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第一章;Masayoshi-Memory Ⅰ


 奇妙な心地に陥っても平常通りの毎日が続くのだろうと、そんなことを思いながら遅刻もせずに出社した。しかしながら予想は早々に裏切られた。


 目下の仕事である過去の特集記事の整頓作業を行なっていたところ、会社に一人の男が訪ねてきた。彼は森村と名乗り、警察手帳を取り出して僕の名前を出した。社内にいた同僚たちの怪訝そうな視線を浴びつつ応対すると、彼は一週間前に事故で亡くなった暮田の友人だと告げてきた。

「暮田は大学時代の後輩でね。勉強系のサークルでひたむきに司法試験の勉強をしているあれに中てられて、俺も途中までは法曹界を目指したものだよ」

 結局俺は警察になる道を選んだが、と森村は笑い、僕の同僚の岸が淹れて持ってきたお茶に口をつけた。


 僕と森村は会社の応接室で向かい合って座っていた。会社の、と言っても、会社自体が高層ビルの五階をオフィスとして活動しているこじんまりとしたものなので、特別綺麗な部屋ではない。私事につき、始めは会社を出たところにある喫茶店で話すつもりであったが、社長が面白がって応接室を使うように言ってきた。娯楽としての大衆雑誌でさえ電子書籍化が一通り進んだ現代において、自分たちで印刷も受け持ってまで未だに紙媒体にこだわっている物珍しい社長であるから、本来であれば警察が訪問するといった喜ばしくないイベントでさえ楽しんでいるのだろう。この会話だって、きっと聞き耳を立てているに違いない。


「それで、何の用件ですか」

 思い出話に付き合う暇はないと暗に含める。森村はそれを察しているのかいないのか、曖昧に笑ったままだった。警察と話したことはあまり無いが、出来る限り警戒心を煽らないようにする手口なのだろうか。

「ところで、君は暮田とどういう関係だったのかな」

 わざわざこのようなところまで来て僕を訪ねるあたり、おおよそ調べはついているのだろう。僕の目元を抉るような視線に不愉快な気持ちになり、人前、特に初対面の人の前では普段ならば絶対にしないつもりであったが、僕はタバコを咥えた。ただし都条例に定められているので、家に置いてあるものとは違い味気のない無煙タバコである。

「出身が同じで、子供の頃、よく遊んだ仲ってだけですよ。それも、高校からは一切連絡を取っていません」

「幼なじみ、というやつか」

「そんな聞こえのいい間柄じゃなかった、と思います。ただの悪友で、彼が高校からバリバリの出世街道を目指し始めたから疎遠になったってとこですね」

 ふぅん、と思案げに森村はまたお茶を口に含んだ。


「それで、なぜ警察の方が私のところへ? テレビのニュースで軽く耳にした程度ですが、彼は交通事故死ですよね」

 暮田正義。享年二十八歳。交通事故死。

 若すぎる死であった。国公立大学の法学部を卒業し、ストレートで司法試験に合格、一年と半年間の司法修習を経て、晴れて地方裁判官の職を得た矢先の不幸。しかし死に様は見事だった。ボール遊びをしていた子供二人が、ボールを拾いに車道に飛び出てしまいちょうど走っていたトラックにひかれそうになったところを、たまたま通りがかった暮田が庇ったのである。奇跡的に子供は救われた。だが暮田は頭部を強打し、救急車で搬送中に死亡した。メディアにより正義感に溢れ勇猛果敢な青年として暮田をヒーロー扱いする報道が為され、多くの人の涙を誘った。

 暮田の死は、本来であれば回避できたはずである。そもそも現代では、全ての車に飛び出してきた人間を感知して自動ブレーキが掛かる装置を設置することが義務付けられているはずなのだ。ところが、トラックを所有する運送会社が反社会勢力を母体とするものであったらしく、警察と揉め事になったときのためという名目でトラックからはそういった制限が外されていたそうである。結果として暮田の事故は、当該反社会勢力の摘発にも繋がった。報道によれば長いこと尻尾を掴ませない組織だったそうだが、綻びはそうした些細なところから起こるものである。

「古い友人が死んだというのに、ドライなんだな、君は」

 森村の物言いにむっとした。

「別に、」そんなこと、お前と何が関係ある。

 言葉をなんとか口内に押し留めた。警察を信じていない、というわけではないが、まだ目的を聞いていない。一体僕から何を聞き出そうとしているのか分からない以上、不必要に気持ちを荒立てて物を言う必要はないだろう。「いえ、なんでもないです」


 目の前に置いてあったお茶に、ようやく僕も口をつけた。そんな僕の様子を見て、森村は鼻を鳴らすと、制服の内ポケットからなにやら封筒のようなものを取り出した。

「本題に入ろう。暮田が死んだ件で、遺品整理という名目で俺が彼の部屋に入ったんだがな、そこでいろいろと良くないものを見つけたんだ。それに加えて、君についての細かい個人情報と、君に宛てた手紙らしきものも発見した」

 これがその手紙だ、と封筒をこちらに差し出してくる。

「高校からは疎遠になった、と言っていたな」

 暮田が僕のことを調べていた、という情報に少なからず衝撃を受け、すぐには反応できなかった。テーブルに視線を落とせば、そこに置かれた封筒に「月夜野へ」とはっきり記されている。懐かしい字だった。性格が悪いくせに、あいつは字だけはうまかった。

 夢ではない、懐かしいものを実際に目の当たりにして、昨晩のように鼓動が早くなる。落ち着け、と大きく息を吐き、森村の方に向き直った。

「あ、えっと、はい。僕は、大学こそ東京に出てきましたが、高校は地元だったので。暮田は高校から上京してましたし、あの頃は、覚えてるとは思いますけど反コンピュータの風潮もあって、電子メールの類もできませんでしたから連絡が取れませんでした」

 二十一世紀末のことを思い出す。人工知能が人間の頭脳を上回った二千五十年を皮切りに、反コンピュータ運動なるものが世界各地で起こり始め、特に世紀末の到来が近づくにつれて運動も白熱していった。その一環に反電脳ムーブメントが起き、丁度僕や暮田の地元では運動が強かったため、高校生の頃はパソコンや携帯電話を始めとする電子機器を持っているだけで方方から叩かれたのである。

「だが、暮田の方は君のことをずっと追っていたみたいだな」

「と、言いますと?」

 森村は両腕を後頭部に回し、目を瞑って息を吐いた。

「正直、驚いたよ。大学時代は勤勉の一言に尽きる男で、遊びっけの無い男だったからな。何か腹に据えていて、その目的のために邁進している、そんな風に見えた。そしてそれは世のため人のため、みたいな感じだったな。本当にすごかったんだ。いわゆるガリ勉とは違って、運動と称してサークルの身内でやる球技とかには毎回参加して、運動神経抜群だから至るところで活躍していた。無愛想ってわけでもなく、付き合いとしての飲み会には参加して場を盛り上げるのもうまかった。本人は酒はやらずに常に平静だったから人の介抱役もやってたな。元々それなりに顔立ちは整ってたし、物憂げな表情がそれによく似合っていたからかなり女子からも人気があった。だけどついぞ彼女を作ったという話は聞かなかったな。司法修習生の頃の評判も良くて、サークルの奴らから話は聞いていたんだ。まぁ、とにかく、」

 随分と熱の籠もった口調で一気に語りかけてきたと思ったら、そこで一度言葉を切り、

「そんな奴の部屋から、君の、おそらく高校時代から今に至るまでの写真が大量に見つかったんだ。いかにもその手の業者に頼んで隠し撮りしましたといったアングルのものが、な」

 ぐいと身を乗り出し、僕の顔を覗き込んでくる。その目にはあからさまな疑いの色が光っていた。

「本当に、君は、暮田のことをずっと知らなかったんだな?」

 写真まで撮られていたとは、現実感の湧かない話だ。もしや僕を虐げるために、精神的な動揺を誘うために嘘を吐いているのでは、とも思ったが、森村の様子は真剣そのものである。

 いや、真剣そのものだからと言って、相手が正直であるとは限らない。大きな目標を、必ず成し遂げんとする強い想いを持つ者は、神妙な顔つきをしながら平気で嘘を吐く。知っている。身に覚えがある。ああそうだ、こんな状況が暮田と僕の間であった。

 あのとき問い詰めたのは僕で、嘘を吐いたのは暮田だ。

「……ええ、はい。この前テレビで彼の死を知るまで、忘れていたくらいです」

 僕は嘘を吐いた。あの五人組のことは、連絡こそ取ってはいなかったが忘れたことなどなかった。

 森村はじっとこちらを見つめている。言葉の真偽を確かめているのだろうか。吸っていた無煙タバコの火が根本まで到達したので、テーブルの上の灰皿に吸い殻を押し付ける。

「いったい何を、疑っているのですか」

「全部だよ、全部。俺は、自分の目で見て、自分の耳で聞いたことしか信じない」

 印象を悪くすると分かっていたが、失笑してしまった。

「カインにおんぶに抱っこな状況の警察が、そんなこと言ってもいいんですか」


《CAINE》――人間世界に舞い降りた神は、そんな名前を与えられた。

 仕組みはよく分からない。量子コンピュータなるものの、さらにもう二段階ほど上を行く理論のもとに作られたコンピュータらしいが、その理論を構築したのがCAINEの前身となった人工知能であり、さらに言えばその人工知能もまた一世代前の人工知能が開発したもので、その頃から人工知能が人類の知能を超えたとされていたことから、CAINEはとうに人の知能で理解できる範疇を超えているのだろう。人の身でそれを理解できるのは一人、或いは二人いるくらいだろうか。

 いずれにせよ、卓越した人工知能はありとあらゆる問題を解決に導いた。経済格差の問題も、地域紛争も、環境問題も、何もかもが人の頭脳では及びもつかないような解決方法をCAINEが編み出し、その通りに人間が実行した。欠点として挙げられていた、ある問題に対してCAINEが一つの答えを出したとき人にはその意図を掴むことが出来ないというのは、コンピュータの言いなりになるという意味であり危険ではないか、という議論も人の有識者だけが集まって行なった会議にて棄却されたと聞く。結局は、CAINEの案を実行すれば万事が上手く行くという事実があったためであろう。

 その結果が、完全なる平和の到来。人々は皆、幸せになった。

 とはいえ、それで人々の生活スタイルが劇的に変わったわけではない。昔の映画や漫画で多くあったような、機械による管理社会には決してならなかった。CAINEはその誕生時からオブザーバーの地位に甘んじたためである。自らが主体となることはなく、問題発生時にその解決法を提言する。あくまでCAINEは、そうした規範を創り出しただけである。ただ、その規範が圧倒的に正しいのだ。どうしてそれが正しいのか人間には分からないのに、それでも結果的に正しいことが証明されてしまう。CAINEが運用された当初は反対派も多かったが、一年も経たないうちに世論は賛成派に傾いた。

 このCAINEが運用されたことで、警察の捜査も随分と簡略化されたと聞く。事件が起きたらその周辺の情報をCAINEに入力するだけで真相が明らかになるのだから、当然だろう。それでも犯罪が減らないのは、絶対規範として君臨する人工知能に反対する反社会組織が複数あることだけではなく、合理的思考だけでは生きていけない人らしさ、というものがあるのだろう。

「随分と皮肉げな物言いだが、やはり君は反コンピュータ思想なのかな」

 森村の視線を軽く受け流して僕は笑った。

「何を根拠に『やはり』と言ったのかは存じ上げませんが、程度の差異はあれ、自分たちの生活が寄りかかっているものを無条件に信頼するのはおかしいと思いませんか」

 沈黙が流れる。この手の雰囲気は、しかし僕は慣れていた。元より自分は口数の多い方ではなく、無意味な会話で場を繋ぐくらいならばいっそ黙っていた方が良いと思っているため、互いに牽制し合うような場においても特に気まずさを感じることなく過ごせる。

 初めて暮田と会ったときも、確かそうだった。剣呑な態度を隠さない暮田に対し、僕は粛々とそれを受け止めて、最終的に彼が折れたのだった。柳みたいだ、と暮田は言った。意味を解さなかった僕は、自分は楓だと返した。今となっては懐かしいやり取りだ。


「なにも、こんな話をしたかったわけじゃないんだ」不意に、森村は姿勢を崩してソファに身体を沈めた。「手札を伏せたまま話していてもキリが無いな。ある程度、君を信用して、正直に話そう」

 ようやく話が進む。僕も姿勢を改めた。

「暮田の部屋からは君の詳細な個人情報、彼が担当していたらしい昔の事件の資料、それから、彼が反社会勢力と繋がっていると思われるものが見つかった」

「それは、つまり暮田自身がそのメンバーで、組織内の揉め事の末に彼は殺されたということですか?」

「分からない。ただ、暮田は反社会勢力の元締めとされている《アベル》という人物と連絡を取っていたんだ。手紙が残っていた」

「アベル……」

 聞き覚えがあった。記憶を辿って、得心する。

「旧約聖書の、兄であるカインに殺された弟の名前ですね。なるほど、CAINEに抵抗するレジスタンスのリーダーの名前としては皮肉が効いてますね」

 森村はやれやれとばかりに首を振った。

「得体の知れない奴さ。極めて巧妙な奴でな、名前以外は一切痕跡を残さない。困ったことに敵対視されているCAINEにその対処を訊ねたら、確か『私に切迫する高度に優れた知能を持っており、彼の行動は人の可能性を大いに広げうるため、私が手を出すのは無粋だ』だったかな、そんな煙に巻いた回答が返ってきて、捜査に協力してもらえないんだ。結果、だから件の反社会勢力の一網打尽ができていない現状がある」

 つまり、自分に反対する存在を認め、その対処を考えずに人に丸投げしている、ということか。

「よく分からないですね。あらゆることに答えを出せるコンピュータなんでしょう?」

「CAINEの出す答えはあくまで現状の最適解だ。それが自らに敵対する存在を残すことなのは理解できないが、元よりあのコンピュータの論理思考は人には解釈しきれない。上層部の判断はCAINEの言いなりみたいなものだから、俺のような末端部分が疑問を挟むことは難しいんだよ。まぁ、大規模なテロ行為が発生しそうな場合にはそれを未然に防ぐための方法をCAINEは出してくれるから、問題がないと言えばその通りだが」

 なんだか茶番じみた争いだ。噂のアベルとCAINEは繋がっているのではないか、という気さえしてくる。もっとも、そのあたりは僕の関与するところではない。

「随分と気軽に内部事情を話してくれますけど、大丈夫なんですか」

 急に態度が軟化して口が回るようになった森村に訊いてみる。たとえば、実は森村が件の反社会組織の構成員で、ペラペラと事情を話すことで僕を巻き込もうなどとしているのであれば堪ったものではない。

「知らないのか? 問題発生時のCAINEの応答は公開されている。俺が話した内容程度なら、その気になれば誰だって知ることができるってわけだ」

 そういうものなのだろうか。僕は反コンピュータを標榜するつもりは毛頭ないが、判断を他所に預けるというのが苦手で、今までCAINE周りの情報を意図的に仕入れていなかった。これを機に少し調べてみるのもいいかもしれない。


 お茶を飲もうとテーブルのカップに目を落とすと空であった。見れば森村もとうに飲み干していたようである。頃合いだと思った。

「かなり話が逸れてしまいましたね。それで、結局あなたの目的はなんなんですか」

 森村は素直に答えた。

「真実を知りたい。それだけだ。暮田は普通に付き合っている限り悪い奴では決して無かった。それが、裏では反社会勢力のボスと繋がっていて、幼い頃の友人を十年近く監視し続けていたんだ。あいつのことが知りたい」

 監視などと随分と大仰な表現をするものだ。暮田の思惑は分からないが、きっと僕を見守っていたのだろう。暮田という男は自分以外の存在を許容しない排他主義者であったが、あの五人組を一つの共同体として、己に含めている節があった。だからこそあの日以来暗黙のうちに離れていった僕を、陰で覗くという形でも自分の目の届く範囲に置いておきたかったのではないだろうか。

 僕の仮説は森村には伏せることにした。僕らの罪は絆だ。おいそれと人に話せるようなものではないし、話したくもない。

「気になるのであれば、暮田の情報をCAINEに入力して答えをもらえばいいじゃないですか」

 ふと思ったことを訊ねた。噂のコンピュータであれば、暮田の真実、引いては僕らの過去を明らかにすることはできるのだろうか。仮にそうだとして、人工知能なぞに僕たちの秘密を暴いてほしくなかった。だから、森村の意思を確かめることにしたのだ。

「もしそれで暮田が黒だったとしたら、彼の名誉を損なうことになる。それは嫌だ」

 そんなことを危惧するのなら最初から調べなければいいのに。そう思ったが、森村の葛藤も理解できた。確かに善良で立派に見えた友人がその裏で怪しげな行動を取っていたとしたら、調べて潔白を明らかにしたい気持ちと、一抹の不安が両立するかもしれない。

 なにはともあれ、森村にCAINEを使うつもりが無いようで良かった。ふっ、と笑みが零れる。もし彼が手段を選ばずに暮田のことを調べる気であったら、僕はどうしたと言うのであろうか。


「とりあえず、あなたの考えていることはわかりました。その上で、申し訳ありませんが私に協力できるとは思えないですね。繰り返しになりますが、僕は暮田とは連絡を長い間取っていなかったわけで、彼の昔話に興じて懐かしむことはできても、彼の意図については推察できません」

 僕は小さく頭を下げて断りの意思を示す。顔を上げたとき、森村の表情にあったのは困惑であった。

「……どうしました?」

 心臓の鼓動が聞こえる。まるで警鐘のようだ。今にも口を開こうとする森村の首根っこを掴まえて、そのまま絞め落としてしまえば良いのだろうか。

「いや、その、別に俺も積極的に協力して欲しかったわけじゃなくてな」もちろん僕はその場から動くことができず、森村は不思議そうに言うのであった。「とりあえず、その封筒の中身を見てみないのか?」

 森村の指差す先には彼から渡された、僕の名前が記された封筒が一つ。意図的に視界に入れないようにしてきたそれが、ここにきて存在感を主張してきた。

僕は心のなかで溜息を吐いた。まだ十二時間も経っていない新鮮な夢が頭にちらついていて、手紙を見るのが躊躇われたのだ。暮田は、いや彼に限らず、あの共犯者たちはいつだって僕の味方であるが、同時に厄介事の種でもある。この封筒は、開けない方が僕のためになるのではないだろうか。

 悪い予感しかしないその封筒を手に取る。見ずに引き取ってもらう言い訳を幾つか考えたが、固辞して森村に怪しまれるのも不快だった。

「じゃあ、開けますね」

 森村は無言で頷く。封筒は糊付けされていて、鋏を取りにデスクへ戻ろうかと逡巡して、そんな大層なものでもあるまいと封筒の縁を手で破いた。中からは丁寧に折りたたまれたルーズリーフが一枚出てきて、それっきりだった。

ルーズリーフを開く。そこにはそっけなく一言だけ書かれていた。


「……『M-Memoryを探せ』?」


 二行分のスペースを使って書かれたそれ以外に他は見つからない。紙は森村の方に渡し、僕は顎に手をやった。

「『M-Memory』なるものに心当たりは?」

 森村の問いに僕は首を振って応える。幼い頃の思い出を全て詳細に覚えているわけではないため、確信を持って否定はできなかったが、少なくとも覚えのあるフレーズではなかった。また分からなくなってきたな、と森村が呟く。

「メモリーって言うと、記憶とか思い出か? 最初のエムは頭文字だろうか。だとすると、ある特定個人について思い出せってことか。いや、探せってことは、このメモリーってのはコンピュータとかの記憶領域のパーツのことか」

 森村が何かを言っていたが、耳に入ってこなかった。


 これはきっと、いや間違いなく、僕の記憶の欠落を指していた。

 僕らが揃って罪を犯したあの日のことを、僕は記憶していない。


 背筋がぶるりと震えた。瞼の裏の暮田が神妙な顔つきで僕を見ていた。

「大丈夫か、顔色が悪いが」

 森村に指摘されるが、生憎と気分を持ち直す余裕はなかった。

「いつも、こうなんです。昔から暮田は、よく謎かけをしてきた。そして分からなくて答えを聞けば、嫌味ったらしく笑って答えは教えてくれないんです。謎を残したまま放っておくんです」

 意識とは別に口が言葉を紡いだ。ああ――また、身体が言うことを聞かずに勝手に動き出す。

「それで、わざわざ手紙をよこしてまでまたこんなことされて、訳が分からないなと思って、でももう答えを聞く相手もいないんだなと思ったら、なんだか悲しくて」

 頬を伝う水の感触がした。気持ち悪い。悲しいだなんて欠片も思ってないくせに、この涙は生理的なもののくせに、まるでいっぱしの感情があるかのように見せつけるのか、月夜野楓よ。


 森村は見事に騙されたようで、突然泣き出した僕の反応に困ったようで、あからさまな動揺を見せた。わたわたとあちこち見渡したあと、ハンカチでも取り出そうとしているのかポケットを探り出したので、それに合わせて僕の身体はポケットに手を突っ込みハンカチを掴む。そして森村がハンカチをこちらに差し出してくるのと同時に、自分のハンカチで目元を拭った。行き場を失った森村の手とハンカチが滑稽だった。

「すみません、取り乱したりして」

「あ、いや。俺も、思慮が足らなかった、と思う」

 終始威圧するような雰囲気を醸していた森村だったが、根は優しいのだろう、僕が涙を見せたことでバツが悪そうな表情を浮かべていた。どうしたものかと狼狽えている様子が見て取れる。

「長く居座っていても、仕方ないかな。あ、これ、俺の連絡先。もしも何か分かって、内容がまずいものだったら電子メールを使わずに電話で呼び出してくれ」

 どうやらここらで退散することに決めたらしい。最後に名刺を差し出してきたが、こういうのは最初に渡すんじゃないのか、と思った。

「それじゃ、今日はいきなり訪ねて、すまなかった。ありがと」


 森村の逃げ出す足が思いのほか迅速で、涙を流しながら僕は笑った。


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