人生経験装置
1
その店は薄暗い路地にあった。
闇人生経験屋は雑居ビルの4階に入っており、かびの生えたビルの外壁には、スプレーにより芸術性のかけらもない落書きが施されていた。
新島透は怖じ気づく心を無理矢理奮い立たせると、その表札も掲げられていないドアをノックして店内に入った。
「新島様ですね。おまちしておりました」
白髯の老人が立ち上がり一礼した。
透が無言で鞄の中から帯封の付いた札束を取り出すと、老人は頷き奥の部屋へ案内した。
人生経験装置は、歯医者によくあるような治療イスとヘルメット型の出力機。そしてモニターの三点セットで構成されている。
透は促されるままイスに座り、ヘルメットを被った。
「……本当に、24万Pの苦労記憶なんでしょうね」
彼は緊張で早口になりながら尋ねた。
「一般に出回ってるのは4万Pまでだ。それも一生で一回しか使用できないよう規制されているのに」
「体験すれば、その価値が分かりますよ」
老人は透をなだめるように言った。
「人生が変わります。人間的な成長は勿論、24万Pもあれば職業だって選び放題ですよ」
透は唾を飲み込んだ。
〈これは過去の自分に対する罰なんだ……。苦労してこなかった自分に対する〉
社会が成熟し、平和な生活を皆が享受するようになった頃、一つの問題が繰り返し提起されるようになった。それが『苦労を知らない若者が増えた事による、社会人の質の低下』だった。
問題を解決すべく、ある方法が開発された。
人工的に合成された『苦労』の記憶を若者に与えることにより、人間的な成長を促す仕組み……。
『人生経験装置』という名のその装置は、あっという間に社会に浸透した。
人生経験装置を通して『苦労』を追体験することにより、『人生経験P』と呼ばれるその値は与えられた。
『苦労』の大きさによりポイントは定まっており、いつの間にかそれは就職や転職の際に最重要視されるものとなっていった。
学生の頃、周りがせっせと人生経験Pを貯めている間も『苦労』から逃げ回っていた透は、結果的に低P所持者となり、就職先が見つからず絶望していた。
この状況から一発逆転するには、闇マーケットで高Pの苦労記憶を手に入れるしかない。思い詰めた透は全財産を携えて、今日、店にやってきたのだった。
「こんな世の中間違ってる。そうは思いませんか。苦労しないと評価されないなんて。だってそもそも、しなくてもいい苦労なんですよ」
手足をイスに拘束された透は、まるで俎上の魚が板前に懇願するかのようにささやいた。
「世知辛いけれど、しょうがない。それより気を引き締めてくださいよ。何しろ24万P分の『苦労』を今からするんだから」
「そんな……。脅さないでくださいよ。死ぬわけじゃないんだから」
透は引き攣った笑いを浮かべた。
だが老人は無感動にこう告げた。
「むしろ死ねたらいいって、思うかもしれないねぇ」
え、それってどういう、と透は尋ねようとしたが、老人が装置のスイッチを入れるほうが早かった。
彼の脳内に、ある苦労記憶が再生された。
***
気が付くと彼は戦場にいた。
夜だったがひっきりなしに空爆されており、瓦礫の山と化した戦場は昼のように明るかった。雹が降り注ぐような自動小銃の銃声と、怪我人の呻き声、敵方のスピーカーから延々と垂れ流されるプロパガンダが全てまぜこぜになり、爆音となって透の脳を揺さぶった。目の前で部下が地雷を踏み、肉片となって飛び散った。左手では内臓のはみ出した戦友が、母親の名を連呼している。恐怖で硬直した透は後頭部を殴られ、その場に崩れ落ちた。
意識を取り戻すと、彼は鎖で吊されていた。突然激痛が襲った。焼けた鉄棒を背中に押しつけられたのだった。
捕虜となった透の目の前で、敵の兵隊は拷問道具をずらっと並べて見せた。鋸のようなナイフ。歯を抜く形状のペンチ。皮を剥ぐようなかんなに似た道具すらあった。透はもがいたが、いよいよ鎖が肉に食い込むだけだった。
「全部の道具ヲ、順ニ使ってユく」
片言の言葉が聞こえた。敵兵はにやりと笑って言った。
「おまえはどこマデ、耐えられるかナ……」
***
再生が終わり、ヘルメットを取り外された透は、まだガクガクと震えていた。蛍光灯の眩しさに思わず目を細めた。
歯の根が合わなかった。ひどく喉が渇いていた。
「……一体、何年経った?」
「ホホホ。10分しか経っておりませんよ」
老人は笑って答えた。
「いい面構えになりましたね。『苦労』を経験した者の顔だ」
渡された手鏡でを見ると、見慣れぬ男が映っていた。
それは確かに自分だったが、どこかが変わってしまっていた。
そうして透は24万Pの人生経験値を手にし、店を後にしたのだった。
2
「きみのような優秀な若者がウチに来てくれて、本当に嬉しいよ」
上司である瀬川が、頬の肉を震わせながら言った。
透は都内の一等地に自社ビルを構える有名企業、三住証券に勤務し始めていた。
「きみの前任者は、二ヶ月前急に鬱になっちゃってねぇ。苦労記憶が体に合わなかったって診断書に書いてあったみたいだけど、なんていうか、甘いよね。だって13万Pだよ? 大したこと無いでしょう。その点きみは24万P取れるような人材だから、うちとしても安心できるよね」
「ありがとうございます。ご期待に添えるよう、精進します」
痩せて彫りの深くなった透の顔を、瀬川は満足げに眺めた。
「やっぱり苦労した者は面構えが違うな。うちにふさわしい。ま、よろしく頼むよ!」
入社から半年が経った。
透はめきめきと頭角を現し、上司に気に入られ、出世街道を邁進していた。
いつも通り夜遅くまで残業し、日付が変わった頃自宅に戻った透は、一週間振りにテレビを付けてみた。
《高人生経験者優遇禁止法、可決》
文字が画面に躍っていた。思わずリモコンで音量を上げた。
『――本日国会にて可決された優遇禁止法は、今まで重要視されていた人生経験Pの就労時確認等を禁止するものであり、経済界から非難の声が上がっていますが、厚生労働省によるとこれまでに約5万人が苦労記憶による心身の不調を訴えており、二十代の自殺者数は十年前と比べると8パーセント上昇……』
透は唖然とした。
「は? なんだこれ」
無意識につぶやいていた。
「うそだよな」
だが透の期待も空しくニュースは続き、健康に害があることから人生経験P制が実質廃止されるという旨の報道がなされていた。
つまり、来年の採用からは、過去行われていたような旧式の入社テストしか行われないということだ。
文字通り『苦労』を否定された気がして、透は衝動的にクッションを殴った。無性に腹が立っていた。
だったらいったい、俺は何のためにあんな苦労をしたのか……。
だが本当に大変だったのは、透の下に新人が配属された、それから約一年後のことだった。
3
透は新人に渡されたビニール袋の中身を見るなり、血圧が急上昇するのを感じた。
「おい野田! おまえなんでジュースばっかり買ってんだよ!!」
「え、すみません。『何でもいい』と仰ったので、つい……」
「ハァ? 普通に考えりゃ分かるだろ。おれは会議用の飲み物買ってこいって言ったの。ジュース買うバカがいるかよ。おまえ本ッ当に使えねぇな!」
大学を出たての野田は涙ぐみ、もう一度コンビニに走っていった。
「ヤバいね。今年の新人」
上司の瀬川が団扇で顔を扇ぎながら言った。
「新島ちゃん。やっぱり人生経験P、重要だったとしみじみ思うわ」
透は賛同するようにため息をついた。
「ですよね。異常に打たれ弱いんですよ。あんなんで泣きます? 普通」
野田は、本当に使えない女だった。
有名大学を出たのかSPIが良かったのか知らないが、温室育ちはこれだから困るのだ。
野田がへらへら笑っていると、透は不愉快な気持ちになった。仕事も満足に出来ないのに、笑うんじゃない苦労知らずが、と思った。そして実際にそう口にした。こいつはあの苦労を知らずに、おれと同じ会社に入り、同じ給料を貰うのだ。そう考えると背中がむずむずして、また血圧が上がった。
透に叱責されると野田はいつもビクッと身を震わせて涙ぐんでいたが、いつの間にか無表情になり、虚ろな目つきをするようになっていった。
それがまた気に入らなかった。
「おまえのした苦労なんて、おれの苦労に比べれば、物の数に入らねぇんだよ!」
透は空爆の轟音を、身を突き刺す刃物の感覚を(正確にはその記憶を)思い出しながら怒鳴った。
「そうやって傷ついた振りでもしてろ。それで仕事が出来るようになるならな!」
いつものように『厳しく指導』した翌日、野田は会社に来なかった。
「これだから嫌になっちゃうよね。最近の若者は。ぼくんところも山下のチームも何人か辞めたし、野田もヤバそうだよね」
瀬川が薄ら笑いを浮かべながら言った。
午後、野田の親から電話が掛かってきた。偶然電話を取った瀬川は、普段は出さない猫なで声で応対すると、受話器を置き、青ざめた顔を透に向けた。
「……野田、自殺未遂して病院に運ばれたって」
透は衝撃を受けた。次に気分が悪くなった。吐き気がこみ上げ、罪悪感が喉元までせりあがってきた。
〈おれのせい……なのか?〉
彼は会社を飛び出し、人が行き交う渋谷のスクランブル交差点をぼうっと眺めていた。
〈いや。おれのせいじゃない。現に、おれは生き延びたじゃないか。野田が甘すぎるんだ〉
ふと視線を上げると、ビルに取り付けられた電光掲示板では、TV特番が放映されていた。
奇しくもそれは透が高人生経験者優遇禁止法の成立を知った、あのニュース番組だった。
『――このように、人生経験P制が廃止され、苦労記憶の追体験が禁止されて一年が経った訳ですが、自殺者数は相変わらず増え続けています。心理カウンセラーでもある鈴木さんは、どのように考えておられますか?』
進行役のアナウンサーが眼鏡をかけた男性に尋ねた。
『そうですね。若者の精神的な負荷は以前より確実に減っている筈なのですが、それが数値に表れていない。むしろ逆に悪化しているという状況ですよね』
『つまり、原因は他にあったと』
『そうですね……。原因と言えるかどうかは分かりませんが、何人かと面談する内に、以前と比べてナイーブな子が増えたなという印象は受けました』
アナウンサーは神妙な顔をして頷いてみせた。
『ということはやはり「苦労」体験をしていないから、弱くなってしまったということでしょうか』
スタジオの心理カウンセラーは、眉根に皺を寄せて、慇懃に頷き返した。
『そうですね。打たれ弱い若者が増えたことは事実でしょうね。滅菌室で育てた子供が風邪を引きやすいという現象もありますから』
スタジオに呼ばれていた、恰幅の良い政治家が横から口を出した。
『要するに、苦労が足らんのですよ』
がらがらした大きな声が響いた。
『我々の若い頃はね、苦労は買ってでもしろと口酸っぱく言われていたもんですから。最近の若者は本当に、根性がない。誰かが厳しくしないと駄目ですね』――
信号が青になった。
透の胸のもやもやは、雲がはけて蒼天が見えた時のように、いつのまにか消え去っていた。
やはり自分は正しかったのだという確信が、清涼な風となって体内を吹き抜けていった。
〈そうだ。野田を見舞ってやろう。あいつも反省しているだろうから……〉
自らの思いつきに気を良くした透は、軽やかな足取りで横断歩道を渡っていった。
《 了 》