ix.
玄関のドアが大きな音をたてて閉まった。
深く息をついたところで、どうかしたの、と訝しげな母の声。すぐそこにいて、びっくりした顔で私を見ていた。
私も少し驚く。朝、仕事に出かけたはずでは。
「お休みだったの」
「明日の準備があるでしょ。半日で帰ってきたのよ」
「そう」
「ドアは静かに閉めてよ。危ないじゃない」
「変な人が」
いいかけて、やめた。リビングへと行きかけていた母が振り向く。またなの、と眉をひそめた。
「あなたが、ちゃらちゃらしているから悪いんじゃないの」
「──ごめんなさい」
「気をつけなさいよ。世の中、変な人が多いんだから。ちゃんとしなさい」
彼女は廊下から消えた。私は玄関に立ちつくし、もう一度、ごめんなさい、と呟いた。
いつものことだった。街で男の人にじろじろ見られたり、家によく知らない男の子から電話がかかってきたりするたびに母はいった。
ちゃんとしなさい。
だけど、ちゃんと、というのはどういうことを指すのだろう。まるでわからなかった。
私は、他の人に比べてちゃんとしていないのだろうか。他の人は、いったいどれくらいちゃんとしているんだろう。そもそも自分の娘が嫌な思いをしているというのに、そんな言葉って。
それを聞くごとに思っていた。
──お母さんは私が嫌いなの?
実際何度か口にしかけたこともある。
だけどそれは、訊いてはならない問いだった。もしもあっさり、そうよ、という言葉が返ってきたとしたら、もうどうにもならないからだ。
そもそも世の中には、知らない方がいいこともあるものだ。私はため息をついてリビングに向う。中では姉が、キッチンに立つ母に指示を仰ぎながら荷づくりをしていた。
明日は何時ころに出るんだろう。事務的な質問が浮かんで、再びため息をこぼした。
世の中には知らない方がいいこともある。だけど残念なことに、そういうことに限って、ちゃんと答えが用意されていたりもする。
母と話す姉の姿とリビングのまとめられた荷物を見て、私は思った。
これが、小さい頃から抱いてきた疑問の答えに違いない。やっぱり母は、私が嫌いなのだ。