xx.
店長が店の奥へと消えた。やがてココアの甘い香りととも戻ってくる。両手に持っていたカップのひとつを私に差し出した。
私は温かいカップを受けとる。湯気がふわりと顔に触れた。
店長の分はコーヒーらしかった。黙って飲み物に口をつける彼の横顔を見ていたら、また落ち着かない気分になってきた。
「ホントの店長さんって、どうしちゃったんですか」なんて訊いてみる。
「ああ」
店長はこちらを向いて、
「海外へ行っちゃったんだ。タイとかその辺」という。
「旅行が趣味なんだ。不動産屋の一人息子でさ。この店もあの人のものなんだよ。家が資産家だから、道楽で店をやったり、長期間海外でふらふらしたりできるんだ」
「はあ」
あの人は本物のオーナーだったのか。私は、なにに対してかはよくわからないけど感心する。世の中にはいろいろな人がいるものだ。
「あの人がいない間、店番するのがおれの役目。その代わり、家賃をただにしてもらってる」
「家賃?」
「この店の奥と二階、家になってるんだ。そこに住んでるの」
「ここに住んでるんですか」
「そう」
そうなんだ。
ってことは、ものすごいご近所さん。町内会とかもしかして一緒では。って借家住まいの人に町内会は関係ないか。私だって町内会がどんな活動をしているのか知りもしないし。
でもなんか、これってすごく普通の会話じゃない? なんだろう、なんか楽しかったりして。
だけど楽しすぎて、逆に怖いような気もしてきた。外を見ると、もう暗くなっていた。帰らなくちゃ、と思った。
「あの、私、そろそろ帰ります。もう大丈夫ですから」
私は立ち上がった。
「ああ、ごめん。すっかり暗くなっちゃったね。家どこ。近くまで送って行くよ」
店長も立ち上がっていう。
私は首を振った。
「大丈夫です。一人で帰れます。私の家、ここのすぐそばなんです。走れば十分もかからないし」
「走るって、危ないよ」
「いえ、走りませんけど。まだ人通りも多いし。それに、もう魔物は来ないんでしょう」
「うんまあ、たぶん」
たぶん? と突っ込みたくなるのを抑えて、
「いざとなったら、これもありますから」
貰った霊符とやらを顔の前で振って見せる。
店長は腕を組み、思案した後で了解した。
「わかった。じゃあ、気をつけてね」
「はい」
私はドアに行きかけて、立ちどまり振り返った。思い切って、今まで誰にもいったことのない言葉を口にしてみる。
「また──遊びに来ても、いいですか」
「おれの力が気にならないなら、いつでもどうぞ」
「大丈夫、触らないようにしますから」
私は笑っていった。
「おれも気をつけます」
彼も笑う。
やっぱり普通の会話だ。まあ、ちょっと普通じゃないけれど。
「じゃあ」
「うん、またね」
店長が扉のところまで来て見送ってくれる。
さっきまでの怖ろしい出来事も忘れて微笑んでいる自分に呆れながら、私はこれまで感じたことのないような晴れやかな気持ちで店を出た。