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店長さん、といったつもりだったけど、声にならなかった。
男がびくっとして店長に目を向ける。急に怯えた顔になり、じりじりと部屋の奥へと後退した。
「外に出て」
店長は男を見据えたまま私にいう。
いわれたとおりにしようとしたけど、足の力が抜けて動けなかった。店長の姿を見て、安心してしまったらしい。這うようにして逃げ出そうとしたところへ、すごい音がした。
男がこちらに椅子を投げつけたのだ。
幸い、椅子は見当違いのところへ落下したけれど、私は更に身体が竦み、部屋を出るどころではなくなった。ここを離れれば入り口まで身を守るものはなにもない。こうなったら、じっとしている方が安全だ。私は調理台の陰に隠れた。
店長は少しの間、私を気にして動くのをためらっていた。が、男が大声でなにか喚きだしたので、私に構うのを諦めた。
男がなにをいっているのかは全然わからなかった。日本語のようだけど言葉になっていない。怖ろしかった。
店長は身軽に調理台に飛び乗り、その上を移動してたちまち男に迫った。
店長ってば、調理台に土足で──口を開けたまま、こっそり様子を見守りつつ、妙に冷静に思った。
明日、使う前に消毒しないと。明日がちゃんと来れば、の話だけど。
「邪魔するな!」
男は叫び、店長に飛びかかった。
店長は素早い動きでそれをかわし、男の後ろにまわり込んだ。いつの間にか男の右手首をつかんでいる。そのまま背中に押しつけた。
男は呻いて暴れ出そうとした。店長は、前にも使ったあの言葉──確か九字とかいった──を口にした。男は魂を抜かれたみたいに鎮まった。
ほっとしたところで廊下に足音が聞こえた。複数だ。緊迫した声で会話しながら近づいてくる。
教師たちに違いない。私は反射的に立ち上がり、入り口の近くまで行った。
まさか目当ては、この部屋?
さっき男が椅子を投げたりしたせいかもしれない。だいぶ大きな音がしたから、不審に思われたとか。
「誰か来る!」
私としては、店長にそう警告するだけで精一杯だった。
足音と声がやんだ。部屋の前だった。私はため息をつく。それまでの勢いに反し、恐る恐るという感じで引き戸が開けられた。
緊張した顔で中を覗いたのは、二年の学年主任で、物理担当の教師だった。
「君は」
教師はいう。
「1‐Cの斎木だな」
突っ立ってる私を見て、顔の強張りが緩んだ。なんとなく気が抜けた表情になる。たぶん、もっと怖ろしいなにかが室内にあると想像しながら、やってきたのだろう。
「さっき大きな音がしたようだが。なにかあったのか。大丈夫か」
立て続けに訊いた。
「はあ」
私は曖昧に頷く。
学年主任は店長たちに気づいた。
「あれは」
驚いていう。
「き、君たち。そこでなにをしているんだ」
学年主任は、気の毒なくらい弱々しく二人に声をかけた。
見れば店長は、右手で男の腕を押さえたまま左手で男の身体のあちこちを探っていた。教師の声は完全に無視だ。
学年主任が再び私を見た。ここにいたんだから事情を知っているんじゃないのか、という顔だ。
店長はいったいなにをしてるんだろう。思いながら、説明に困った。
知りません、といって警察を呼ばれたりしても厄介だ。といって、本当のことをいったところで信じてもらえるはずもない。