離岸
「AI、人工頭脳、接続確認OK?」
"こちらリッシュ、接続良好。船体に問題を認めません"
"同じくヴィーナス、接続良好。航路、空港を含めて問題を認めません"
操縦士が出航のシークエンスに取り掛かっている。
操縦士だけではない。副操縦士と航空機関士の2人も、それぞれの確認作業に追われている。その間、クラウドとアクアマリンの二人は、コクピット後方の専用シートに防護スーツごと固定されているので、じっとしているしかない。
「・・・操縦士さん達ですけど」
クラウドが皆の邪魔にならないように小声でアクアマリンに話しかける。
「何?」
「どうして彼女たちは防護スーツを着てないんです?」
「ああ、それか」
スーツのヘルメット越しにアクアマリンが笑う。
「彼女たちは月までしか行かないからね。防護スーツが必要なのは火星に降り立つクルーだけさ。私の場合はサテライト勤務だけど、何かの事情で突然に地上勤務になる可能性があるから防護スーツを着てるけどね」
つまり、月はそこまで防疫を考える場所ではないという事だ。確かに、月にはウサギはおろか人工生物は居ないのだから、そこまで気を遣う必要はないのかも知れない。
「そう言えば、僕が旅行で月に行ったときも『こんな服』はありませんでした」
「だろうね。月も昔と違って観光地として利用されているし。特に景色の良い地球側の面はいい加減だよね。もっとも、我々が行くのは反地球側だから・・・地球が見れないのは少し残念かな?」
月は地球の強い重力によって『潮汐ロック』されている。これによって月は同じ面だけを地球に向けて自転するのだ。
いわゆる『地球側』は観光地として利用され、『反地球側』は太陽系へ向かう宇宙船の基地として利用されている。これは、その方が宇宙へ出入りやすい、という利点もあるからだ。
出航シークエンスは続いている。
「重粒子偏流加速器、加速開始」
「了解。No1からNo10まで、加速開始」
操縦士の合図に機関士が応える。
ヴィィィィィン・・・という低い唸り音がコクピットにも響いてくる。
「加速、順調です。・・・重粒子最大光速度率5%・・・10%・・・15%まで上昇。偏流率は現在、13.25%。そろそろ『浮き』ます」
機関士がモニターの数値を読み上げている。
「船体荷重計、マイナス0.001%を計測」
副操縦士から操縦士に報告が入る。荷重にマイナスの数値が出たということは、船体が浮きかけている事を示す証拠だ。
「・・・管制ブリッジ聞こえますか?ヴィーナス、船体固定ロックの解除をお願いします!」
すかさず、操縦士から指示が出る。
"こちらヴィーナス。船体固定ロックを解除します。出航してください"
出航シークエンスも佳境に入っている。コクピットに緊張感が漂う。
ドドン!ドドン!と足元の遥か下の方で大きな音がする。巨大な船体を固定するロックが外れる音だ。
「重粒子偏流加速器、加速度を上げてください」
「了解。加速度をあげます・・・」
操縦士の指示で、機関士が設定を上げていく。
「重粒子最大光速度率・・・30%・・・40%・・・60%・・・」
先程まで低い唸り音だったものが、キィィィィィン!と高い音に変わっているのが分かる。
「・・・85%・・・・90%・・・95%・・・重粒子最大光速度率98%、偏流率99%・・・準備OKです」
機関士が操縦士の方を向く。
「船体荷重計、マイナス100.0%を計測。無重力状態に入りました」
副操縦士の方も操縦士の方を向いた。
「スラスター、出力開始。上昇・・・クリスティアン・ホイヘンス級3番艦、出航します!」
操縦士が出航を宣言する。
『無重力』というのは、重力に斥力を行使して反発することではない。分かりやすく言うなら『超・低重力状態』を人為的に作り出すものだ。言わば、塩湖に身体を浮かべるようなものだから、推進力そのものは別に必要となる。
「よぉ!居るかぁ?クラウドぉ!」
突如として、コクピット内に無線を通じて大声が響き渡る。聞き覚えのある声、アルバトロス部隊長だ。
「部隊長っ!ビックリさせないで下さい!」
操縦士がアルバトロスをたしなめる。
「出航シークエンスの途中ですよっ?それを途中で・・・」
「はははは!悪りぃ、悪りぃ。まぁ、オメーなら大丈夫だろ。それより、クラウドは居るかぁ?」
尚も文句を言いたそうな操縦士の声を遮り、アルバトロスが尋ねてくる。
「はいっ!搭乗してます」
意外な声に驚きながらも、クラウドが返事をする。
「そうか、そうか。頼まれ物の荷物も間に合ったしよぉ、シーガルにもヨロシク言っといてくれ。じゃぁな!」
「あ、はい!分かりまし・・・」
クラウドの返事の途中で、無線は切れた。或いは操縦士が手動で回線を切断したのかも知れない。だとしても、出航途中であることを考えれば妥当な判断と言えるだろう。
「リッシュ!危ない真似をさせないでください!」
操縦士はまだ怒っている。
"無線の接続ですか?失礼しました。ですが、私は部隊長の指揮下に位置しますから。命令の優先権は部隊長にあります"
リッシュが冷静に答える。確かに、緊急時においては人間が優先権を持っていないと想定外の事態に対応が出来ないが・・・
「・・・スラスター、出力上昇っ!姿勢制御に専念してくださいっ」
笑いを堪えている機関士と副操縦士を横目に、操縦士はまだ不服そうだった。
「・・完全自動操縦では無いんですね?」
クラウドが先程よりも更に小声でアクアマリンに尋ねる。
「ああ、そうだね。操艦の大抵は船に専属するAIが対応してくれるんだけどね。重粒子偏流加速器だけは人手でないとダメなんだ。今はかなり改善されたらしいけど、それでも不用意に調整すると『理解しがたい事態』になるらしい」
そう言えば以前にアクアマリンが『第Ⅱ世代機は色々あって』と話をしていたな、とクラウドは思い出した。
「そういった事態は『予兆』みたいなものがあってね。人間には『それ』が分かるんだけど、機械には『イヤな予感』なんていうセンサーは無いからさ。人間がやった方が間違い無いんだよ」
クラウド達を乗せた無重力搬送船は船体の光化冷却の効果によって眩しく輝きながら、ゆっくりと上昇を続け、月へと向かって進み始めた。