序;Missing-Memory
懐かしい夢を見た。つい先日、テレビ越しに訃報を受けた友人の夢だった。
『どうか、先立つ不幸に祝福を』
中等教育二年目の夏休みの終り。僕たちの最後の集会となった、八月二十六日の午後八時。日が経つにつれて数を減らしていった蝉が、その日は夏の最後を告げるように高らかに鳴いていた。前日の雨のおかげで、溜まり場だった廃工場はひどく蒸し、加えて酷く暑かった。辺りに充満していた青臭い草木の匂いをかき消すように、焚かれていた蚊取り線香の匂いがやけに鼻をついた。
あの夏の日の記憶、あのとき、あの瞬間に見て、聞いて、感じたことは、忘却という箱に詰めて頭の片隅に追いやっていたはずだったが、依然として強烈な鮮明さを保っていたようである。
夢の中の光景は、色や音、匂いまで再現しており、あの五人組のリーダー、暮田正義がその言葉を放ったとき、記憶している過去と寸分違わず僕の心臓は大きく跳ね上がり――見慣れた無機質な天井が目に飛び込んできて、それが夢であったことに気が付いた。
首を横にする。ベッドの脇に置いてあったデジタル時計が示している時刻は午前三時。夢が中途半端で終わったかと思えば、睡眠も中途半端であった。快適な睡眠を約束すると銘打って売られていた睡眠薬は、どうやら僕の身体には合わなかったらしい。再び眠りに就こうと瞼を閉じてみたが、眠気はすっかり醒めており、仕方なしに目を開けて、隣に眠っていた学生時代より付き合っていて同棲中の彼女を起こさぬようにそっとベッドから抜け出した。彼女は身動ぎをしたが、覚醒には至らなかったようだ。
ベッドから出て冷蔵庫の上に置いてあった両切りタバコとライター、携帯灰皿を手に取って、外の明るさを遮るために二重構造になっている扉を開けてベランダへ出る。二十階建てマンションの十五階のベランダから見える町並みは、人工太陽の助けもあって昼間のように明るい。夜の空気と共にタバコを吸うのが好きだったが、二十二世紀に入り、東京を始めとする世界各国の都市部から夜という概念が無くなった今では、そんなささやかな楽しみは損なわれた。便利な生活とやらの代償である。
いや、生産性の向上を謳って四六時中働くことが可能となったことが、果たして生活の質の向上に繋がっているかどうかは疑問の余地が残るだろう。厚生労働省の発表によれば、労働が二十四時間体制となったことに対応するために雇用が増大し、また労働時間がフレキシブル化したことで勤労者も休暇を取りやすくなったとのことであるが、コンピュータ画面に表示される統計データと実生活は異なるはずだ。
異なるはず、だったのだが、《絶対規範》として世界に平和をもたらした偉大なるコンピュータ様は、そうした懐疑を払拭した、と聞く。
それで、多くの人間が納得したというのだから、やっぱりこの世界はどこかおかしくなってしまっているのだろう。
これ以上考えても致し方無い、とタバコに火をつけ、肺の中に煙を吸い込む。害も無ければ副流煙も発生しない新型タバコはとうの昔に発売されていたが、僕は依然として従来のタバコを愛用していた。一時期は徹底的に弾圧され日本国内では一本残らず駆逐されたが、《絶対規範》の娯楽宣言なる発表によって再販されるようになった。とはいえ、旧式タバコの愛煙家に向けられる人々の視線は冷たく、肩身は狭いままだ。
立ち上るタバコの煙は、あの日の廃工場の蚊取り線香の煙を彷彿とさせた。近代化の著しい都市と田舎の廃れて草木の生い茂った工場跡地とでは状況がまるで違っていたが、煙をきっかけにまるで自分自身があの頃に戻ってしまったかのような錯覚に陥る。
僕が想いを寄せていた伊佐治さんのセミロングの金髪が、無造作に積まれた鉄骨の上に座って読書をする彼女の首筋に汗で張り付いていたのが扇情的に映った。大嫌いだった逆梅が、さもお前らに興味はないとばかりにその鋭い視線を世界史の参考書に落としていた。僕らが出会うきっかけを作った大内さんは、元から置いてあったパイプ椅子に座って飲んでいたコーヒーのカップを両手で持って深刻そうな表情を浮かべていた。夏の始めに禁煙すると豪語していた暮田は、近くに捨てられていた古びたソファに寝転がりながら彼の好んでいたフレッシュグリーンという銘柄の煙草を火を付けずに咥えていた――
幻覚だ。はっとして首を振れば、あの日の光景と幼い日の友人たちの姿は掻き消えた。
「月夜野楓。二十五歳。大学を卒業して、東京のしがない雑誌社で編集の仕事をしている」
煙を吐き出すと共に、今の自分自身を確認するように呟いた。直後に後悔する。一体、これらの情報に何の価値があろう。僕の名前と年齢と今の職業が、どうして僕を僕足らしめると言えるだろう。
『貴方は、楓。私の、大好きな――』
伊佐治さんの偽物が、そんなことを言った。やめてくれ、と僕は嗚咽を漏らした。
幼少期より僕を苛む、身体と意識の乖離は、長い通院生活を経てなお治っていない。
いい加減に向き合え、と死んだ暮田が言っている気がした。むしろそのために暮田は死んだ気さえした。
タバコの煙をくゆらせながら、先ほどの夢のことを、もう連絡先も知らないが、忘れられるはずのない友人たちを思い出す。
僕たちは、一つの罪で結ばれていた。僕や伊佐治さんはどれだけ暑くても半袖を着ることはできなかったし、逆梅や大内さんは自分の家に他者を招くことができなかった。暮田に至っては、そもそも素行不良で警察の世話になることが多かったが、その根幹には僕らと同じ罪があった。僕らはみな、上手く立ち回って――正しくは無様に足掻いて――問答無用の死刑執行を避け続けたのだ。生きていたかったわけではない。だが、得体の知れない方法で死後も蹂躙されるとなれば、それに逃げるわけにはいかなかった。
「死に損ない」と、リーダーは僕たちを評した。「生ける屍」と、逆梅は呼んだ。
大内さんだけがそれらの呼称には一貫して難色を示していた。彼女は僕らの中で唯一生を渇望していた。そのくせ僕らの世話を焼こうとしていたのだから、やはり彼女も異端だったのだろう。
僕は呼び方には興味を持っていなかったから、どうでもよかった。その点に関して伊佐治さんの共感を得られたのは、当時は非常に嬉しくて、柄にもなく声を荒げて立ち上がり、小躍りまでしたものだ。伊佐治さんを含め、それを見た連中が総じて白い目で僕を見てきたのも、今となっては恥ずかしいと言うより懐かしみをもって思い出すことができる。
一つの出来事を思い出すと、連鎖的に記憶は呼び起こされた。吸っては吐き出すタバコの煙の中に、靄がかった懐かしい景色が浮かぶのを幻視する。埃っぽい廃工場に集まって、陰鬱そうな顔をして無邪気に笑っている。死にたがりだったあの頃は、だからこそと因果関係で結ぶのは間違っているだろうけれど、確かに命の煌きを感じられたのだ。
そして運命の分岐の日、僕たちは新しく二つの罪を共有した。一つは本当に可愛いらしいもので、もう一つは、墓まで持って行こうと誓い合ったものだ。あの日を境に会う機会の無くなった僕たちは、合わせて三つの罪を未だに背負っている。
逃げることは許されない。逃避は裏切りだ。仲間に対する、ではない。自分自身への裏切りだ。そんなことをした途端に、僕たちは僕たちではなくなってしまう。それになにより、逃げた先に救いは決して無い。
観念的な有責性を議論しているわけではない以上、神に弁明して赦しを乞う必要もない。重要なのは事実。生じた罪、それから僕たちの抱いた罪悪感だけだ。
一つ目の罪があったから、僕らは集まった。
二つ目の罪があったから、僕は全てを忘れた。
三つ目の罪があったから、僕らは生き永らえた。
一度、たった一度、どこかで別の選択肢を取っていれば三つ目の罪は為されなかった。僕たちは何らかの形で救われていたかもしれない。だが、そんな仮定の話は無為である。結果を受け止めずして、どうなるというのだ。
例えるならば、僕たちは反逆の志士だった。停滞しつつある世界に火を灯さんとする戦士だった。無論、どこかで狂い始めた世界と戦う正規のレジスタンスがなかったわけでもない。だが積極的に社会を変えようと動いた人々はルールに抹消された。残った手段は消極的な反乱だけで、とはいえそんなことをしても絶対規範は揺らがない。不動故に絶対規範なのだから当たり前だ。
詰まるところ、僕達のしていたことは始めから延命処置だったのだと思う。一つの罪を共有して五人が集まったのは起こるべくして起こったことであり、やがて最終的に犯した罪で生者の道を歩むことになったのも決まっていたことだった。僕はそう思う。
運命論は絶対規範がとうに否定したが、僕はそれを肯定する。受け入れる。信じる。愛おしんで抱き締める。僕ら五人が出会って泣いて、笑って傷つけ傷ついて、悲しみ怒って衝突しあって、仲直りして喜んで、戸惑って愕然として、そしてまた別れたのは必然だった。そういう運命というやつがあると思った方が、心が軽くなる。
ふと、暮田の死が脳裏をよぎった。もし、想像通り運命というものがあったとして、あのリーダーの死もまた何らかの意味があるのだろうか。
タバコの火が、フィルターの近くにまで到達した。火が近くにある分だけ熱量を含んだ煙を吸い込んで、咥えていたそれを足元に落とし、踏みつけて消火する。吸い殻を拾って携帯灰皿にしまって部屋に戻った。洗面台にて軽く口をすすぎ、ベッドの中へ潜り込んだ。眠気は無かったが、目を瞑っているうちに意識はまどろみの中に落ちていった。
瞼の裏側で死んだはずの暮田と、他ならぬ僕自身がこちらを見つめていた。脳の生み出した虚像に過ぎないそれらは、しかし途方も無い現実感を伴って僕に何かを訴えかけていた。
『思い出せ』
『思い出せ』
うるさい。思い出すことなど何もない。過去は、死者は、おとなしく忘却の彼方に埋葬されたまま、僕がそちら側に行くそのときを待っていろ。
しかしながら――翌日、死者からの手紙が届いたことで、僕はその記憶と向き合わざるを得なくなった。
「M-Memoryを探せ」
暮田の死は、僕の欠けた記憶を呼び起こすためのものだった。