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死は経路を変える

死者が人の死を防ぐ、官僚組織型の現代ファンタジーです。

第一話 死は経路を変える


 水城遼は、死を一度避ければ業務は終わると思っていた。


 地上十二メートル。


 組立て途中の足場が、夏の風を受けてかすかに軋んでいる。


 宮本修平は作業床の上に立ち、手袋を着けたまま額の汗を拭った。


 四十三歳。建設作業員。既婚。子供一人。


 死亡予定時刻まで、残り百八十二秒。


 宮本は、自分が間もなく死ぬことを知らない。


 彼の右足から二歩先。


 斜めに取り付けられた筋かいが、風に揺れるたび、小さな金属音を立てていた。


 端部の固定用ピンが、最後まで挿入されていない。


 見た目だけなら、正しく取り付けられているように見える。


 間もなく宮本は、その筋かいへ手を掛ける。


 体重が加わる。


 筋かいの端部が外れる。


 宮本は体勢を崩し、手すりを越える。


 墜落制止用器具のフックは掛けてある。


 しかし、その取付先となっている部材も仮止めのままだった。


 落下の衝撃で部材が外れ、宮本は約十二メートル下の地面へ激突する。


 十四時十八分三十二秒。


 全身打撲により死亡。


 それが、死命介入指示書に記された最初の経路だった。


「あと百四十秒」


 久世千景が告げた。


 黒い長髪を後ろで束ね、灰色の事務服を着ている。


 工事現場には似つかわしくない姿だったが、生きた人間には彼女の姿も声も認識できない。


 その隣で、水城は周囲を見回した。


 資材、工具、結束線。


 飲みかけのペットボトル。


 ほこりをかぶった安全掲示板。


 宮本へ声を掛けることはできない。


 身体をつかんで止めることもできない。


 できるのは、現世の物へ干渉し、人間の行動を変えることだけだった。


 水城にも、現世へ触れるための力が与えられている。


 ただし、これが初めての現場業務だった。


 力はあっても、使い方が分からない。


「あと百二十秒」


 宮本が筋かいへ手を伸ばす。


 水城は、作業床の端に置かれたラチェットレンチを見つけた。


「あれを落とします」


「下を確認して」


 水城は足場の下をのぞき込んだ。


 直下に人はいない。


 少し離れた位置に、地上作業員が一人いる。


 落下した工具に気づけば、足場上の作業を止めるはずだ。


 水城はラチェットレンチへ手を伸ばした。


 指先が触れた瞬間、薄い膜に押し返されるような抵抗を感じた。


 水の中へ腕を差し入れたような感覚。


 押せば、向こう側からも押し返される。


「水城、急いで」


「分かっています」


 指先へ意識を集中させる。


 抵抗の向こうへ力を通す。


 ラチェットレンチが、わずかに動いた。


 冷たい金属の感触が掌へ伝わる。


 死者になってからも、触れた物の感覚は残っていた。


 水城は工具をつかみ、持ち上げた。


 生きていた頃なら、片手で容易に扱えたはずだ。


 だが今は、ひどく重い。


 腕だけでなく、身体全体へ無駄な力が入っていた。


「力みすぎ」


 久世が言った。


「持ち上げようとしないで。現世側へ手を通すの」


「言われても、よく分かりません」


「訓練でやったでしょう」


「訓練と現場では違います」


 宮本の指先が、筋かいへ近づく。


 水城はラチェットレンチを作業床の外へ押し出した。


 工具が落下する。


 鋼製の工具がコンクリートへ衝突し、甲高い音を響かせた。


「誰だ、工具を落としたのは!」


 下にいた作業員が怒鳴った。


「上のやつ、全員手を止めろ! 下に人がいたらどうするんだ!」


 宮本の動きが止まった。


 筋かいへ伸ばしていた手を引き、声のした方を見下ろす。


「宮本、お前の工具じゃないのか!」


「違います。俺のは腰にあります」


「だったら周りを確認しろ! 何が落ちたか分からんだろ!」


 宮本は筋かいから一歩離れ、自分の工具と周囲を確認し始めた。


 職長が足場上の作業員へ声を掛ける。


「いったん全員、手を止めろ。落下物を確認する。勝手に動くなよ」


 作業が中断された。


 宮本は、筋かいに手を掛けなかった。


 死亡予定時刻。


 十四時十八分三十二秒。


 宮本は作業床の上に立っていた。


 生きている。


 水城は大きく息を吐いた。


 呼吸など必要ないはずなのに、身体は生前の動きを忘れていなかった。


「助かった」


「まだよ」


 久世の声に、喜びはなかった。


 彼女が持つ書類の表面で、文字がゆっくりと滲んだ。


 人類機構。


 人命保全局。


 死命介入指示書。


 紙面に記された死亡事由が崩れ、粒子のように消えていく。


 代わりに、新しい文言が浮かび上がった。


対象者 宮本修平


第一死命経路 切断


死命確定状態 継続


代替経路 形成中


「経路は切れたんですよね」


「ええ」


「それなら、どうして死亡予定が消えないんです」


「事故を防ぐことと、人を救うことは同じじゃない」


 久世は指示書から目を離さなかった。


「死命が解除されていない。別の経路ができる」


「運命が、別の殺し方を考えるんですか」


「運命に意思はない」


 指示書に新しい文字が現れた。


「死亡という結果が残っているから、そこへ向かう因果が組み直される。それだけよ」


死亡予定時刻 十四時三十一分九秒


死亡予定事由 搬入車両との衝突


 職長の指示で、作業員たちは地上へ下ろされた。


 現場監督が宮本へ声を掛ける。


「上は確認が終わるまで触るな。宮本、お前は資材置場を手伝ってくれ」


 宮本は資材置場へ向かって歩き始めた。


 狭い構内道路では、一台のトラックが後退している。


 誘導員は搬入伝票に目を落とし、後退警報音も鳴っていなかった。


 宮本は資材の陰。


 運転手の死角にいる。


「あと十二分」


 宮本の胸ポケットで携帯電話が振動した。


 画面には「美咲」と表示されている。


 宮本は電話を取らず、歩き続けた。


「家族でしょうか」


「知る必要はない」


「助ける人のことですよ」


「感情移入しすぎないこと」


 久世は宮本ではなく、現場全体を見ていた。


「事情を知れば、指示書が出ていない人間まで助けたくなる」


「助けてはいけないんですか」


「すべての人間を、死から救うことはできない」


 久世は淡々と言った。


「すべての死に指示書が出るわけでもない。指示書にない死まで、私には扱えない」


 宮本がトラックの進路へ出ようとしている。


 水城は構内道路の脇に立て掛けられた仮設柵へ駆け寄った。


「あれを倒します」


「足元を押して」


 水城は柵の脚へ手を当てた。


 抵抗の向こうへ力を通す。


 仮設柵が傾き、道路上へ倒れ込んだ。


 勢いのついた柵が路面を滑り、トラックの進路を塞ぐ。


 運転手がブレーキを踏んだ。


 荷台が大きく揺れる。


 誘導員が振り返り、車両後方へ出ようとする宮本を見つけた。


「止まれ!」


 宮本も足を止める。


 トラックの後端との距離は、二メートルもなかった。


 現場監督が駆け寄り、運転手と誘導員を怒鳴りつける。


 後退警報装置の故障が判明し、トラックの移動は中止された。


 久世の指示書が書き換わる。


第二死命経路 切断


死命確定状態 継続


代替経路 形成中


「また……」


 水城は肩で息をしながら、宮本を見た。


 当の本人は、監督から注意を受け、何度も頭を下げている。


 自分が二度死にかけたとは思っていない。


 少し離れた工具箱の脇には、回収されたラチェットレンチが置かれていた。


 職長はそれを一瞥し、苛立たしそうにヘルメットの縁を持ち上げた。


「工具が落ちたと思ったら、今度は車にひかれかける。今日は一体どうなってるんだ」


 返事をする者はいなかった。


 現場には、朝にはなかった緊張が漂っていた。


 電動工具の音は再び鳴り始めている。


 別のトラックのエンジン音も聞こえる。


 作業員たちは、それぞれの持ち場へ戻ろうとしていた。


 ただ、動きは少しだけ慎重になっている。


 工具を腰袋へ戻す手が遅くなる。


 車両の後ろを通る前に、立ち止まって振り返る。


 足場上から地上を見下ろす者もいた。


 誰もが異常を感じていた。


 それでも、異常の全体像を見ている者はいない。


 足場の作業者は、作業をいつ再開できるかを気にしている。


 運転手は、搬入の遅れを気にしている。


 誘導員は、次に注意されないよう車両の位置を確認している。


 宮本も、自分の作業へ戻ろうとしていた。


 工具の落下と、トラックとの接触寸前。


 その二つが、自分へ向けられた一つの流れだとは、誰も考えない。


 職長だけが、もう一度現場を見回した。


「嫌な感じがするな……」


 その声は、機械の音に紛れた。


「二つ切っても解除されない」


 水城は、持ち場へ散っていく作業員たちを見た。


「これだけ続いているのに、作業を続けるんですね」


「彼らには、別々の出来事にしか見えていない」


 久世は指示書の裏面を開いた。


「自分の仕事と、自分の見える範囲で判断しているだけよ」


 白紙だった部分に、細い赤線が現れ始めた。


 中心に宮本の名前。


 そこから二人の作業員、運転手、資材担当者へ線が伸びる。


 さらに構内道路、積載資材、荷締め用のワイヤロープへと分岐していった。


 複数の因果が、一つの場所へ集まっている。


死亡予定時刻 十四時四十二分五十六秒


死亡予定事由 積載資材の倒壊による圧迫


死亡予定者 三名


「三人……」


「宮本を含めて、三人とも死ぬ」


 資材置場の奥に、足場材を積んだトラックが停車していた。


 荷台には支柱や筋かいが複数の束に分けて積まれ、あおりよりも高く積み上げられている。


 積荷全体は、荷締め用のワイヤロープで固定されていた。


 だが、外側へずれた一束だけが、応急的に数本の番線で荷台の内側へ引き留められている。


 現場監督が宮本たちへ声を掛けた。


「宮本、そこの二人と一緒に、奥のトラックの荷を確認してくれ。荷下ろしはまだするなよ」


 三人がトラックへ向かって歩き始めた。


 水城は、指示書に浮かぶ赤い線を目で追った。


 線は荷台の側面へ集まり、一本のワイヤロープへ重なっている。


「久世さん。あのワイヤー……」


 積荷を押さえるワイヤロープの一部が、不自然に細くなっていた。


 表面から、針のような鋼線が何本も飛び出している。


 素線が複数切れていた。


 外側へずれた一束の重量を、傷んだワイヤロープと応急的に巻かれた番線が、辛うじて支えている。


「これ、まずいですよ」


 風が吹く。


 束ねられた足場材が擦れ、金属音を立てた。


 ワイヤロープから、細い素線が一本弾ける。


「このまま三人が横へ入れば、積荷が倒れる」


 三人がトラックへ到達するまで、二分もない。


「止めます」


「どうやって」


 水城は周囲を見回した。


 工具を落としても、積荷へ視線が向くとは限らない。


 何かで三人の足を止めても、傷んだ積荷は残る。


 水城は再びトラックを見た。


 積荷は、すでに倒れようとしている。


 今は、その範囲に誰もいない。


 数分後には、三人が立つ。


「先に倒します」


 久世が水城を見た。


「何ですって」


「人が来る前に、ここで荷崩れを起こします」


「ずいぶん簡単に言うのね」


「起きる事故なら、人がいないうちに起こすべきです」


 水城は迷わず答えた。


 久世が、初めて水城の顔を確かめるように見る。


 事故を防ぐのではない。


 事故の時刻を変える。


 新人が即座に選ぶ方法としては、思い切りがよすぎた。


「積荷を直接動かすつもり?」


「それは無理です」


 トラックの後輪付近に、長い柄の番線カッターが置かれていた。


 水城は、外側の束を支える番線のうち、最も強く張っている一本を見た。


「あの番線を切ります」


「切れば、外側の束が落ちる」


「そのために切るんです」


「失敗すれば、別の人間を巻き込む」


「だから確認します」


 水城はトラックの両側と、積荷が倒れる範囲を見渡した。


 人はいない。


 別の車両も近づいていない。


「誰もいません」


 久世は宮本たちとの距離を確認した。


「やりなさい」


 水城は番線カッターへ駆け寄った。


 柄へ手を掛ける。


 ラチェットレンチよりも重い。


 だが、最初とは違う。


 腕全体を現世へ押し込まず、手と道具の接触点だけを向こう側へ通す。


 番線カッターが持ち上がった。


 重い。


 それでも動かせる。


 水城は道具を引きずるように運び、刃を番線へ挟み込んだ。


 柄を閉じようとする。


 強い抵抗が返ってくる。


「力だけで押さないで。支点を使って」


 水城は片方の柄を地面へ当てた。


 もう一方へ身体を預けるように力を加える。


 刃が番線へ食い込んだ。


 積荷が軋む。


 三人は、まだ三十メートルほど先にいる。


 今しかない。


 水城は力を接触点へ集中させた。


 視界が霞む。


 腕が重くなる。


 それでも、先ほどのように力を散らさない。


 刃が閉じる。


 番線が切れた。


 張り詰めていた鋼線が、激しい音を立てて跳ねる。


 支えを失った外側の束が荷台の端へ滑った。


 積荷全体が外側へ傾き、その荷重が傷んだワイヤロープへ集中する。


 ワイヤロープが鈍い音を立てて破断した。


「離れて」


 久世が水城の肩を引いた。


 次の瞬間、荷台の足場材が一斉に崩れ落ちた。


 支柱と筋かいが地面へ激突する。


 何十本もの鋼材が重なり合い、轟音が資材置場へ響いた。


「危ない!」


 作業員たちが足を止める。


 宮本たち三人も、トラックから離れた位置で立ち尽くしていた。


 積荷が倒れた場所は、三人が数十秒後に立つはずだった場所だった。


 現場監督が走ってくる。


「全員、近づくな! 周りを止めろ!」


 作業員たちがトラックの周囲から離される。


 運転手が青ざめた顔で、破断したワイヤロープを見つめていた。


「積んだときは、こんな状態じゃなかったんです」


「今はこうなってる。ほかの車両も全部点検しろ。今日は荷下ろし中止だ」


 職長が、崩れた足場材と停止したトラックを見比べた。


「朝から何件目だ……」


 誰にも聞こえないほど低い声で呟く。


「本当に、今日はどうなってるんだ」


 今度は、誰も作業へ戻ろうとはしなかった。


 現場全体が、見えない何かを警戒するように静まり返っている。


 何が起きているのかは、誰にも分からない。


 ただ、このまま仕事を続けてはいけないという感覚だけが、ようやく共有されていた。


 構内の車両が停止する。


 資材置場への立入りが禁止される。


 宮本を含む三人は、現場の門付近まで退避させられた。


 水城は番線カッターを手放した。


 道具が地面へ落ちる。


 脚に力が入らず、その場へ座り込んだ。


 現世が急に遠くなったように感じられた。


 手を伸ばしても、地面の感触がない。


「もう触れません」


 久世が水城の前へしゃがむ。


「これ以上は何もしないで」


「でも、まだ死命が――」


「今は待つ」


 久世は指示書を開いた。


第三死命経路 切断


死命確定状態 再判定中


 十秒が過ぎる。


 二十秒。


 新しい死亡事由は現れない。


 十四時四十分。


 死亡予定時刻まで、二分五十六秒。


 宮本はほかの二人とともに、現場の門の外へ向かっていた。


 胸ポケットの携帯電話が、再び振動する。


 今度は画面を確認し、電話に出た。


「もしもし」


 少し間を置いて、宮本の表情が緩む。


「悪い。さっき出られなかった」


 電話の相手の声は、水城には聞こえない。


「今日は作業中止になった。早く帰れるよ」


 宮本が笑った。


「ああ。覚えてる。帰りに買っていく」


 死亡予定時刻。


 十四時四十二分五十六秒。


 宮本を含む三人は、現場の門の外にいた。


 何も起きない。


 指示書の文字が、ゆっくりと薄れていく。


死命確定状態 解除


本件業務 完了


「解除された」


 水城は呟いた。


「ええ」


「もう死なないんですか」


「人間は、いつか死ぬ」


 久世は指示書を閉じた。


「今回確定していた死から外れただけ。ここから先は、また未確定になる」


 宮本は同僚と並んで歩いていく。


 自分が三度死にかけたことを知らない。


 水城は、その背中を見つめた。


 作業服の裾には汚れが付いている。


 歩き方にも、話し方にも、特別なところはない。


 人類の未来を左右する人物には見えない。


 どこにでもいる作業員だった。


「どうして、あの人だったんでしょう」


「分からない」


「神には、あの人を選んだ理由が分かっているんですよね」


 久世は少し間を置いた。


「どうかしら。私には分からない」


「人類の未来に、どう影響するのかも?」


「知らされていない」


「神が未来を知っているのか、何かを感じ取っているだけなのか」


「それも分からない」


 久世は歩き始めた。


「指示書が出る。私は、それに従って業務を行う。それだけよ」


 水城は死命介入指示書を見た。


 選定事由の欄には、定型文が一行だけ残っている。


人類未来影響対象者


「理由を知らない人を、ここまでして助けるんですか」


「そうよ」


「納得できなくても」


「納得は、採用条件に含まれていない」


 工事現場の外から、宮本の声が聞こえた。


「ケーキでいいんだろ。分かってるって」


 やがて声も聞こえなくなる。


 十四時十八分に終わるはずだった人生は、再び誰にも読めない未来へ戻っていた。


 水城は、自分の指先を握った。


「最初のラチェットレンチ、持ち上げる必要はなかったんですよね」


「少し押せば落ちたでしょう」


「先に言ってください」


「それでは覚えないでしょう」


 水城は返す言葉を失った。


 久世が、わずかに口元を緩める。


 そのとき、彼女の上着から短い呼出音が鳴った。


 久世は端末を取り出し、耳へ当てる。


「はい、久世です」


『榊原だ。新しい指示書が回ってきた。戻り次第、受領してくれ』


「承知しました」


 久世は通話を切り、端末を上着へ戻した。


 水城は思わず彼女を見た。


「もう次が来たんですか?」


 久世は立ち上がった。


「私は、与えられた業務をこなすだけよ」


 停止した工事現場を背に、久世は歩き始めた。



お読みいただきありがとうございました。

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