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小説

朝礼当番の憂鬱

作者: ガンベン

 最寄りの駅から会社に向かう道の途中で、広川浩司はふと考えた。

 会社が突然無くなっていたら良いのに。……いや、やっぱり苦労して就職活動をして入社した会社だし、そうなると次の就職先を見つけないと行けないから困るな……。

 重い足は浩司の意思とは反対に、責任感という見えない力により運ばれていく。でも、昨日大雨が降っていたから、皆な風邪を引いて会社が急に休みになることだってあるな。目を落とすと、昨日大雨が降った跡の水溜りが、映った。うん。可能性は、無くはない。

 そんなことを考えて、下を見ながら歩を進めていると、いつの間にか、会社の近くまで来ていたらしく、ふと誰かに呼び止められて現実に戻った。

「おはよう。浩司。」

 声の主は、同期の及川雄太だった。突然飛んできた声で、今までの根拠のない期待感を消されたが、まあ当然だよなっと思い直して

「おお、おはよう。雄太」と元気な振りをして返事をしてみた。

「今日も仕事頑張ろうな。」雄太はいつもの様に明るい声で、話しかけてくる。憂鬱な今の心情が照らされているようだった。

「そうだな。頑張るわ。」と会社一階にある出勤カードに打刻しながら、空元気で答えてみた。席に向かう途中、間違いで机に置いてある冊子を、他の人が持って行っているかもしれない、と最後の希望に賭けてみた。しかし、最後の悪あがきともいえる妄想は、浩司の机に置かれている冊子により、見事に打ち消された

 。はあ……まあ頑張ろう。浩司のため息が静かなオフィスに響きわたった。


 浩司の机に置いていた冊子。それは、朝礼当番を意味する冊子だった。4月に入社して一か月間、浩司はこの日が来るのが嫌で嫌で、仕方がなかった。

 この会社では、仕事の前に9時から5分間、約60人の社員全員が同じフロアーに集まり、会社の経営理念や行動規範を唱和したり、接客練習を行ったりすることになっている。

 朝礼当番の役割は、フロアー全員の方たちが声を合わせる為に、まず朝礼当番が一人で各項目を読み上げ、皆の唱和の音頭をとることだった。その内容は、全て冊子に書いてあるので、皆の唱和がしやすい様に、タイミングを取って読み上げるだけの単純な担当でもある。

 しかし浩司は、人前で話すのがとても苦手だった。そんな自分が60人という大勢の前で、唱和する為の読み上げとは言え、上手く読み上げることができるのかが、不安だった。社員全員の当番制の為、いつかはこの日が来ることは分かっていたので、毎日他の当番の方がどのような姿勢で読み上げているのか、意識して見ていたが、とても上手に読み上げていて、自分もできるのかな……と思っていた。

 昨日この冊子を渡された時は、遂にこの日が来たかと、死刑宣告を受ける気持ちで冊子を受け取った。昨日の夜は、上手くできるかどうか心配で、良く寝られなかった。今日の朝ごはんも喉にあまり通らず、母から

「今日は食べないの?こんなに残して」

 と不思議がられた。

「今日はあんまり食欲がないから、もういいや。行ってきます」

 と生返事をして、そそくさと家を出て行った。


「はあ……頑張ろう」

 浩司はそれまでの事を思い出しながら、ため息をついた。無意識に漏らしたせいもありその大きさが、周りの先輩たちの視線と笑いを集めた。

「広川君、どうしたの。そんなため息して。びっくりするじゃない。」

 同じ部署の上司の石島慶子が、少しびっくりした感じで、笑いながら浩司に話しかけてきた。

「実は今日朝礼当番で、とても緊張しているんです。人前で話すのが、苦手で……」

「大丈夫よ。あなたの先輩の篠崎君は、もう5年も経つのに毎回緊張していて、たまに読み間違いすることだってあるんだから、そうよね。篠崎君」

 頭をかきながら、篠崎がふてくされた様に、

「石島さんもひどいですよ。僕を例えにするなんて。全く。まあでも、広川君、初めは誰でも緊張するものだから、失敗してもいいんだよ。皆に聞こえる声で、元気よくやってくれればいいから。新入社員の君が元気よく読み上げてくれるだけで、皆やる気になるよと思うよ。」

「へえ、いいこと言うじゃない。失敗をよくする人は、フォローが上手いのね。」

 くすっと、石島が可愛らしく、篠崎の発言を茶化した。

「その言い方もおかしいですよ。あ、広川君。もうすぐ9時だね。朝礼が始まるから、そろそろ準備をして」

 腕時計を見ると8時58分だった。気がつくと、少しずつフロアーに人が集まってきていた。

「石島さん、篠崎さん。どうもありがとうございます。おかげで、ちょっと気持ちが軽くなりました。それでは、頑張ってきますね」

 そう言うと、浩司は朝礼当番の冊子を持って、フロアー中央に位置取り、9時のチャイムがなるのを待っていた。既にほとんどの社員が集合していた。彼らの視線が、浩司に集まる感じがして、一層緊張が高まった。心臓の音がはっきり聞こえる位大きく感じた。足元を見ると、自分の足に震えを感じた。落ち着け。落ち着けっと自分に言い聞かせて、浩司は、また頭を上げた。

 石島と篠崎が、こちらを見て「頑張って」と言っている口をしていた。軽く浩司は頷いた。

 9時のチャイムが鳴った。「おはようございます」浩司は大きな声で挨拶をした。これからしっかり頑張るぞ。っと気合いを入れて。


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