第一章;Masayoshi-Memory Ⅱ
Ⅱ
雨が降っていた。数多の雨滴が傘に当たる音が僕の耳に届く。断続的に続く雨音は、しかしそれ以外の音を目立たなくさせるのか、僕は一種の静けさを感じていた。
雨は嫌いではない。というより、水音が好きだった。川のせせらぎや屋根から滴り落ちた雨の音、水たまりを車が走り抜けたときの飛沫の音に至るまで、水の音は僕を落ち着かせる響きを持っていた。それから、雨の日はまるで時の流れがゆっくりになったかのような心地になる。おそらくは自分の頭の巡りが鈍くなるだけなのだろうが、視界に入っているものの動きが緩慢に見え、一秒一秒の間隔が引き伸ばされているような体感時間の中で雨を見ることになる。これらの感覚がどういった心の働きによるものなのかは分からなかったが、これはおそらく分からないままにしておくのが良い類のものなのだろう。僕は足元の小さな水たまりにわざと軽く足を踏み入れて、パシャリと水が跳ねる音を楽しんだ。
ここは、かつて僕らが集まった廃工場の跡地だった。工場自体は既に解体が済んでおり、土地開発のためと思われる基盤工事が途中まで進んでいるようであったが、中途で計画が頓挫したのか、長い間工事は行われていないようである。そうした旨の書かれた看板が入り口の方に置かれており、同時に関係者以外立ち入り禁止と注意書きがされていた。特に迷いはなく、立ち入り禁止区画に一歩踏み出す。
暮田の手紙を受け取ったあの日、森村が帰った後で社長が喜色満面でこう言った。
「面白そうだから、君は幼馴染のメッセージを読み解くことに専念しなさい」
返事をするまでもなく、僕は社長から直々に二週間の長期休暇を言い渡された。受け持っていた仕事が特段急を要するものではなかったこともあるだろうし、僕が入社以来一度として有給休暇を取っていなかったこともあるのだろうが、一番の理由としては社長自身の好奇心に拠るものだろう。僕と森村の会話は案の定聞かれており、元より小説などの物語好きな社長は面白そうな匂いを感じたらしい。どうやら特に暮田の手紙にあった『M-Memoryを探せ』というフレーズが気に入ったようだ。社長と仲が良く頻繁に飲みに行っている先輩編集曰く、頭のなかで僕や暮田に様々な設定を付加して妄想を楽しんでいるとのこと。現体制に反抗する組織の一員であった暮田はとある秘密兵器の開発業務を担当しており、自分の身に万が一のことがあった場合を想定して幼いころから知っており自分を裏切らないであろう僕に情報を託したのだとか、或いは、実は暮田はその組織のスパイでその協力者に僕がおり、隠しておいた秘密の情報を託すために手紙を送ってきたのだとか、途方も無い夢物語を先輩の口から聞かされるにつけて辟易としたが、おかげさまで休みを貰うことができたのだから少しは感謝すべきなのだろう。
「それで、故郷に帰ることになるとは思いもしなかったけどな……」
僕は、自分の生まれ育った町にやってきていた。暮田の手紙にあった《M-Memory》なるものを探す旅に出るつもりは毛頭なく、どこか温泉の有名な観光地でも訪れて休養を楽しもうかとも思ったのだが、社長からこの件についての報告を義務付けられていた。社長好みにそれらしいことをでっち上げることも考えたが、暮田の思惑通りに動くのは気の進まないとはいえ、あの五人組のことについて不誠実に事実を脚色することはできなかった。そこで、少なくとも暮田の狙いを突き止めることくらいはしようと、そんなことを思ったのである。
《M-Memory》なるものを探すにあたり何も手がかりが無かったため、まずは地元に帰り、暮田たちと過ごした場所を振り返ってみることにした。暮田が僕に謎かけじみたメッセージを残したということは、その内容はあの頃のものに関わりがあることに間違いなかった。なので何かしらの取っ掛かりを思い出すことができたらと廃工場を訪れてはみたものの、まさか解体されているとは思わなかった。
「目に映るもので、いつまでも褪せずに残るものなんて無いのか」
呟いてみると感慨深さのようなものが感じられて、自分でも嫌になった。
工場跡地をふらふらと歩く。雨の中、立ち入り禁止の看板を越えてこのような場所をさまよい歩いている姿を見られたら、きっと警察を呼ばれることだろう。しかしここはかなり民家と離れているのでそうした心配はない。はみ出し者であった自分たちが溜まり場にしていたのだから、人目につくような場所であるはずがない。
工事が止まってから人が立ち入ることが無かったのか、随分と荒れていた。草木が生い茂っていたのは昔も同じだが、今はよりいっそう自由に生え放題となっていて、植物の背丈は高いもので二メートルを超していた。何度も重機が往来して踏み固められたと思われる地面のところだけ植物の生育が良くなかったため自然と道ができており、それに沿って歩いてゆく。
予想に反し、あまり記憶は呼び起こされなかった。確かにあの頃と比べて景色は一変しているし、なにより視点の高さも随分変わっている。高校に入ってから身長が急激に伸びたのは、あの罪を犯した日、階段飛ばしで成熟した精神に引きずられたのかもしれない。それに、あの頃と比較すると感性が大きく変わってしまっている。過去の自分と現在の自分に感覚的な連続性を感じられない僕にとって、仮に縁のあるものを見つけたとしても、それは世界五分前仮説の前に対抗力を持たないのだ。
いや、案外、そうでもないか。
ここにやってきてからというもの、大学在学中はもちろん就職の際にも怠っていた内省的な思考が喚起されている。自分だの世界だの、そういった面倒くさいことを考えるのが幼少期の常だった。少なからず、僕はこの場所に影響されているらしい。良いことだ。たとえ意識と肉体が不一致を訴えかけることがあろうと、やはり僕は昔から続いている僕で、他の誰でもないのだ。
ふと気付くと、幅二メートル大で高さも一メートル近い大きな岩が目についた。思い出す。これはあの頃からあったものだ。冬のある日、大内さんの呼び掛けに応じて星を見る会が行われたとき、寝袋を使うにしても地面にそのまま横たわるのは嫌だと主張した暮田が一人で占領していた岩だ。寝心地は悪いが地面よりはマシと暮田は言っていたが、改めて見るとかなり荒々しい凹凸が目立っている。冬用寝袋の厚い綿越しであったとはいえ、この岩に身体を預けるのは痛そうだ。
暮田にはそういうところがあった。拾ってきたソファに平気で横たわったりするくせに、土汚れがつくような場合はその程度が如何に些細なものでも嫌がった。ああそうだ、彼は雨の日が嫌いだった。水はけの悪いこの場所では自然に水たまりがたくさんできて、ここに来るまでに泥が跳ねて服が汚れると、そんな悪態を吐いていた。
なんとなしに目をつむり、岩に向かって軽く頭を下げた。
この下に暮田が埋葬されているわけではない。かつて僕らが集まった廃工場、今は土地開発の為の工事が行われているそこに、たまたまお誂え向きの大きな岩があったからそれを墓石に見立てただけだ。名前も何も刻まれていない。この巨石と暮田とに関連性を見出すことが出来るのはせいぜい僕と、ムカつくほどに頭が良くて、僕の考えをいとも簡単に読み取ってくる逆梅ぐらいなものだろう。
墓石。そうだ、暮田は死んだのだ。死体は燃やされたのだろうか。遺骨はどこに埋葬されたのだろうか。彼は母親を亡くしていて、父親とも折が合わず絶縁状態だったはずである。都内の集合墓にでも祀られたのか。曲がりなりにも子供を守ろうとして死んだのだから悪い扱いは受けていないと思うが、果たしてどうなのだろう。
それにしても、森村からも熱く語られていたが、あの暮田が善人として受け入れられていることに驚きを隠せない。メディアで彼をヒーロー扱いする報道があったように、その行為だけを取り上げてみれば、なるほど彼はちょっとした英雄である。裁判官というその職掌も相俟って、正義感に溢れ勇猛果敢な青年といったイメージが形成されるのは自然なことだ。
だが一方で、彼を讃えるなど、暮田の過去を知る者にとってはお笑い種に他ならなかった。
『《正義》が、聞いて呆れるな。お前は一体、何人の人間を不幸にしてきた』
暮田正義という名前に引っ掛けて逆梅が皮肉げに言ったときに彼が見せた、一抹の罪悪感も覗かせない蟒蛇のような笑み、それが僕の暮田に抱くイメージだ。確かに、彼はある側面でその名に恥じぬ《正義》だった。初めて出会ったときから数年間、僕は彼に憧れを抱いていた。力強く堂々としていて、当時の僕や大内さんといった陰鬱な人間や、伊佐治さんや逆梅といった捻くれ者を受け入れ纏め上げるその度量は僕を惹きつけた。しかしそんな感情も、僕が十五歳になる頃には嫌悪に変わっていった。あの男は最低最悪だった。考えること為すこと全てが虚無的で、人の気持ちを考えられないエゴイストだった。決して悪びれることもなく、ただ「悪」として在り続けた。悪いやつは、その悪事に罪悪感を抱かず、徹頭徹尾悪いやつで在るべきだと、自らを正当化して屹然と我を貫いた。
そんな男が、見ず知らずの子供を助ける為に犠牲になったなど、馬鹿らしいにも程がある。
とどのつまり、暮田は悲願を果たしたかっただけなのだ。他者を救うという名目で、自分自身が救われたかったのだ。彼の美談は、究極の自己満足を裏返しに見た視点から語ったものである。もし彼が自らの行いを賞賛されていると知ったら、そんな世の中に唾を吐きかけるであろう。
とはいえ――不必要に死者を冒涜することもあるまい。今際のときに暮田が何を思ったのかなんて僕には知り得ないし、興味もない。だから好意的に解釈するのがよいのだろう。彼は最後の最後で、見知らぬ子供を助けることが出来て幸せだった、と思う。
詳しいことは知らないけれど、逆梅の話によれば彼は僕らと出会う前にたくさんの命を刈り取った。二つの命じゃ釣り合わないかもしれないが、彼は贖罪を果たした気になれたのだろう。
「久しぶり」
突然、後ろから声が聞こえた。危うく傘を落としそうになった。すわ幻聴か、若しくは工事の人が立ち入り禁止区に勝手に進入したことを咎めにきたのか。前者に比べたら後者の方が気は楽かなと思いながら、頬をひきつらせ数個の言い訳を取り繕うべく頭を回転させる。頭を回しているうちに、耳に入った「久しぶり」という言葉の有する意味と、聞き覚えのあるその声の主を認識したとき、僕は肩を落とした。平静を装って振り返る。
灰色の世界の中に、色鮮やかな金色が立っていた。
「ルナ、か」
伊佐治ルナ。年は僕より一つ下で二十四歳、だったはず。
欧州系の父親を持つハーフの彼女の金糸と青い瞳は、端正な顔立ちと絹のように真っ白な肌と相まってとても目立つ。元よりこんな片田舎には不釣り合いなほどの美少女と呼ぶことのできるほど美しかった彼女は、あの頃と比べると身長や胸の成長も著しく、さらにいっそう人目を引く姿に変貌したと思う。十人が十人振り返るような、モデルでもやれるほどの美しさだ。
しかし、その相貌にはかつてと同じように一点の陰りが差していた。憂いを帯びた表情というのは美女を彩る装飾品の一つにもなりうるが、伊佐治さんのそれは決してプラス方向には働かない。初めて見る者が困惑するような、筆舌に尽くしがたい憂鬱さだった。
伊佐治さんは、蒸し暑さが増してきた六月の今日においても、長袖を着用していた。もちろん、対する僕も長袖である。
初めに犯した罪は、未だに僕らを縛り続けている。
「そんな安っぽいビニール傘じゃ、鞄が濡れるだろ」
どうしてこんなところに、とかそんなことを言おうとしたのに、身体はまた意識とは別の動きを決行した。
「大切なものなんて何も入ってないから」
彼女の声は、依然として金糸雀のように澄んでいる。それに安堵を抱く一方で、変わることのない自分たちに頭を抱えて叫びたい気持ちが胸の中から溢れ出してきた。
「どうしてこんなところへ?」
意識とワンテンポ遅れで口から問いが飛び出す。伊佐治さんは涼やかに笑った。
「あら、私が古巣に来ちゃいけない?」
「ここは危険だ。下手をすれば死ぬ危険だってあるんだぞ」
「そっくりそのまま、言葉を返すわ」
伊佐治さんは僕の隣へとやってくると、僕が見ていた岩に目を向けて、懐かしそうに目を細めた。それから僕に一瞥をよこす。
「何を考えてたのか当てようか」
「どうぞ」
「高校時代の修学旅行」
それは僕と彼女だけに通用する思い出の一つ。高校二年で、一緒に南の島に行ってきたときのものだ。
まるで見当違いだな、と否定してやりたかった。
「相変わらず、ルナに俺のことは隠せないな」
しかし僕は肯定した。否定が面倒だったわけじゃなく、伊佐治さんが沖縄旅行を想起したのなら彼女は僕に同じことを要求しているのだろうと思っただけのことに過ぎない。案の定、伊佐治さんは顔を綻ばせた。
「楓のことなら何でもわかるよ」
何でも、と彼女は言った。全て、ということだ。僕の、全て。
「ありがたいね。俺は、俺のことが、ちっともわからないんだからな」
僕より僕を知ってるのなら、僕の代わりに僕をやってよ。
なんて、続けられなかったけれど。
「話を戻そうか。どうしてこんなところへ?」
僕は彼女の方に向き直った。目と目が合う。僕を飲み込む瞳は健在だった。
「分かってるんじゃないの?」
「正義のことか」
「ええ、そう」
伊佐治さんなりに、かつての我らがリーダーの死に関して思うことがあるのだろうか。いや、それとも、
「正義から手紙が届いたのか」
もしや暮田は、柄ではないが同窓会でも催そうとしていたのかもしれない。そんなあまりに現実味のないことを思いついて口に出し、伊佐治さんのきょとんとした顔を見て失敗したと唇を噛み締めた。
「リーダー……暮田からは手紙なんて一度も来たことがないけれど。亡くなったという話は智美ちゃんから聞いたのよ」
大内智美。伊佐治さんからさらっとその名前が出てきたことに驚く。
「智美とは、頻繁に連絡を?」
「年に一、二回メールが届くくらいよ。ただの近況報告と、お互いの生存確認のために」
知らなかった。そして想像もしていなかった。僕はてっきり、僕たちはお互いに意図して関わり合わないようにしているのだと思っていた。しかし考えてもみれば、あのお節介焼きの大内さんと、どこか抜けていて大人しい伊佐治さんは、深くは考えずに友情を育んでいそうだった。
「智美ちゃんから、私たちみんなの墓場である例の場所でも弔問したら、なんて聞かされたから、つい足を運んできてしまったわけ」
そしたら東京にいるはずの楓に出会うなんて凄い偶然だわ、と嘘か本当か分からないことを言う。僕がそうかとだけ返すと、それきり沈黙が流れた。
雨音が聞こえる。
再会を果たした後も、変わらず雨は降りしきる。起こらないとは思うが、もう少し先に行ったところから始まる山の傾斜で土砂崩れが起きたなららば、二人とも一溜まりもないだろう。その場合、僕らは罪に問われるのだろうか。
考えるまでもない。第一級犯罪者だ。
「自己犠牲は、どうして自殺じゃないんだろうな」
僕がその問いかけを口にしたとき、伊佐治さんは溜息も吐いてくれなかった。
「いい加減にしましょうよ。そんなの、天才に任せていればいい」
僕らが『天才』と呼ぶときに指す人間は、僕らと同じ共犯者のことだ。愚かで哀れな、逆梅刀太の代名詞である。
「刀太が出す答えはいつも諦念から来てるんだ。どんなに素晴らしい解釈を、間違いの無い解答を奴が作ったとしても、そこへ辿り着くプロセスが正反対である以上、やっぱり俺と相容れない」
「私は、難しい話は嫌い」
「奴は自分を偽物だと思ってる。俺は自分を本物だと信じてる」
それだけの話。結局どれだけいがみあっても、僕と逆梅の違いはその程度なのだ。それが故に、歩む道が交わることは決して無い。平行線。
などと格好つけた言い回しをしてみるが、要は奴の支持する独我論を僕が理解できないだけなのである。一方で、奴も僕の考えを分かってはいない。だから、分かり合える筈がない。
「楓が言うほど、逆梅と楓は相性悪くないと思うんだけどな」
こればかりは、伊佐治の嘘だろう。僕は無言で応えた。
地面にはたくさんの泥水の水たまりが形成されている。こうも水はけの悪い土壌では、工事の進行も大変だろうと思った。休工状態になってから長いので関係の無いことか。
何の気なしに、右足を上げ、すぐに下ろした。ばしゃっと跳ねた泥水が、僕のズボンの裾を汚す。意味のない行動ではあるが、現状自分の意識と身体が一致していることを確認するのには役立った。
「逆に質問してもいいかしら。どうしてこんなところへ?」
伊佐治さんの問い掛けに僕は逡巡する。偽りの目的を並べ立ててまで誤魔化す必要もだろうが、下手に興味を煽って僕の事情に巻き込むのも悪い気がした。
「俺が故郷に来ちゃ悪いか?」
だから、先ほどの伊佐治さんの弁を繰り返すことにした。
「貴方の故郷はこの山だったのかしら」
面白くもない返しであったが、元々の質問を煙に巻こうという意図もあって乗ることにする。
「月夜野楓が育ったという意味では間違ってないだろ」
「知らないわよ」
「俺のことなら何でも知ってるって言ったじゃないか」
「楓『以前』は知らないわ」
それもそうか、と苦笑する。僕が月夜野楓になったのは、みんなと出会う直前のことだったのだから。
そこで再び会話が途切れた。二人の間を分かつものは、昔も今も変わらない雨音だけだった。
「……思えば、私だけが下らない理由だったのよね」
伊佐治さんを一瞥する。明後日の方向を向いて、しかし意識は過去に向いているようだった。僕はたまらず訊ねた。「後悔してるのか?」
「まさか」
返答は思っていたより早かった。
「私は確かに愚かしい子供だったけど、痛みを訴えかけたことは悪いことではなかった。それをあなたたちから学んだというのに、過去を悔いるような真似をしたら、私だけじゃなくあなたたちにまで土を掛けるものよ」
「『痛がったもん勝ち』ってのは、正義の言葉だったな」
参ったな、と首を振った。閉じ込めていた記憶が、次から次へと蘇ってくる。過去とは決別したはずなのに。
「ただ、なんていうのかしらね、劣等感……とは違う気もするけど、そういうものだと思う。やっぱり人って、自分だけが特別って思いたい節を持ち合わせているものじゃない」
「一方で普通を願っているのにな」
「矛盾して鬱屈した感情を抱くのは、古今東西、変わらないわよ」
特にここ最近の傾向は酷いかしらね、と伊佐治さんは付け加えて嘆息した。そういえば、彼女は中学校の教師になったのだった。思春期の多感な子どもたちと接していれば、いっそう強く実感するだろう。
僕はそっと傘を閉じた。僕が今夜泊まる予定のホテルはここから数十分歩いたところにあるバス停でバスに乗り込み、そこから一時間は掛かる場所にあったが、雨を浴びて体調を崩したところで問題は無いのだ。大気汚染を騒いでいたのはとうの昔の話で、今の時代の雨は浴びても一向に問題はない。
「自殺志向、って見られても仕方ないわよ」
不意に、伊佐治さんが呟いた。無抵抗で雨に打たれる姿が自暴自棄に映ったのだろうか。
自殺志向、か。それは僕と、おそらく自分自身に向けられたものだ。
「今さら新たな罪を増やすのも、考えものだな」
「新しくはないでしょう。罪が更新されるだけで」
「更新、ね。犯罪の構成要件だなんだ刑法学じゃ小難しい議論が為されるんだろうが、その表現はおそらく的確だな。違いない」
自殺は、CAINEが人の魂なるものの存在を証明し、その尊さを叫んでからというもの、未遂ですらも殺人を上回る犯罪となった。時効は無く、遡及的に罰せられる。そんなことが許されるものかと大きな議論があったのだが、既に法律的に整備されてしまった。もし自殺が発覚すれば、実行済みであろうがまだ生きていようが、決行者は直ちに捕らえられ、情状酌量の余地もなく魂ごと抹消される。魂の抹消だなんてそもそも原理が分からないが、原理が分からなくても、それが持つ意味、死後の存在消滅が潜在的に持つ恐怖は、人々の心を脅かした。
死んでしまえば、逃げられない。
逃げられなければ、死すらも許されない。
吐き気がする。直前に食べたものも、胃液も、それどころか内臓も全部吐き出してしまいたい。僕の中身が空っぽになってしまえば、気分も少しは回復するだろう。いや、もともと精神的に空虚なのだ、物理的に何も無くなってしまっても変わらないかもしれない。
「ルナ。今夜はどうするんだ?」
ここに来たのは畢竟するに遠まわしな弔問だった。それを終えた今、もはやこの場に用事はない。未練もない。そろそろ帰ろうと思い立ち、僕は問い掛けた。
「出来れば貴方のところに泊めて欲しいわね」
どうやら彼女はノープランだったらしい。生真面目でお嬢様気質の伊佐治さんらしくないような、しかしどこか抜けていて行き当たりばったりな行動を取るところはいかにもと言った感じだった。どことなく懐かしさを覚えるのは、おそらく僕と彼女がかつて共依存関係にあったときのことを彷彿とさせるからだろう。構わないぜ、と返事をした。
「積もる話もないけどな」
「肴になりそうな話は幾らでもあるわ。中学生って、すごく面白いの」
「そりゃ楽しみだ」
くっくっと笑う。今夜は久々にお酒を飲もう。何年と飲んでいないが、今日はそういう日だ。
そうして僕は、再び傘を差して踵を返した。無言で後ろを伊佐治さんがついてくる。歩くたびに跳ねる泥水。ズボンを洗濯する必要が生じてしまったことに、小さな溜息が漏れた。
まさに自業自得である。
自業、自得である。