り切ろうとしている。
と。
「もらいっ」
「あ、くそっ」
横断歩道の向こうで、グループのうちの2人が急に方向転換し、こちらに走り出した。
赤信号を背に走ってくる。前を走る男子は何かのCDケースを手にしている。後ろを走るのは頼河にカバンをぶつけた男子である。
おそらくそれを奪って逃げてみたというだけの遊びだったのだろう。
「ちょ、あぶないよ~?」
グループの女子が振り向きながら、能天気に言う。
すべてがスローモーションに見えた。
頼河は、少年たちの横から迫るトラックに気づいていた。
間に合わない。彼らがこちら側に渡り切る直前に、丁度トラックと衝突する。
それに気づいた。
トラックが少年たちに気づき、急ブレーキを踏む。
少年たちがトラックに気づき、地面を蹴って駆け抜けようとする。
前を走る少年は間に合った。しかし、後ろを走っていたもう一人は……。
呆然と見ていた頼河に、怯え切った目をした彼が。
手を伸ばした気がした。
頼河は咄嗟に一歩踏み出し、その手を掴んでいた。
力いっぱい引くのと同時に、自分の体が道路側に投げ出されるのを感じた。
そして。
スローモーションだった世界が、痛みと衝撃とともに元に戻る。
痛みはない。怖いほどに痛くない。ただ自分の足が目の前にあり、地面は自分の耳に張り付いていた。
赤というよりは黒い液体が、自分を中心に広がるのを感じた。温かくも冷たくもない、ただただ粘り気のある赤黒い液体。当然だ。それは自分と全く同じ温度なのだから。
薄れゆく意識の中で、頼河は聞いた。
「救急車呼べ!」「これもう死んでるよ」「事故だ!」「きもっ」「うわ、初めて見た」「警察を……」「写真撮るなよ!」「人が死んでる!」「おい!信号見たよな!青だったぞ!俺は悪くない!」「学生が飛び出したんだ」「とにかく警察だよ」「ちがう!俺たちが飛び出したんじゃない!こいつが自殺しようとしてたのを止めようとしたんだ!」
(何のために俺はこんなことを……)
自分でも分からない。
正義感じゃない。本能ですらない。ただ思考が停止して、気づいたら助けていた。
しかし。
(こんな死に方、ないぞ)
誰からもモノのように見られながら、指一本動かすこともできず、助けた人間からも裏切られて、自殺したことにされるのか。人を助けたことなど、誰にも気づかれず。
頼河は死ぬことを特別怖いと思ったことはなかった。いつ死んでもいいと思っていた。しかしこれほどまでに救いのない最期があるなど、考えもしなかった。
(死にたくない)
泣けたら泣いただろう。叫べたら叫んだだろう。
しかし今の彼にはそれすらできない。
ただ虚ろな目で野次馬を見ている。
(死にたくない。このままここでは死にたくない)
神様、と彼は祈る。
(もし生き返ったら、もうこんな人生は繰り返さない。力を持つ。どんな相手にも屈しない力を持って、助けるべき人間だけを助ける。自分を信じ、悪を滅ぼす。そんな、物語の主人公のような生き方を……)
だからどうかもう一度、と。
そこで、彼の人生は終わる。
はずだった。