後編
このシャイデンの街に到るまでは、足がついてはいけないと考えて公共の馬車等の乗り物は使わず、たまに親切な方に荷車の中にお邪魔になったりもしたが、ほぼ自力で徒歩で来たに等しい。それなりに体力と旅の知識を身につけていたことが功を奏した。蓄えてきた知識は仕事を探す際の交渉に役立った。
私が両親に迷惑をかけないようにと身につけてきたモノは、両親の愛を私に向ける事は叶わなくても確りと私の自立に役立ってくれたのだ。
今の旅館暮らしは以前の貴族の令嬢としての生活よりは贅沢なことはできないけれど、それでも毎日がきらきらとしていて、色々な人と出会って会話をし、仕方のない事で笑ったり泣いたり、以前までヴィーヌスの前でしか見せなかった感情を素直に出せる、充実したものだ。自分らしく生きるとはこういう事か、と身を以て実感した。それに、ゾルデさんやヘルムも身元の解らない私に良くしてくれる。
始めこそ貴族がいきなり庶民の生活が出来るかと不安になったりもしたが、案外私は庶民よりの思考だったのかすぐに慣れたし、ゾルデさんやヘルムが解らない事は丁寧に教えてくれるため、不思議と苦労はなかった。
家を出てからもう三ヶ月が経つ。出ていた婚約話も実際に現実になるほど時間が経った。ユリアーネは体調を崩してないだろうか。……ヴィーヌスは元気だろうか。
離れていても、彼らが幸せに笑って過ごしているならば、それで満たされる。
「リーザ!この料理、あっちのテーブルまで持っていって!」
夕食を旅館の客に振る舞っているゾルデさんの手伝いをヘルムとしていると、私の耳はある旅装束をしている男達の会話を捉えた。
「そう言えば聞いたか?」
「何だ?」
「近日中に王太子様ご一行がこのシャイデンを訪問するそうだ。まぁ、ただの物見遊山ではなく、輸出入の重要な拠点であるここの視察だろうな」
「なに?それなら騎士団も動いているのか」
「そうらしいぞ。王太子が他の地方を視察するときは大抵側近と騎士団の一部を引き連れるが、今回は騎士団長もつれているらしい」
「なんだ、ずいぶんこの街の視察に力を入れているんだな」
「ああ。これからもっと発展するというのはにぎわいを見ていれば解るしな」
私はギクリと身体を震わせた。
王太子が来る、ということは。当然側近であるヴィーヌスも来るのではないのか。それに騎士団長である父も来るという。まさか、居場所がばれたのか。
二ヶ月ほど前から王太子は地方の視察を始めたのは聞き及んでいる。クレメリー家の令嬢である私が居なくなった、という話は外聞もあり父が表立って出さなかったのか噂では聞かないが、父と王は近しいし話題に出している可能性もある。その視察が消えた私を探索することも考慮されていたとしたら。そうでなかったとしても、私は社交パーティーに何度も参加していて大抵の貴族には顔が割れているので、姿を見かけるだけで様々な憶測が飛ぶだろう。
私は震え上がった。見つかったら、十中八九連れ戻される!
今ゾルデさんとヘルムと一緒に暮らす事は私にとって心休まる場所になっている。離れ難いと思っているのに、視察団の誰かに見つかってしまえばどんな影響が彼女らにあるか解らない。私が一人で家出をしてきたことは状況証拠を見ればあきらかで、「思うところがあるのででかけてきます。今までありがとうございました。これから一人で生きていきます。心配しないで下さい」という置き手紙もしてきたから大丈夫かも知れないが、その他の人はわからない。何も知らない人に限っては、連れ去られたのだと勘違いしてしまうかもしれない。
そうと解ればすぐにこの街を発たなければならない。でも、いや待てよ、と考える。
視察団が来るということはもう恐らく明日には街中に知れ渡るだろう。そんな中でそそくさと街を出る方が怪しまれないだろうか?
この街は商人達が集まるおかげで発展途中だが、大きい。視察団が滞在する程の日数では回りきれないだろう。その間目立たないように過ごしては、あるいは……。でもそれでも見つかる可能性は否めない。
「リーザ?」
仕事を終えたヘルムが私の様子を伺って来る。
「え?」
「今日はやっぱり様子がおかしいよ。」
「そんな事はないわよ」
やはり癖になっている笑顔を貼付けると、ヘルムは困ったように笑った。
「母さんが話あるから、落ち着いたら来てってさ」
「なら、今行くわ、ちょうどキリがいいし」
そうしてゾルデさんが居る部屋へと急ぐと、いかにも彼女は困っているというような顔をしていた。
「私の母がね、こちらを尋ねてきたいそうなんだけど。もういい歳だし、旅が出来るのか心配なのよねぇ」
「久しぶりにお会いする機会なんですよね?」
「けどねぇ、旅の途中でなにがあるか解らないしね。それでさ、リーザに頼みがあるんだ」
「わかりました、ゾルデさんのお母様をお迎えに伺えばいいんですね?」
「話が早くて助かるよ!リーザなら旅に慣れてそうだし、信用できるしね。」
「待ってよ母さん!いくらなんでもリーザ一人じゃ危険だよ!」
「あら、何ならおまえも行って来るかい、ヘルム」
「仕事は大丈夫ですか?」
「なに、この子が小さい時は私一人で切り盛りしてたんだ。大丈夫だよ!」
「母さんもこう言ってるし、僕も着いていくからね!」
結局、私は二日後にヘルムを連れ立って馬車で片道二日程度に位置しているゾルデさんの故郷の町へいく為に少しの間この街を離れる事になった。内心、この街を離れるという口実ができて助かったと思う。恐らく視察団がこの街に滞在するのは五日程度だろう。明日明後日にこの街に到着するのなら、帰ってきて一日程注意して過ごせばいいし、見つけられる可能性が低くなったのは明らかだ。
折角見つけた居場所を失う可能性も、低くなったのだ。
翌日にはゾルデさんを手伝いつつ、少しの旅支度を整え、その翌日には馬と馬車を借りて旅立った。
予想通りというか、視察団は今日街に入るそうで、入れ違いになった。
しばらく馬車で行った頃、ヘルムが声をかけてくる。
「リーザは馬の扱いも上手いんだね」
「そりゃ、幼いときからやってたからね」
「何でも知ってるし、リーザも剣を扱った事あるんだろ?」
「どうしてそう思うの?」
「だって、少しだけど剣ダコがある」
なるほど、この男の子も観察力はあるらしい。
「これも昔からやっていたからね。今度試合ってみる?」
「ぜひ!それと、稽古に付き合ってくれたら嬉しい!」
笑いながらいいわよ、と言うとヘルムは屈託のない顔で笑った。年相応で、整った容姿をしている彼も、もう少ししたら頼もしく成長するのだろう。
……私はその時に同じように今の生活をしているだろうか。また違う街へ旅立って、違う人と関わっているのだろうか。
もしそうなっても、ヘルムの成長した姿は見たいと思う。短い期間ではあるが、親切にしてくれた人でもあるし、何より弟のように感じているのだから。
そんな少し遠い未来に思いを馳せていると、道の先に馬の中継場が視界に入った。いくら馬であっても一日中走っているのは疲弊してしまうので、急ぐ旅人のために替えの馬を提供する場所だ。
私たちもある程度急いでいるので、利用しようかと考えていたのだが、何やら人が多く集まっている。何か騒ぎがあったのなら足止めをくらってしまうし、この先にも中継場はある。ここは通り過ぎよう。
その旨をヘルムに伝えると、彼は頷いた。徐々にその人だかりが近づいて来ると、どうやら有名人が来ているらしい事が解った。
「なんて素敵な方なの!」
「噂のお方か。やはり其処ら辺の庶民とは違うな」
誰が来ているんだろうか、とちょっとした好奇心で通り過ぎ様に中心にいる人を覗き込んだ。その次の瞬間、私はその軽率な行動を後悔する。
目に入ってきたのは赤みがかった茶色の髪に、鼻筋の通った整った顔。ーーーヴィーヌスだ!
私は慌てて顔を正面に戻した。気のせいであって欲しいが、彼もこちらを見ていた気がするから。私は無言で馬の足を早めた。
「うわ、リーザ、どうしたの!」
隣でヘルムが驚いて尋ねて来るが、急ぎましょうとだけ返した。後ろで私を呼ぶ声が聞こえたような気がしたが、気のせいだろう。
そう急いだ結果、当然予定よりも早く次の日の朝には目的の街に到着する。
「もう、リーザったら途中から馬車の運転が荒くなって、酔いかけたじゃないか」
「ごめんなさいね。けど、早く着いたから少しこの街を回っていけるでしょう?」
「確かに!じゃあ僕、あのお店に行きたいな!母さんにお土産を買いたい!」
この街もシャイデンの街に劣らず、大きな街のようだ。お店の数は多いし、人の数も多い。
私ははしゃぐヘルムに付き合って、街の中を練り歩いた。何しろ、私も目にするものが新鮮に映るのだ。心の端に昨日見かけた男のことがちらついたが、考えないようにするにはちょうど良かった。
昼頃にヘルムがやたらと並んでいる屋台の食べ物と飲み物を買って来るから、この広場で待っていてと言われたので、私は近くにあったベンチに腰を下ろした。風で流れていく雲をみつめていると、頭の中によぎったのはやはり彼の顔だった。
視察団として王太子の近くに居るのではないのか。どうしてあんなところに一人で居たのだろうか。あの場所はどう考えても王都とシャイデンをつなぐ道の反対側に位置している道だった。
もしかして、父の命で私を探していたのだろうか?
それでもあの街に私が暮らしていたことはまだバレてはいない筈。旅装束をして馬車に乗っていたし、どこかに旅立ったのだと思われていればいい。帰りは少し遠回りになる道を通って、足がつかないようにしなければ。
そんな事を俯いて地面を見ながら考えていると、私の影に誰かの影が重なった。
「なんだ、ずいぶん時間がかかったわね、ヘルム……」
そう顔を上げてその影の持ち主の姿を認めると、私は絶句した。
「ヘルムとは、馬車で君の隣に座っていた男のことか、リーザ」
「な、な、」
何故ここに、と言いたいが驚きすぎて言葉が紡げない。
「君を追ってきたんだ」
「ど、ど、」
どうしてそんな事を、と言おうとすれば、先回りしてヴィーヌスは言う。
「そんなの決まっている。突然家出したリーザを探しに来たんだ」
「!私、帰る気はないわ!」
やっとなんとか動揺を抑えて言葉を発せられるようになった私は、明け透けに言った。
「リーザ。お前はクレメリー侯爵家の令嬢なんだよ?その役割を放棄するのか」
ヴィーヌスが聞き分けのない子どもに言い聞かせるように冷静にそう返してきたのは最もだ。貴族に産まれたからには、貴族としてその血を次の世代へと残していく役割がある。この国の貴族は幼い頃からずっとそう教えられてきているのだ。
「そんなことは百も承知よ。……けれど、私が居なくてもユリアーネがいるでしょう」
それに貴方と婚約もするのだから。そこまでは言えなかったけれど。
「……クレメリー家の長女である身分を捨てるということになるんだよ?」
「それでも、やっと私は自分の居たい場所を見つけたのよ!」
「……っ!?」
私の言葉にヴィーヌスはまさに驚愕、という言葉がふさわしい顔をした。そんな顔は初めて見たが、それでも私は自分の主張を変える気はさらさら無かった。
「兎に角!私は家から勘当される覚悟もあってここにいるのよ!これ以上の親切も詮索も不要ですので、どうぞお帰りになって下さい。」
そう言い切ってから私はその場を離れようと視線をヘルムが行った方へと向けると、彼は両手にパンにソーセージが挟まった持ち運び易い食べ物と飲み物を抱えてこちらを見ていた。
「ヘルム、あちらの公園の方が見晴らしが良さそうだわ。」
「え、あ、うん。でもリーザ、あの人は……」
「気にしないで。……もう関係のない人だから」
「……リーザ!」
後ろで強く呼びかけられた気がしたが、私は振り向く事もせずヘルムを強引に連れて行く。
「リーザ、呼ばれているよ?」
「いいのよ。」
ヘルムはしきりに気にしてヴィーヌスの方をどこか睨みつけるように見ていたが、姿が見えなくなると、今度は私に困惑した表情をみせる。……話さなければいけない時が来たのか、と心に陰りがかかった。
結局ヘルムが買ってきた食べ物を食べきって、ゾルデさんのお母様を迎えに行き、馬車でシャイデンに戻る時になっても、ヘルムは私とヴィーヌスの事を聞いてこなかった。そこにどこか安心感があったのだが、それでも彼やゾルデさんの側を離れて違う街へ行くべき時なのかもしれないと思い始めていた。
出発してからしばらく、私はヴィーヌスを警戒しながら馬車を走らせていたのだが、追ってくる気配は見当たらなく、少し安心して帰路へ発った。
しばらくは3人で話していたのだが、ゾルデさんのお母様やヘルムが話に花を咲かせはじめたので、その傍らで私はヴィーヌスとの会話を思い返した。
冷静になって今考えてみると、ヴィーヌスが言っていた私を連れ戻そうという理由が、全て貴族としての立場や責任についてだった。
「……なんだか、とっても癪にさわるわね」
別に彼に私に戻って欲しいと言って貰いたかったわけではない。……それでも、どこかそれを期待していたのだ。彼に想われているのは妹のユリアーネなのに、少しでも想って欲しかったという気持ちがあったことに、苦笑いがでる。
どうやら私は離れてもヴィーヌスの事が好きで、他の事に目を向けても、やっぱり彼の事を考えてしまうらしい。
彼に見つかったのだから、場所が特定されるのも時間の問題だろうし、やはり私はまた他の地に旅立つのが得策なのだろう。連れ戻されるのも嫌だが、こうやって彼の姿を見て想いを再確認するのも辛いのだから。……もうこれ以上届かない想いを抱き続けるのは、耐えられない。
「リーザ」
「なに。ヘルム?」
そろそろシャイデンも近くなってきた頃、日が沈んで暗くなってきたためゾルデさんのお母様は体調の事を考えて馬車の後ろで休んで貰っている。私は馬車を道から森林の方に外れた少し広い場所へと停めて、枝を集めて火を焚く準備に入っていた。ヘルムも馬車の方に行っていたのだが、そう遠くないところなのですぐにその声は聞こえてきた。
「……僕や母さんの側から、居なくなったりしないよね?」
ヘルムのその声は、嫌にはっきり聞こえてきた。
「僕も母さんもリーザが来てくれて、本当に助かってるんだ。」
そう言ってヘルムは私の座っている隣へと移動してくる。
「それに、僕、リーザのこと……」
少し視線を逸らしているヘルムに、私は笑みを向けた。
「私、ゾルデさんとヘルムの事、好きよ」
短い間だけれど、彼らの場所がいつの間にか私の居場所になっていたのだ。
「毎日が楽しくて、素直に笑えたの」
それまで、毎日が勉強の日々で、周囲に迷惑をかけないように振る舞っているといつの間にか家族に自分の感情を上手く出せなくなっていった事。
家族以外で安心できて、感情を素直に表に出せるようにな人とも出会ったが、それでも、その人は別の人と幸せになることが決まっており、その人も私にとって大切な人である事。
その二人が幸せになる事は嬉しい事だけれど、その隣でずっと見ているのは辛くて、遠くへ来た事。
冷静に話せたのはきっとヘルムも私にとって感情を出せる相手だからだろう。
「だからね、私がどこかへ行ったとしても、帰って来るのは貴方達の場所よ。それ以外はありえないわ」
「リーザ……」
少し寂しそうな、それでも嬉しそうな笑顔を見せてくれるヘルムに、私は堪らなくなってぎゅっと抱きしめた。
「な、ど、どうしたの!?」
狼狽えているヘルムも何だか可愛いなと思いつつ、私はその温もりに安心感を得ていた。
私が近くに居る事を望んでくれている人が居る。必要とされていることが、どれほど嬉しい事か。あのままクレメリー家にいれば、恐らくそんな事にも気がつかなかっただろう。ずっと自分を抑えて、自分らしく居る事をずっと忘れていたのだから。
「私も、嬉しいのよ。ヘルムやゾルデさんの役に立ってる言ってもらって!」
「……何だか複雑な気分だよ、僕は」
ヘルムは困ったように笑っていたが、そのうち私の後ろの方に視線を向けて、眉を潜めた。
「おいおい。こんなところで逢い引きかぁ?」
「いいねぇ、坊主。俺たちも仲間に入れてくれよ」
ガサリと草をかき分ける音が聞こえてきて、私は身体を震わせた。そちらを向くと、男が数人……4、5人私たちを囲い込もうとしている状態だった。彼らはいかにもというか、身形は平民のなかでも真っ当に暮らしていないのが解る身形だ。
「リーザ、離れて」
ヘルムは私をその背に隠すように前に立ち、持ってきていた剣を抜いて構える。私はそれを視界に入れながら、男達を観察した。
彼らの武器も、剣や短剣。それ以外の刃物は見当たらないが、何かを隠しているかもしれない。それに比べて私たちはヘルムの剣と、私が家を出るときに持ってきた懐刀。ヘルムのおばあさまが馬車にいるのだし、数的にも状況的にも圧倒的に不利である。
「いいえ、ヘルム。ここは逃げるのが得策よ」
私はヘルムにだけ聞こえるように小さくそう呟いた。
「いい?貴方は合図をしたら馬車の方に走って。走らせる準備が出来るまで私は時間を稼ぐから。」
「でもそれじゃ、リーザが危ないよ」
ヘルムが心配そうに意を唱えるが、私は引く気がなかった。
「いいえ、今の状況でこれが得策だと思うわ。もしも失敗したとき、誰がおばあさまを守るの?ヘルム、貴方でしょ」
「僕はリーザも守るよ!」
この男の子が言う事はまっすぐで、純粋だ。私はそれに内心微笑んだ。
「大丈夫よ。私を誰だと思っているの?それに、私を守るというのなら、馬車を出す準備を出来るだけ急いで」
「……わかったよ」
そう言いながら葛藤している様子のヘルムを見て、私は微笑んだ。
「行くわよ。」
それを合図に、ヘルムは馬車の方へ走っていった。
「あれぇ、嬢ちゃんをおいてあの坊主逃げるのかい。」
「なら、嬢ちゃん。俺らと楽しもうぜ」
「……お断りよ。生憎と私、そんな暇はないのよ。重要な任務があるの」
ヘルムのおばあさまを無事にシャイデンの宿まで送る、という他人から頼られた仕事が。
「可愛い顔してるから、下手にでたらこれだぜ。生意気な女は嫌われるぜぇ?」
「あら、そんな生意気な私に下手に口説いてきている貴方達が言えるのかしら。」
「この女ぁ!」
しびれを切らした一人が、私に向かって剣を振り下ろす。私はその様子をじっと見つめつつ、その男が力任せに下ろしてきた手を掴み、流れるようにその力を利用して受け流しつつ腕をひねった。男の力はぶつかる場所を失い、そのまま男は地面に倒れ、手にあった剣は落ちる。
「……ってえ!」
地に落ちた剣を私は素早く拾い、男に向ける。
「な……!女ぁ!てめぇ何しやがる!」
「何って、正当防衛?まだ死ぬの嫌なの」
まだ余裕があるように見せているが、正直ここが限界だと私は感じていた。騎士団長の娘だとしても、正式に学校に入って訓練してきた訳でもない、女の力が一人の男ならまだしも、多数に攻められれば押し負けるに決まっている。力を受け流すような剣の使い方しか、非力な女の身で男達と渡り合うには方法がないのだから、限界があるのだ。
「リーザ!」
ヘルムが私を呼びかける。どうやら準備が出来たようだ。
「ヘルム!出して!」
そう叫ぶように言いながら、自分も逃れる為に私は走って馬車へ向かう。だが。
「おいおい、俺たちとは遊んでくれないのか?」
「……っ!」
私がそちらに行くのが解っていたかのように回り込まれ、完全に四面楚歌になってしまう。ヘルムは私の様子を見て、馬車を止めようとしたのだが。
「ヘルム!行きなさい!」
私の為にヘルムまで巻き込む訳にはいかない。ここは自力で抜け出さなくては。ヘルムは迷いながらも馬車を止める事なく、そのまま走らせた。
「手こずらせやがって」
「馬車の積み荷は失ったが、この女売るだけでもまぁ、だいぶカネになるだろう。出来るだけ傷つけるなよ」
「貴方達みたいなのに捕まるなら、死んだ方がましよ」
「つくづくてめぇは俺らをいらだたせるのが好きなようだなぁ」
男達がニヒルな笑みを向けて私に迫って来る。実戦の経験がない私は、どうやって切り抜けようか、それでももうここまでかもしれない、という迷いが出て、嫌な汗が背中を伝っていくのを感じていた。
その時だ。
「リーザ!」
その場にいる筈のない声が聞こえてきて、私の思考は一気に硬直した。
なんで、どうして。ここにいるの。
「ヴィーヌス……」
その名を呟いた時には、男達は地に伏せていて、彼は私に心配そうな視線を向けていた。
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「何もされてないか?」
ヴィーヌスは私の身体を触って確認しながらそう尋ねてくる。
「何も。……大丈夫よ、貴方がきてびっくりしているだけだから」
硬直していた私がよほど心配だったのか、彼はそれでも傷はないかと私の身体を確認していた。それで本当に何もないと解ると、深い溜め息をついた。
「後を付けてきていたのね」
苦笑いをしながら私がそうぽつりと呟くと、こちらに視線を合わせてきた。
「リーザがこっちの方向に向かったし、俺もこちらに用があるからね」
「私、もう構わないで下さいと言ったわよね?自分の用があるのなら早く済ませれば良いじゃない」
「俺はそれに了承した覚えは無いし、俺が来なければリーザは大変な事になっていただろう?」
ああ言えばこう言う、とはこの事だ、と私は溜め息を吐きながら思った。それでも、ヴィーヌスの言う事は最もなのだ。
「感謝するわ。……助けてくれてありがとう、ヴィーヌス。今回の事は、そうね。本当に貴方がいなければ危なかったわ」
この人に居場所が見つかったのは良い事とは言えないけれど、本当に感謝している。少しぎこちないのが自分も取り乱していた事が解って、少し不器用な笑顔で礼を述べると、気づけば私の視界はヴィーヌスのたくましい胸でいっぱいだった。ヴィーヌスは何を思ったのか、私をその腕で抱きしめているのだ。
「な、ヴィ、ど、どうしたの?」
「だめだ、やっぱり無理だ。諦められない」
何を言っているのだろうか、この男は。
「ちょっと、苦しいから離して、ヴィーヌス!」
「無理だ。離したら逃げるだろう」
当たり前よ!こんな心臓ばくばくで、真っ赤な顔なんて見られたくないにきまっている。それに、私が彼の腕の仲にいて良い理由なんてないのだ。この場所は、もう誰のものか決まっているのだ。
「こんなところ、誰かに見られたら困るでしょう」
「なにも困らない」
取りつく島もない。それでも、私は彼を噂で貶めるようなことはしたくないのだ。
「だめよ、だって貴方今、婚約しているのでしょう?ユリアーネに示しがつかないでしょう!」
私がそう言うと、ヴィーヌスはキョトンとした顔でこちらを見てきた。ただし、私を腕から話さないまま。
「何故そこでユリアーネが出て来る?」
「はぁ?だって、貴方。ユリアーネと婚約したのでしょう?」
そこで空気が固まった。多分、1分位は固まっていたと思う。私はその時間が苦痛で仕方がなかったのだが、返ってきたヴィーヌスの答えは予想外のもので。
「……俺はユリアーネに婚約の申し込みをしていると思われていたのか……?」
「……違うの?だって、クレメリー家の令嬢とハーロルト家の三男との婚約が決まったって確かに聞いたのよ」
「確かに、団長から俺はその了承を得た」
「なら、やっぱりそうじゃない。ハーロルト家の三男の貴方と、クレメリー家の令嬢のユリアーネが結婚するんでしょう?」
そうもう一度尋ねると、ヴィーヌスは眉間に皺を寄せた。
「あのな、クレメリー家の令嬢はユリアーネだけではないだろう」
「?そうね。けれど、もうすぐそうなるでしょ、私は縁切られるわけだし。」
何だか会話がかみ合っていない気がするが、私の中でそれはもう確定だと思っている事だ。
「……団長はリーザが居なくなってから必死に探してたよ。俺だって探しまわった。俺と団長は殿下にも協力してもらって、視察と称して表向きは殿下付きだけど、こうして俺は別行動で。団長はあまり自由が利かないから、くれぐれも頼むとも直々に言われている。だから、縁を切る事はない筈だ」
お父様が探してくれていたことは何となく解っていたけれど、そこまで必死になっているとは思わなかった。
「やっぱり、娘が出奔したのって、貴族の間では醜聞だものね……」
ぼそり、と呟いた私の言葉を聞き逃さなかったヴィーヌスは、眉間に皺を寄せた。
「リーザ、それはどういう事だ。」
「だって、それ以外に私を探そうとする理由はないでしょう?ユリアーネを溺愛しているのだし、私が居なくたって、別に問題は無い筈よ。私は居ても居なくても同じなんだから」
苦笑いをしてそう言うと、何故かヴィーヌスが私の方を強く掴んで険しい顔で怒鳴ってきた。
「そんなわけないだろう!団長は本当に心配している!」
「それが本当だとしても、予想外の事が起こって動揺していただけでしょう?」
お父様はいつもお母様や妹を気にかけていて、私はその背中を見ていた記憶しかない。私にとってはそれがお父様の姿だった。家族で食事をしていても、お母様とユリアーネとばかり話していて、私は会話らしい会話をした覚えもない。
ヴィーヌスは私から離れて額を手で抑えると、深い溜め息を吐いた。それが何だか呆れられた様で、私はイラっとする。そもそも彼の行動の意味が解らなくて混乱している上に、お父様が必死に私を探していると肩を持つような事を言われて。そんな事は今更言われても信じられないというのが本音だ。
そして、怒鳴られた事とこのヴィーヌスの態度で私の中で今まで我慢していたものがはち切れそうにふくれあがった。
「あのな、リーザ。俺は団長から直々に探索を頼まれているんだ。絶対に見つけて欲しいと切実に頼ってくださっているんだ。それに俺は……」
「……いい加減にしてよ!」
何か言おうとしていたヴィーヌスを遮って、私は声を張り上げた。
「今まで妹ばかり可愛がって両親とも家族らしい関わりが出来ず、一生懸命自分を見てもらおうと努力してきたけど無理だった!ユリアーネは私を慕ってくれて可愛いけれど、両親の愛情を受けていて、私との差に劣等感を抱かずに居られるような出来た人間じゃないのよ、私は!それを周りに打ち明けられるような友人も出来ずにずっと必死に隠して、やっと自分らしく居られる人ができて、それでもその人もやっぱり妹の方が良くって!もともとあの家に自分の居場所もなかったのだから、それなら自分1人で生きていって、自分の居場所を探そうとしても良いじゃない!それなのに!何なのよ、今更連れ戻そうって!居なくなったからって心配して探しまわられても信用できる訳がないでしょう!やっとよ!家を出てやっと自分を押し隠さなくてもいい場所を見つけたのよ!」
支離滅裂になっているのは解っていた。それでも全部吐き出さずにはいられなかったのは、ずっと誰かに吐き出したかったからかもしれない。言い終わった時には私は方で息をしていたし、視界は涙で歪んでいた。
「リーザ……」
私に再び触れようとしてきたヴィーヌスの手を私は避けた。
「そうやって、私に触れないで!その腕の中は私の居場所なんかじゃないのよ!ユリアーネの場所なんだから!優しくされたって、私が嬉しくもなんともないの、解ってよ!」
酷い事を言っている自覚はあるが、もう私は自分の感情を抑える術を知らなかった。このままだともっと酷い事を言ってしまうかも知れない。それでも、止まらなかった。
「いつもそうよ!私の本当に欲しいものは、手に入れられない!ユリアーネには簡単に手に入っても、私にはこんなにも遠いの!お父様とお母様の愛情も!特別な貴方の隣も!自分が欲しいと思ったものは全部、全部!」
「リーザ!」
近くで自分の名前が強く呼ばれたかと思うと、私は強引に手を引かれて、簡単にヴィーヌスに捕まった。それに反射的に抵抗しようとすると強く抑えられる。そして気がついた時には彼の顔が近くにあった。そして唇は何か柔らかいものが触れている。
なに、これ……。
私の思考は一気に停止し、自分の身に起こっている事が理解できなかった。やがて彼の顔が離れていくと私の顔はものすごく熱くなった。
「リーザ……」
大人しくなった私を抱きしめるようにしてそう耳元で囁かれると、身体の力が一気に抜けていくような、くらくらとした感覚に陥る。これではまるで。
「恋人に囁くみたいじゃない……」
ぼそりと呟かれた私の言葉は当然ヴィーヌスの耳にも拾われていて。
「そうだよ、リーザ。俺はお前がこんなにも愛しい。」
その言葉に、私は息を飲んだ。
「……嘘よ、だって貴方はユリアーネのことが、」
「ユリアーネは妹のようにしか思ってないよ。それに俺は最初からお前との婚約を団長に申し入れしていたんだ。どこでどうすれ違いがあったのかは解らない……いや、何となく解った」
恐らく団長とお母上だろう、と続けると、ヴィーヌスは私の顔を見つめてきた。
「でも、ユリアーネのほうが美しいでしょう?」
「リーザは自分の魅力を解っていない。俺が夜会で下心を持ってお前の隣にいる男にどんなに嫉妬していたと思っている?」
嫉妬していた……?夜会では彼が私をどこか腹の内を探るような、睨むまではいかないがそんな顔をしていた覚えしかないのだが。近くに寄って来る令息達とは普通に世間話をした覚えしかないし、そんな心当たりも何もない私は少し首を傾げると、ヴィーヌスは再び腕に力を入れて抱きしめてきた。
「ほら、そういう無防備な顔をなんの警戒もなしにするな。ついでに笑顔も泣き顔も全部俺の前だけにしてくれ」
「?そんなの無理に決まっているでしょう?それになんでヴィーヌスの前だけならいいのよ。」
「……。聡明で、社交界でも淑女で通っていて、貴族間の腹の探り合いでも笑顔で論破するお前が、もしかしなくてもここまで鈍感だったとは……」
「失礼ね。私、鈍感ではないわよ。空気だって読んでいたでしょう。ユリアーネと貴方が何か話しているときはなるべく近づかないようにしていたし」
「……。」
ヴィーヌスは沈黙して、それから深い溜め息を吐いた。
「な、何よ」
「何故ここまでいろいろと拗れてしまったのか理解した。態度で示しても回りくどく伝えようとしてもこういった事はお前には伝わらないんだな。」
「?」
彼が何を言いたいのか理解できない私は、再び彼が私の唇を塞いでしまうことに抵抗も出来ず、さらにその後の言葉は思考すら停止してしまうものであることも予想すらしていなかった。
「リーザ、愛している。俺と結婚してくれないか」
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いろいろとすれ違いと勘違いがあった私とヴィーヌスだが、あの後もういいって言っても止めてくれないくらい蜂蜜もびっくりな甘い言葉を吐かれて、私は彼の想いを充分すぎるほど理解した。
もう絶対に逃がさないとばかりに抱きしめてくれる腕も、落ちて来るくちづけも、本当に私を大事にしてくれているのだとわかって、くすぐったいような何ともいえない気持ちになったし、求めていたものが手をのばせば届く距離にあることに安心を感じていた。
それからシャイデンまで戻って、ヘルムの無事を確認しようと宿まで行けば、彼は泣きながら安心してくれて、ゾルデさんもホッとした顔で宿に迎え入れてくれた。そこで私の正体を明かし、簡単に自分の経緯を話して帰らなければならない事を伝えると寂しい顔をしていたが、折角出来たこの関係を私は終わらせるつもりはなかったので、定期的にお手伝いをしにきてもいいか、と提案したのだが。
「リーザ、そんなこと出来る訳がないだろう」
とヴィーヌスに言われてしまう。だが引き下がるつもりはなかった私は、
「何よ、私の安息できる場所を貴方が奪うって言うなら、私、絶対に帰らないわ。」
そう言うと、ヴィーヌスは眉間に皺を寄せて、たまに、自分も一緒ならと言ってきた。私も今回の事は自分の勘違いもあって勝手に出奔していることで周囲に多大な迷惑をかけた負い目もあって、それで譲歩した。
「リーザ、僕はその人よりも強くなって見せるからね!」
お世話になったゾルデさんの宿を後にする時にヘルムからかけられた言葉に、ヴィーヌスが不機嫌になったのには少し笑ってしまった。
それからシャイデンがある地方を治めている領主邸へとヴィーヌスにつれられると、騎士団長であるお父様が私の姿を見つけるや否や、駆け寄ってきて息が出来ないほど抱きしめられた。泣きながら今までの色々を謝ってくれたのだが、その必死さにひいてしまったのは仕方のない事だと思う。だって、歳のいった男の人の泣き顔って、ねえ?
だけど、そのおかげで私はお父様から愛されていることも解ったし、お母様との距離はなかなか埋まらないけれども歩み寄れそうな気もしている。
「リーザ、こんなところでどうした?」
そんな騒動から婚約、結婚を経て一年が経った頃、クレメリー家の中庭で空を見上げていると、屋敷の方からヴィーヌスが声をかけてきた。
「ちょっとね、今日は天気が良いからここでお茶でもしようかなと思って。貴方もどう?」
「なら、およばれしようかな?」
すぐに使用人達に用意された席に座って、テーブルの上のお茶とお菓子を早速いただく事にした。
「リーザ、なにか良い事あったのか?」
「わかる?」
「だって出会った頃からお前ことばかり見ていたんだよ?」
「うふふ、あのねーー、」
耳元で嬉しい報告を秘密を囁く様にそっと告げると、ヴィーヌスは一瞬驚いた顔をして、それから泣きそうな笑顔を向けてくれた。ありがとう、とぎゅっと抱きしめられると、自分の顔が嬉しくて顔が綻んでいるのがわかる。その嬉しさついでに、私は彼の耳元で囁いた。
「貴方を、愛しているわ」
とりあえず本編は終わります。
この後ヴィーヌスの方の視点で書きたいな、と思っているのですが、時間があんまりないので、いつになるかわかりません(苦笑)なので、気長にお待ちいただけると嬉しいです。