防疫
19世紀から20世紀頃のことだ。
探検家達はアマゾンの奥地に出かけ『イゾラド』と呼ばれる、文明から完全に切り離され、原始時代と変わらぬ狩猟生活をしている原住民部族との接触を試みていた。
そうした人種と文明人が接触する場合、最も注意するべき点は『雑菌』なのだ。
都会に居て様々な雑菌に耐性がある『探検家』には何とも無い『雑菌』でも、それらに全く耐性がない人達には致命傷になる。ヘタをすれば、その部族そのものを全滅させかねない。実際、それで幾つかの部族がこの世から消えている。
火星の場合においても『それ』は同じである。
この場所に自然発生的な生物は居ない。全てがDNAをデザインされた『人工生物』だ。これらのDNA設計にはその作用が理解されている限りのデータしか反映されていない。そのため、意図しない雑菌が侵入して繁殖することは耐性の観点から生態系に大ダメージを与えかねないリスクがある。
そこで、火星へ出るクルー達には一様に防疫処理が行われる。
防疫処理には2段階あって、地球上ではインフルエンザなどの人類にも直接に強い影響があるものを除菌する。そして2段階目として月の前線基地では、更に皮膚や髪の毛に付着した雑菌に至るまで精密な除菌を行うシステムだ。
メディカル・チェックはそれだけではない。
病気と名がつく病気は全て、体内に潜んでいないかを徹底的にチェックされ、発見されれば治療が行われる。無論、現地にも医療チームは居るが現地作業に必要なクルーは最低限しか居ない。病気治療で戦列を離れる事は極力、避けるべきなのだ。
検査では遺伝子チェックも行われる。これによって数年以内に発症するリスクが高い遺伝上の病気についてもDNAの欠陥情報を補正する処置をするのだ。
もうひとつ。宇宙に出るについては重要な処置がある。
『宇宙放射線耐性』だ。
火星には磁場が無いので僅かだが放射線の影響は地球よりも強い。また、宇宙空間に滞在している時は更に強い放射線に晒されるのだ。
この状態で長期間暴露すると、放射線がDNAの2重螺旋を次々と寸断してしまうので、悪性腫瘍など深刻な病気を発症するリスクが高まるとされる。
そこで、宇宙で仕事をするクルー達には『寸断されたDANを自己修復する』特殊なDNAが注入されるのだ。
こうした処置が完了する事によって、クルー達は初めて宇宙に出る事が許可される。
クラウドは1週間をこれらの処置のために、資源調達本部の防疫センターで缶詰になっていた。
今ではDNA施術の歴史も長くなっているので昔ほど副作用は無いとは言え『DNAを触る』というのは、決して身体に負担が無いワケではない。
特に言われるのが『人格に影響が出る』という副作用だ。
病理学上は単なる『遺伝子の欠陥』にしか見えない部分が、実はその人の人格に大きく影響を及ぼしている場合がある。それらを100%事前に把握するのは現代医学でも困難なのだそうだ。
「・・・如何ですか?クラウド。お加減のほどは?」
医療スタッフがベッドで休むクラウドに声を掛ける。
「はい・・・何だかヘンな気分です。何だか、他人の身体を使ってるみたいで」
クラウドが億劫そうに身体を起こす。
「ははは、そうですか。皆さん良く言われますね、それは。でも大丈夫。すぐに慣れますから、心配は要りませんよ?」
医療スタッフはそう言って笑って見せた。
「DNAを触っているので、身体の動く感覚と実際の動作との間に若干の『差』が出来るんです。それが『違和感』の正体なので、慣れればチャンと補正されますから」
「そうですか・・・」
クラウドは右手の指を開いたり閉じたりしながら、感触を確かめていた。なるほど、昨日の施術直後よりはマシになっている気がする。
『現代治療の最終兵器』と言われるDNA施術だが、この時代でもそれは最終手段と言われるのが理解出来る。
『人格に変化が出る』というのは他人になってしまう様で心細いものだ。人によっては、それまで得意だった楽器が全くダメになってしまったり、逆に暗記が苦手だったのに、それが得意になったりする極端なケースもあるらしい。
「ところで、クラウド。これからのスケジュールなんだけど、いいかな?」
「あっ!はい」
医療スタッフの問いかけにクラウドが我に返る。
「とりあえず、午後の除菌処理が終わったら今晩は防護ルームで待機になる。折角、除菌したのにウロウロしたら雑菌を取り込んでしまうからね。それで明朝は防護スーツに着替えてもらったら、管制ブリッジに直行してくれ。時間になったらリッカが案内するから、そのまま乗船だ。いよいよ月の前線基地だよ」
『ついに、やったな』といように、スタッフが軽くクラウドの背中を叩く。
「何か・・・突然過ぎて、チョット・・・混乱してます」
正直なところ、突然の火星行き決定にクラウド自身の意思は介在していないし、何か感慨があるかというと、それよりも不安の方が大きいというのが本音のところだ。
「大丈夫だよ」
スタッフがニッコリと笑う。
「火星本部には私を指導して下さったクーロン先生も見えるしね。もう『いい歳』だけど、本人の希望で退職を延長して残って下さってるんだ。色々と物知りだから、何かあったら頼ると良い」
「そ、そうですか。では、そうするようにします」
「ああ・・・そうだ。先生には『アルコールは程々に』って伝えといてくれ。頼んだよ」
スタッフはそう言って、ウィンクをして見せた。多分、クラウドに気を遣ってくれたのだろう。『話をするキッカケ』を提供したというか。何処の誰とも分からない人間よりも『誰ソレの知人』という方が相手も話し易いだろうし。
「おっと、それと忘れるところだった。突然だけど実は今回の火星行きには『もう一人』クルーが追加になったらしい。今晩から一緒の防護ルームで待機になるから、仲良く頼むよ」
スタッフは、それだけ言い残してクラウドのベッドを去った。
マンガのブラックジャックには、網膜の移植によって殺人犯の姿を教えるという話がありましたが。現代の医療においても、臓器移植によって人格に変化が出るケースが稀にあるそうです。
実は、DNAには稀に他のDNAと交雑して取り込んでしまうという特性があります。代表的な例は「眼」ですね。
眼は元々、植物が光合成を効率よく行うために手に入れた「光センサー」の機能を、動物が食べたことでDNAに取り込まれ、それが発達したものと言われています。
また、細胞内のミトコンドリアも元々は別の生物だったものがDNAレベルで取り込まれたために、一体化したとか。
そう言えば、血液にも「そういう話」がありまして。
若い人間の血液を輸血すると、その人の身体が若返る傾向にあるという研究結果があるとか。
そう考えると「若い女性の血を吸って生き延びる」というドラキュラの話も、あながち・・・・?