準備
クラウドが午後の処置を終え、リッカの案内で防護ルームに入ったのは夕刻に迫る頃だった。
中にはひとり、すでに先客が居た。『もう一人追加になった』というクルーだろう。というか、クラウドにとっては『直感が当たったな』と感じたが。
「やぁ。先に来させて貰ってたよ。調子はどうだい?」
先客はそう言って、にこやかに笑い掛ける。
「・・・やはり、アクアマリンさんでしたか。誰が同乗なのかは聞いてませんでしたが、何か・・・そんな気がしてましたから」
クラウドが椅子に腰掛ける。
「うん。まぁね。色々あって私も火星に行くことになったんだ。と、言っても地上ではなくサテライトの方だけど」
少し、照れたような顔をアクアマリンが浮かべる。
「そうなんですか・・・でも『火星には誰も行きたがら無い』って聞きましたけど?いいんですか?」
クラウドの問にアクアマリンは少々困惑したような表情をする。
「そうなんだけど・・・欠員が、ね。君は聞いてないかも知れないが『例の事故』があった時に、死亡したクルーとは別に『もう一人』、事故に遭遇して怪我をした人が居るんだ」
思い返すと、確かにダックスさんが『後輩をかばって』と話をしていた記憶がある。
「聞いた覚えがあります」
「そうか。実はその人は事故の後に『地上勤務の継続不可』ということで、サテライトの通信班に異動になっていたんだって。でも、やはりPTSDが酷いらしくて・・・結局、地球に帰還することになったんだ。その『代役』だよ、私は」
心なしか、アクアマリンの顔が寂しそうに見える。
「しかし・・・アクアマリンさんは良いんですか?いや、あの、『特殊な仕事』だって叔父に・・・あ、叔父が火星に居るんですが、聞いたものですから」
クラウドが、おずおずと尋ねる。
「ああ、防災対応班のシバ班長が君の叔父なんだってね。リッカに聞いたよ。まぁ・・・何というか・・・その役目も『疲れた』とは言わないけどね。うーん、『気分転嫁』も・・・必要かなって?」
そう語るアクアマリンの表情には、明らかな作り笑いが見てとれた。
「・・・いや、まぁ、その話はいいや。それよりも今は『これ』だ。はい、君の分」
アクアマリンがクラウドにバインダーを手渡す。
「何ですか、これ?」
「『宇宙航海承諾書』だよ。早い話が『事故で死んでも文句は言いません』というヤツだね。ま、フェニックスのアリバイ作りさ」
そう言いながら、アクアマリンは自身の承諾書に必要事項を記入する作業に戻っていた。
「紙ですか・・・生体認証とかでなくて?」
クラウドが怪訝そうな顔をする。
「裁判になるとね・・・『署名』は絶対らしいよ?紙に残る『筆圧や加速度』は他人が真似できるものではないけれど、生体認証はどうしても数億人に一人くらいは『酷似』した人が居るから、絶対の証拠とは言えないんだって」
「そうですか・・・」
クラウドは自分のバインダーに必要事項を書き込み始めた。どの道、此処まで来た限りには『行く』しかないのだから。
次の日。
防護スーツに身を包み、アクアマリンとクラウドは管制ブリッジに入った。
「お疲れ様です。では、今から船の方に行きますから私と一緒に来てください」
若い女性クルーが、そう言って二人の前を歩きだした。ある意味、人間が案内するというのも珍しい話だ。そういう事はAIに任せておくのが一般的だし、此処に来てかも大抵はAIが道案内をしてくれた。
「あの・・・良ければ僕らだけで行きますけど?」
クラウドの提案に彼女が笑った。
「いえいえ、そうは行きませんよ?何しろ操縦士が行かないと、船を出航させられませんから」
「凄い!あなたが操縦士ですか!」
アクアマリンが声を上げる。
「性別はともかく、その若さで操縦士は中々居ませんよ?実に素晴らしい」
そう言えばアクアマリンは『操縦士になりたかった』と話をしていたと思う。
「ええ。トシの話はともかくとして・・・月と地球の間のシャトル便はそれほど資格も難しく無いので、何とか。それに、大抵の細かい仕事はAIがしてくれますし、全ての航海は人工頭脳の『ヴィーナス』が監視してますから。大丈夫ですよ?」
そう言って振り返る彼女の口元には確固たる自信に満ちていた。言葉はともかく、それなりの経験に裏打ちされているのだろう。
「アナタ方ふたりは私と一緒に、コクピットへ入ってもらいます。他の荷物は昨日のうちに積み込んだと聞いてますので、船はあと2時間ほどで出航しますから」
彼女は再び前を向いて、やや早歩きで歩み始めた。
「・・・彼女はあんな事を言っているけど」
アクアマリンが小声でクラウドに話しかける。
「操縦士のライセンスは決して簡単じゃないんだ。普段はいいとしても、問題は緊急時だよ。何か問題が起きたときに、AIが頼れない事だってある。そうした時には操縦士が手動で全てをコントロールしなくちゃいけないからね。知識・技術・精神力が問われるんだ」
「・・・でしょうね」
クラウドは尊敬の念を込めて、彼女の背中を見つめた。
「さ、着いたわよ。二人ともこっちに来て」
先行していた彼女がクラウド達をデッキへ手招きした。
「未来は人間の代わりにロボットが働く」
そう予言する人は多いです。
しかし、その「ロボット」いったい、いくらするんでしょうか?
もしも現在の貨幣価値で1台が1億円とかだったら。
「人間の方が安くね?」という事態もありうるでしょう。要するに費用対効果なんです。
その費用に勝るだけの効果が得られる範囲に、ロボットは投入されると思います。
となると、高度な政治判断や機械整備のような機微を必要とする分野は難しいのでは?というか、人間がやった方が普通に確実で早いとなれば、そこは人間の出番でしょうね。やっぱり。