第二十罪 親友の最期
康助が刺された。そう聞いたのは火曜日の夜遅くだった。俺は恐怖慄いた。渋谷で起きた連続通り魔事件。康助はその最後にして最悪の被害者になった。俺は真っ先にあの夜の事を思い出した。あの夜は罪人システムに異常があって傷の転移は無かったはず……なのにどうして。
俺はフレイを問いただした。しかしフレイもそれは分からないと言うだけだった。
病院に行くと康助は昏睡状態になっていた。今夜が山場らしい。
部屋には康助の不良仲間、お母さん、親戚の方が総出で集まっていた。中に姫本さんも居た。ベットに眠る康助は大層、穏やかな顔をしていた。眠っているかのようだった。
意識が今夜中に戻らなければもう助からないらしい。俺は一晩中、康助を呼び続けた。でも康助は帰ってこなかった。最初にして最後の家出。お母さんはずっと息子を呼び続けていた。その姿があまりに痛々しくて俺は一人、トイレで泣き続けた。
クラスのホームルームで康助の死が皆に伝えられた時、俺は教室に居なかった。俺は一人。部屋で、康助とあの夏休みやり続けたレーシングゲームをやり続けていた。康助、このコース苦手だってなぁ……なんて思い返しながら。
結局、俺は康助を救えなかった。康助を一人で先に逝かせてしまった。間違いなくあの時、あの夜明け前、後ろから刺された傷が康助に移った物だった。全く同じ傷だった。出血量も、何もかもが。俺の命に別状はなかった。それはきっと康助が俺の傷を代わりに負ってくれたから。俺は本来、あそこで死ぬはずだった。罪深い人間が生き残って、あんなに優しい人間が死ぬなんておかしい。
世界はどこまでも理不尽だ。神は人に不平等であり続ける。運命は残酷であり続ける。
俺はあの夜、何を得て何を失ったのか。
俺は何を犠牲にして何を得たのか……。
俺の選択は正しかったのか、
俺は罪を償えたのか……。
俺は進めたのだろうか。
俺は今、生きているのだろうか?
俺と姫本さんは二人で街に流れる川の河川敷に来ていた。春の日差しは強くて時折、鬱陶しくなる。河川敷に沿って植えられた桜の木はすっかり満開でちょうど今はお花見シーズン。でもこの辺りは交通の便も悪いせいかあまり人はいなかった。唯一、ブルーシートを引いて楽しそうに宴会をやっている集団が川の向こう側に小さく見える。
「いきなり、呼び出したりしてごめんね。あんな事があったのに」
あんな事とはもちろん、康助の死だ。今日は水曜日。学校が終わって姫本さんに呼ばれた俺は何事かと家に帰った後、直ぐに向かった。
「昨日……真城君、学校来なかったから心配したよ? まさかこんな事になるとは思ってもみなかったけど」
俺達は桜に木の下に座った。
「一日休んだら、落ち着いた。もう大丈夫だよ」
すでに姫本さんの目は涙で溢れている。もう俺の涙はとうに枯れてしまった。
「これ……」
姫本さんは俺に最新型の携帯を差し出してきた。これは姫本さんの携帯?
「小山君が亡くなる一時間前のメールです」
画面には、送信者小山康助となっているメールが表示されていた。件名は『みつけた!』
そのメールには写真が添付されていてその写真には高級ジュエリーショップと一緒に満面の笑みをこぼす康助の姿が映っていた。
「これは――」
受信時間は四月十日午後九時三十分となっている。間違いなく康助から姫本さんに送られた事件前のメールだった。
「昨日、十二日は私の誕生日だったんです。」
姫本さんは携帯をしまってそのまま膝を抱え込んでうずくまった。
「だから小山君が誕生日プレゼントをあげるって言われたんです。私は冗談半分で渋谷にしか店がない高級店のジュエルをお願いしたんです。もちろん、本気で貰う気なんてさらさらありませんでした。それに高校生が買える様な金額の物でもないですし」
誕生日プレゼント。康助は毎年、俺の誕生日になるとどんな高い物でもプレゼントしてくれた。あいつはそういう男だった。
「私もまさか本気にするなんて思ってなくて。どうやら小山君は学校の後にバイクで本当に私が頼んだプレゼントを買いに渋谷に行ったみたいなんです。その時に送られてきたメールです」
姫本さんはずっと動かない。頭の上に桜の花びらが積もっていく。
「このメールを見たとき、私もびっくりしました。本当にうれしかった。でもさすがにそんな高価な物は受け取れないって遠慮したんです。でもその返信は……来ませんでした」
ついに姫本さんはその態勢のまま泣き出してしまった。
「…………」
康助は自分の好きな女のプレゼントを買いに行って死んだのか。康助らしいな。
「だから……」
涙交じりの震えた声だった。
「私のせいなんです」
小刻みに揺れる肩。自分の辛い思いをその両腕に抱きかかえて泣いていた。
「私がぁ……あんなしょうもない冗談を言ったばっかりに、小山君はぁ……あぁ……」
頭に乗ったピンク色の花びらがひらりひらりと芝生の上に落ちていく。涙で濡れる膝。
「私が、殺したようなものです。私が、あんな事を言わなければ……うぅ」
俺には姫本さんの言葉を言葉で返す権利はない。当の本人の気持ちはもう二度としることができないのだから。
「姫本さん……」
姫本さんの気が落ち着くのを待って口を開いた。
「私が憎まれるのは当然です……うぅ」
完全に堕ちているな、こりゃあ。
「康助は、きっと姫本さんの涙なんて見たくないと思いますよ?」
康助が何を考えて死んでいったのか、それは俺にも分からない。でもあいつと多くの時間を一緒に過ごしてきた俺はあいつの好きな女を泣かしてはいけないのだ。あいつは好きな女の笑顔を見たくて死んでいった。
涙を拭く姫本さん。
「康助はきっと姫本さんの笑顔が、喜ぶ姿が見たくてプレゼントを買いに行ったんです。その貴方がこうして泣いているのを康助は見たいと思っていないでしょう。自分の死を悼んでいるならなおさらです」
俺は精一杯、気張って話した。一瞬でも気を抜いたら今度は俺が泣いてしまいそうだったから。
「貴方が今回の康助の死をどう見るかは自由です。ただの事故だと言えばそれまでですし、犯人を恨むのも自由だと思います。でも今の貴方は間違っている」
拳に力を入れる。……俺は生きている。こうして姫本さんに思いを伝える事が出来るのだ。
「康助のためにも、そして俺のためにも貴方は笑っていてください。貴方が罪を背負う必要な無い。もう苦しまないでください。これは終わった事ですよ」
もう、誰にも罪を背負ってほしくない。辛い思いをするのは俺だけで十分だ。
「真城君、ありがとう」
「そんなところに座ってないで、行きましょう」
姫本さんは涙を堪えて精一杯の笑顔を見せてくれた。それだけで十分じゃないか、康助?
四月十四日、土曜日。今日は康助の旅立ちの日。
俺はベッドから起きて顔を洗った。最悪の寝起きだ。鏡に映る俺の眼は光を失い、自分の眼かと疑ってしまうほど真っ赤に腫れ上がっている。
洗濯機を回してこれまた寂しい朝食を取って黒衣装に身を包んだ。昨日書いた手紙にはまだ封をしていない。朝日に照らされた康助と俺のツーショットは満面の笑みで映っているけれど、今日だけはその笑みもなぜか虚しいだけだった。
外に出ると空は満天の青空。この青空がいつにも況して眩しい物だったのは気のせいだろうか。風もなく本当に綺麗な朝だった。長袖では少し暑い。今日は学校を休む予定だ。あらかじめ置いておいたゴミ袋を持ち玄関から出た。今日は生ごみの日だった。俺はゆっくりと門を閉め歩きはじめた。
こうしていると一週間前の入学式を思い出す。あの日も晴天だった。新しい出発の日、それは今日も同じことだ。
いつものゴミ収集場にゴミをおいて俺はある場所に向かおうとしていた。
「どこ行くの?」
影からフレイの声がする。いつも通りの明るい口調だったがどことなく空元気な印象を受けた。
「……母さんのとこ」
「御母様のところ……ってまさかご主人様」
慌てて影から出てくる上下寝間着姿のフレイ。
「自殺とかじゃねーよ」
「そう、よね……私も考え過ぎだわ」
小さな欠伸をついてフレイは影に戻った。
「母さんが埋まっている所だ」
俺自身、最後にお参りに行ったのがいつか憶えていない。父さんに母の死を伝えられてから暫くして一回、確認のために一人で行ったのは微かに憶えている。もしかしたらそれ以来かもしれない。
俺はずっと母の死を独りで背負いこみ罪の自覚を持って生きてきた。それが正しい生き方だと思っていたしそれに何の迷いもなかった。でもそれは真実から目を背けていた事の裏返しに過ぎなかった。俺は可哀想な自分をずっと慰めてその罪の償いこそが俺の生きる事だと思い込んでいた。自分の事しか頭に無かった。
罪とか格好つけながら結局はそんな事している自分を美しいと勘違いしていたんだ。本当の俺の罪はそんな軽い物ではない。
母の墓は隣町の郊外にある。これはこの町こそが父と母が出会った思い出の場所だから……と言うのは建前で父が俺に母の死を悟られない様にこんな場所に墓を作ったのだ。
隣町はここ以上の片田舎で田んぼしかない。電車はローカルが一時間に二本通るか通らないかくらいの交通の便。まだ道路もそんなに整備されていない程田舎だ。それでも隣町なので俺は一回家に帰ってから自転車で向かう事にした。
この自転車、この歳にもなってマウンテンバイクだが、本格的な外国製の高級品だ。うん十万は下らないらしい。この自転車は父さんが赴任先から入学祝だと送ってきた物だが、正直嬉しくなかった。なぜかこの高級車が余所余所しく感じられて今回乗るのが実は初めて。いい加減父が通勤に使っていたママチャリも駄目になってきていたし、丁度いい。
俺は乗りなれないサドルに身体を乗せ、ペダルを漕いだ。外国製とあってとにかく乗りずらい。この自転車、見た目だけだな。思い切って家のガレージを出て墓に向かった。
頬を切る風は何となく温かい。こんな姿でマウンテンバイクを乗るのはちょっと抵抗があったが、この町も隣町でもきっとすれ違う人は両手でも数えられるほどしかいないだろう。颯爽と国道を登って行った。この新しく出来た国道は隣町と繋がっていて結構便利だ。砂利道やら田んぼの中を新品の自転車で突っ切っていくのはさすがに嫌だ。今日も相変わらず車道には車は一切走っていなかった。
「結構遠いの、墓地?」
「んまぁ、チャリで二十分ってとこかな」
「そ。じゃあ久しぶりに私も走ろうかな!」
するとフレイはゆっくりと影から出てきた。走っているため影がどんどん形を変えていくからかやけに出ずらそうだった。
「……止まるか?」
「お願いします、ご主人様」
俺はその場で止まってマウンテンバイクから一回降りた。乗りなれないから股がずれて痛い。
「んーしょっと……。オーケー、じゃ行こうか」
フレイは影から出てきて背中から身の二倍にはなる翼を出した。右翼は真っ赤に染まっていて、左翼は心の闇の様に真っ黒なのだ。フレイの唯一と言っても良いほど人間ではない所。人間には与えられなかった、空を自由に飛ぶ力。
「どうしたの? 早く行かないとお葬式、間に合わなくなっちゃうよ?」
バサッと大きな風を起こして空に舞い上がるフレイ。青空の一つとなったフレイはどことなく神々しくて、美しかった。それは天使なのか、悪魔なのか。
俺はサドルを少し調節してまた漕ぎ始めた。少し運転に慣れてきた。フレイはその隣を並走するように飛んでいる。他人が見たらどう思うのだろうか、人間か、死神か、まぁ他人には見えないからこそできる事だけど。
「ねぇ、ご主人様」
「なんだ? まだ着かないぞ」
「そうじゃなくて……」
フレイは影が出来ないのでどこに居るか音で判断するしかない。どうやら俺の真上で飛んでいるようだ。
「イカロスの翼って、知っている?」
次の瞬間にはフレイは俺の隣で飛んでいた。
「ああ、歌もあるしな……知ってるよ。?で固めた翼で天まで昇ろうとしたイカロスが神の怒りに触れて、地に落とされるって奴だろ?」
「うん……有名な神話だよね。なんで死神なのに神様の話してんだって話だよ」
そういうとフレイは寂しそうに笑った。
「本当は太陽の熱かなんかで?が溶けちゃっているんだから神の力かなんて分からないよね」
「んまぁ、そういう見解もあるだろうが、あれは神話だし神が関係してなきゃ意味ないでしょ」
もう少しで隣の町だ。
「そうなんだけど、私が言いたいのはそんな所じゃなくて翼の話よ」
「翼?」
「うん。鳥についているあの翼ね。今、私の背中に生えている翼みたいな物、実は翼なんかじゃないの」
「翼じゃないって……じゃ、なんだよそのバサバサしている奴は」
「自由の塊……結局は虚像だわ」
自傷する様に鼻で笑うフレイ。
「どういう意味だ?」
「私の話……聞いてくれる?」




