夏未の生活
この作品は『知らない方がいいこと』の裏側を描いた作品です。
本編のネタバレを多く含みますので、先に本編を読むことをおすすめします。
胸糞、監禁、暴力的な表現があります。
主人公:[ 夏未 ]
【夏未の心境編】は、本編第1話 "湖の工房"と同じ時間軸から始まります。
「あーーーーーん」
夏未はスプーンを陽介の口元へ運んだ。
しかし、一歳の陽介は、かたくなに口を閉じている。
「ほら、あと一口だけ」
右へ動かすと、陽介は左を向いた。
そんな攻防が、もう五分も続いていた。
「今日も無理か……誰に似たのかしら」
石和夏未、二十八歳。
首都圏から少し離れた避暑地で、夫と息子の三人で暮らしている。
夫は有名な家具デザイナーで、近くに自分の工房を持っていた。
広い家で、生活にも不自由はない。
夏未も家事と育児の合間に、編集の仕事を続けていた。
昼過ぎ。
陽介を寝かしつけた夏未は、ソファに座った。
スマホのスケジュールアプリを開く。
明日は他社との打ち合わせがあり、昼から東京へ出る予定だった。
夏未はカレンダーを眺めながら、ふと思った。
最近、カズさんに会ってないな。
息子の受験や、思春期に入った娘のことで忙しいとは聞いていた。
最後に会ったのは、いつだっただろう。
「ちょっと、試しに送ってみようかな」
夏未はLINEを開き、和宏へメッセージを送った。
『明日、東京に行きます』
それだけだった。
会いたいとも、時間があるとも書かない。
なんて返してくるだろう。
夏未はスマホを伏せ、小さく笑った。
◇
夜。
夏未は夕食の準備を終えると、工房にいる明人へメッセージを送った。
十分ほどして、明人が家に戻ってくる。
食卓で交わされる会話は、いつも陽介のことが中心だ。
夫婦仲が悪いわけではない。
夏未は、若くして才能を開花させた家具デザイナーの明人を尊敬している。
明人もまた、寡黙な自分とは違い、人付き合いの上手な夏未を頼りにしていた。
食事の途中、夏未は明日の予定を伝えた。
「明日、仕事で東京に行ってくるね」
「そうなんだ」
明人は少し考えてから言った。
「時間があったら、父さんの様子も見てきてもらえる?」
「うん。分かった」
夏未は笑顔で答えた。
けれど、気は進まない。
義父の話は、いつも同じだ。
近所のこと。
昔の仕事のこと。
最近、腰が痛むこと。
どれも夏未の心を少しも動かさない。
ただ座り、退屈な話に相槌を打つだけ。
時間がなければ、いつものように寄らずに帰ろう。
「ごめんね。いつもありがとう」
明人が申し訳なさそうに言った。
夏未は笑って首を振る。
「いいよ、それくらい」
こちらこそ、ごめんね。
夏未は、心の中で軽く謝っておいた。
◇
翌日。
夏未は明人に駅まで送ってもらい、新幹線で東京へ向かった。
取引先との打ち合わせを終えた頃には、午後五時を回っていた。
このあと、どうしよう。
スマホを確認すると、和宏から少し前に届いたメッセージが届いている。
『今日、これから会える?』
夏未は画面を見て、小さく笑う。
「もう、カズさんったら仕方ないな♪」
誰に聞かせるでもなく、わざと困ったように呟いた。
かわいらしい「OK」のスタンプを返す。
和宏は、以前勤めていた出版社の先輩であり、五年前から関係を続けている不倫相手。
その頃から、すでに和宏には妻と子どもがいた。
その後、夏未も明人と結婚したが、二人は別れたり戻ったりを繰り返しながら、今も関係を続けている。
待ち合わせまで、まだ時間がある。
夏未は近くの喫茶店へ入り、窓際の席に座った。
明人に、遅くなると連絡しなければならない。
スマホを手に取った夏未は、ふと思う。
男の人と二人で会うと言ったら、明人はどんな反応をするだろう。
スマホに保存された明人の写真を開く。
夏未が一番好きな写真。
タキシード姿でトロフィーを持つ、授賞式の写真だ。
少しくらい、やきもちを焼くかな。
でも、結局は私のことを許してしまうんだろうな。
そう考えると、胸の奥がかすかに弾んだ。
夏未は、明人に電話をかけた。
呼び出し音を聞きながら、その反応を想像する。
やがて明人が電話に出た明人に、昔の会社の男性と二人で食事をして帰ると伝えた。
電話を切ったあと、夏未はしばらく画面を見つめている。
明人は最初こそ困惑していたが、最後には行ってもいいと言ってくれた。
思った通りだ。
夏未は口元を緩めた。
明人の承諾を得る前から、和宏に会う約束はしてしまっている。
それでも、話したことで少しだけ罪悪感が薄れたような気がした。
「ごめんね、明人」
夏未は、誰にも聞こえない声で呟く。
そして、和宏との待ち合わせ場所へ向かった。




