暴走と代価
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酒場の窓越しに聞いた言葉が、頭から離れなかった。
「母さん、ヘスペリアってどういうところ?」
夕食の席で尋ねると、シルヴィアの手が一瞬止まった。匙が汁物の中で揺れる。
「……とても自由な街よ」
それだけだった。母は匙を口に運び、話題を変えた。ルーナの今日あった出来事——花畑で蛇を見つけたこと——を嬉しそうに聞き、カエルの質問は霧の中に溶けた。
けれど母の目が、一瞬だけ遠くを見ていたことに、カエルは気づいていた。
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村の酒場は、辺境にいながら世界の噂が集まる数少ない場所だった。
山脈沿いの細い外縁路と、海側へ下る間道が交わるだけの辺鄙な村だが、主要な街道の関所を避ける小規模な隊商や、訳ありの旅人が時折足を休めていく。カエルは酒場の外壁に背を預け、開いた窓から漏れる会話に耳を傾ける日課を始めていた。
西方ルクスが異端審問を強化している、と旅人が言った。教会魔法の正統を守るため、精霊魔法の研究者が検挙されているらしい。カイロスの五国間の国境紛争が激化し、辺境の治安が悪化している。精霊嵐の発生頻度が例年の二倍に達している——原因は不明。
そして繰り返し聞こえてくる名前——ヘスペリア。
「ヘスペリアの大学に変わった教授がいてな、教会魔法の枠に収まらない理論を提唱しているらしい」
「教会魔法と精霊魔法の関係を探っているとか。東方教会が庇護しているから、ルクスも手を出せないんだと」
カエルはその話を記憶の隅に留めた。ヘスペリアの大学。教会魔法と精霊魔法の関係を探る研究者。
——母さんは何か知っているのだろうか。
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それから、二年の月日が流れた。
遺跡での訓練は、日を重ねるごとにカエルの成長を加速させていた。
古代語のフレーズによる力の調和。精霊魔法の風操作と土操作。教会魔法の結界生成と微念投射。幾度か盗賊の撃退を手伝ったことで自信がつき、今では精霊嵐の鎮圧への待機要請が自警団から来るほどになっていた。
八歳になったカエルの身体には、並外れた力が溢れ始めていた。
その日の訓練で、カエルは踏み越えてはいけない線を踏んだ。
「もっと強く流してみる」
両手の間に古代語の溝を通し、微念と微精霊を同時に流す。いつもの練習。ただし——量を増やした。いつもの三倍。いや、五倍か。身体の中を流れる力の太さが、細い糸から綱へと変わる。
気持ちよかった。
力が身体を駆け巡る感覚は、走り終わった後の高揚に似ている。もっと流せる。もっと速く、もっと強く——
閾値を超えた瞬間、世界が歪んだ。
微精霊が爆発的に活性化した。石室の壁を覆う苔が膨張し、蔦が目に見える速度で伸び始めた。天井の隙間から根が侵入し、石組みに亀裂が走る。遺跡が——生きた植物に飲み込まれていく。
同時に、微念が逆流した。
身体の中を流れていた白い光が、突然行き場を失って頭部に殺到する。こめかみが裂けるような激痛。視界が白く飛ぶ。耳鳴り。吐き気。身体が自分のものでなくなったように、感覚が遠ざかる。
カエルは床に倒れた。
石畳が冷たい。額に汗が噴き出し、手足が痙攣する。天井を見上げようとするが、目が焦点を結ばない。蔦が石室を侵食する音——岩の軋みと植物の生長音——が遠くに聞こえる。
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意識が戻ったとき、母の顔が真上にあった。
シルヴィアの目が赤かった。泣いた跡がある。
「カエル。聞こえる?」
「……母さん」
声が掠れている。身体がだるい。重い。しかし痛みは引いていた。
石室を見回す。蔦は止まっていた。暴走した微精霊は鎮められ、石室の壁に絡みついた蔦だけが、先ほど何が起きたかの証拠として残っている。
母が何をしたのか、カエルにはわかった。精霊魔法で微精霊を鎮め、カエルの体内の微念の逆流を手技で処理した。森人族の伝統的な治癒法——掌を患部に当て、身体の中を流れる力の道筋を整え直す技術。母がカエルの額と胸に手を当てて、微念の渦を散らしたのだ。
「あなたの力は強すぎる」
シルヴィアの声が震えていた。怒りではない。恐怖だ。
「制御を学ばなければ、力があなた自身を壊すわ」
「ごめん」
「謝らないで。——怖かったのよ」
母が額に口づけた。唇が冷たかった。泣いた後の冷たさ。
カエルは天井を見つめた。蔦が巻きついた石組みの隙間から、外の光が漏れている。
力は万能ではないのだ。
無双の爽快感に酔っていた。盗賊を追い払い、瘴気を鎮め、守護精霊を制した。自分には特別な力がある。その自信が、足元を掬った。
——力が、俺を壊す。
その認識が、拳ほどの重さで胸に落ちた。
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翌日から、シルヴィアの訓練方針が変わった。
力を強くするのではなく、制御を精密にする方向へ。微念と微精霊の流量を細かく調整し、閾値に近づかないための身体感覚を叩き込む。手の甲に浮かぶ微念の光の濃さで、今どれだけの力を使っているかを測る方法。微精霊の活性度を肌の温度で感じ取る技術。
暴走の翌日、母は「もう無茶はさせない」と言った。
しかし——なぜか、その翌日にはさらに高度な制御法を教え始めた。
時間がない。
母の行動から、その焦りが滲んでいた。遺跡に通う頻度が増えた。夜中に起きて外出することがある。朝帰ってきた母の目の下に隈が刻まれていて、カエルが聞いても「大丈夫」としか答えない。
何かが近づいている。
カエルにはそれが何かわからなかった。ただ、母の背中が日に日に薄くなっていくように見えた。
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ある朝、目を覚ますと空が暗かった。
雲ではない。空気そのものが重い。窓を開けると、風が軋んでいた。微精霊たちが騒いでいる。肌の表面をざわざわと何かが這うような感覚。
精霊嵐の気配だった。
シルヴィアが居間で空を見上げていた。眉間に深い皺を刻んで。
「……季節外れね」
その呟きに含まれた不安の色を、カエルは見逃さなかった。




