辞令
「やぁ。おはよう、クラウド。よく来てくれた。まぁ、そこへ掛けたまえ」
予定通り、クラウドは9時に労務管理班にやって来た。
「何か・・・お話が?」
「うん、実はな・・・異例中の異例で私としても経験が無いんだが、君に早くも『辞令』が出てるんだ」
担当の男が書類をしきりに捲っている。
「辞令・・・?僕は、まだ2日目ですけど・・・」
困惑するクラウドに、担当は首を傾げながら言った。
「だよなぁ。だから、かなりの『異例』なんだ。・・・で、着任先なんだが・・・」
担当は、やや口ごもってから続けた。
「火星地上本部なんだ」
「ええっ!」
素っ頓狂な声を挙げて、クラウドが驚く
「火星ですか!」
「うん・・いや、まぁ・・・そうなんだ、うん。何しろ、辞令にはそう書いてある」
担当はクラウドの顔を見ようとしない。何しろ時期が時期だ。
『そりゃ火星には行きたいけど、今はチョット(グリーンが怖い)な』というのが、新入生の間でも『総意』と言っていいだろう。そりゃ、言いにくいのも仕方あるまい。
「いや、しかし・・・ダックスさんの話では、少なくとも半年間は此処で訓練を受けて、それからインターンで各部署を周り、その後に正式配属だと」
クラウドとしても正直な話、いきなり『行け』と言われて『はい、そうですか』で役に立つとは到底思えない。姉なら話は別かも知れないが。
「うん。無論、『明日から』とは流石に行かない。準備が要るからね。最低限の防疫や放射線対策、健康診断なんかは必須だよ?それに今日・明日で火星行きの便があるワケでもない。だから、正確には到着するのは1ヶ月先になると思ってくれ」
1ヶ月・・・いやいや、それはいくら何でも急過ぎないか?何をそうも焦っているんだ?クラウドは不安になった。
「では、その1ヶ月間は此処で研修の続きを?」
「いや。直ちに此処を引き払って資源調達本部に移動して欲しい。手続きやら何やらで、忙しい筈だ。何しろ急ごしらえだからさ。最低限の教育も要るだろうし。それに、火星への便の搭乗までは月の前線基地で待機になる」
「月・・・!ですか」
そう言えば、月に行くのも修学旅行以来だ。あの時は観光船だった記憶だが。
「資源調達本部は此処から数千km離れているけど心配はない。此処とは次元短絡路で繋がってるから、すぐに移動は出来る。案内はタンゴに聞いてくれ。あ、この書類を渡しておくから」
「あの・・・」
そう言って席を立とうとする担当の男を、クラウドが呼び止める。
「少し聞いていいですか?前から疑問だったんですが」
「何だい?クラウド」
男は座り直した。
「・・・何で地球上の遠距離移動には次元短絡路があるのに、惑星間には無いんですか?惑星間こそ必要だと思うんですが」
「うーん。ああ、そうか。君はまだ次元物理学の講義を受けてないんだったな」
うんうんと頷きながら、男はクラウドに説明を始めた。
「私も物理学は専門じゃないから、細かい理論は分からないが・・・そもそもゲートの基本原理は知っているかい?」
あれは・・確か、テレビで紹介されていたのを見たな。と、クラウドは記憶を辿った。
「ええっと、確か『量子もつれ』なんですよね?基本原理は」
「ああ、そうだ」
「ううんと・・・AとBで対になる2つの『ゲート』を量子レベルで『もつれ』状態にすると、A・B間がどれだけ離れても量子レベルで『隣り合わせ』になるので、2つの空間を『短絡』させられると聞いた覚えがあります」
「その通りだよ。基本的にはその原理だ」
担当者は大きく頷いた。
「つまり、3次元上での移動を一瞬だけ4次元上での移動に置き換え、相手先に到達した瞬間に3次元座標へ戻す仕組みだ。この技術は2400年代頃から基礎研究されている分野だからねぇ」
「なのに・・・惑星間はダメなんですか?」
クラウドは質問を繰り返した。
「そう、ダメなんだ。というか『簡単じゃない』。この技術もそうそう良いことばかりじゃないんだよ。実はその『2つの空間』というところがミソでね」
いたずらっぽく男は笑う。多分、今日の彼はそれほど忙しくないのだろう。余裕があるというか。
「此処で言う『2つの空間』というのは実は『ゲートがある場所』ではなく、宇宙の『絶対座標系上での空間位置』なのさ」
「絶対座標・・・ですか」
男は机の上にあったペンを指差して見せた。
「ああ。何しろ地球は自転してるし、公転もしてる。太陽系はそれ自体が天の川銀河の外縁を公転してるし、天の川銀河そのものも常に移動している。すると、こうして『静止』しているように見えるペンも、実は複雑な軌道を描きながら宇宙空間を移動していると言えるんだ」
なるほど、大きく言えばその通りだろうと、クラウドは感心した。
「すると、折角『空間同士を接続』しても、次の瞬間には『その空間座標』は2つともゲートのある位置から離れてしまうんだ。分かるかい?」
「はい、とりあえずは・・・」
「しかし、だ。この2つのゲートが『常に同じ数式で表される移動関係にある』にある場合は別だ。常にその両者・・・というか理論的には『同じ位置』なんだが・・の位置を絶えず補正し続けることで短絡状態を維持する事が可能なのさ。それが次元短絡路なんだ」
「つまり、こういう事ですか?」
クラウドはやっと、理解が出来た気がする。
「例えば地球と火星は公転軌道や公転速度が違うから『同じ数式で表す事ができない』と。だからゲートが使えない・・・」
「理解してもらえる説明が出来て、私もうれしいよ?」
男はクラウドに握手を求めた。
「だが『だから』と言って、オリジン12の頃みたいに半年もかけて宇宙旅行する必要は無い。・・・今は650年前とは違うからね。
地球軌道から少し離れた位置に、火星と同じ公転速度で周回する『火星移動用ゲート』がある。これが地球に接近した時を狙って、そいつに『飛び込む』んだ。そしたら、一気に火星の直近へ到達出来る」
『今日・明日の便はない』というのは、そういう意味かと、クラウドは納得した。
「じゃぁ『1ヶ月先』というのは、その『火星移動用ゲート』が『地球の近くまで来る』のを待つ、という意味ですか?」
「そうだよ。実は、あまり公にはしていないが『火星移動用ゲート』は4つあってね。だから3ヶ月に1回づつ、往復の便が出るんだ」
姉のシーガルが実家に連絡を寄越す時に『簡単には帰れない』とボヤいてるのはそういう事だったのか、とクラウドは思い返した。
その頃、研修室で新人を相手にしていたダックスはチラっと時計を見た。
午前9時10分。
ここでの規則では人事辞令について本人通達後10分したら、辞令内容を公開して良いことになっている。
「・・突然ですが皆さん、ひとつ連絡があります。聞いてください」
唐突な話の変化に、新人達が変な顔をする。
「昨日まで・・というか昨日一日だけでしたが・・・一緒に研修を受けた『クラウド』君は急遽、火星本部に招集されることになりました。詳しい理由は私には分かりませんが、とにかく今日からは別行動になります」
ええっーー!
教室中に驚きの声が一斉に上がる。
「ちょっ・・・そんな話『ある』んかよ!」
サンダーが思わず立ち上がった。
「・・・前例のない話だと思うわ。とりあえず、私も聞いた事がないから」
正直な話、ダックスも困惑していた。
いくら欠員があるにしろ、『事故』があった直後だ。本人に充分な説明や承諾の時間があったとも思えない。半ば『無理矢理』に『最も断りづらいであろう人選をした』のは容易に想像が着くというものだ。
こういう事が『前例』として残るのは極めて危険だと、ダックスは不満に思っていた。
「で、でもね。ここまで極端な話はフェニックス始まって以来無かった事なの。だから、そんなに心配は・・・」
新入生達をなだめようとするダックスを、サンダーが大きな独り言で遮った。
「くっ・・・そー!オレも行きたかったなぁ・・・チクショウめ!やはり『コネ』は強いかぁ・・・」
不服そうに座り込むサンダーの肩を、レインボゥがポンと軽く叩いた。
「大丈夫、すぐに行けるわよ。いいんじゃない?『向こう』に行ったときに知った顔が居るのは。きっと、心強いと思うわ?あーあ、私も早く火星に行きたいなぁ・・・」
そう言って幸せそうに微笑むレインボゥの顔を見て、ダックスは少々戸惑っていた。
如何にも無神経そうなサンダーが『事故』をものともせずに火星に行きたがるのは、まだ分からなくもない。
しかし、押しただけでポキっと折れそうなほど儚げなレインボゥまでが『火星に行きたい』というのは、どういう心境なんだろうか?・・・天然なのか、或いは神経が意外と図太いのか・・・?
クラウドの件といい『今年は良く分からない事が多い』と、ダックスは密かに溜息をついた。
「量子もつれ」というのは面白い現象ですね。
1対の「もつれ」状態になった電子などの量子は、2つの間がどれだけ離れても相手の状態を知る事が出来るのです。それも瞬時に。いわゆる量子テレポーテーションというヤツです。
その反応速度は光よりも早いため、光や電気信号などを媒介しているのでは無い事が分かっています。
では、どうやって2つは相手の状態を知るのでしょうか?
仮に「何かある」のだとしたら、それはもしかすると我々人類が知覚出来ていない「未知の次元」での繋がりかも知れません。この話では、それを「4次元上でのつながり」としました。
なお、この物語では、あえて「時間」を軸(次元)として扱っていません。その理由はまた何れ、機会のあるときに・・・