交易路の狼煙
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交易路で狼煙が上がった。
正確には狼煙ではなく、旅商人の荷馬車に積まれていた油布が燃えた煙だった。盗賊に襲われた商人が、辺境村に助けを求めて火をつけたのだ。遺跡からの帰り道でその煙を見たシルヴィアとカエルは、急ぎ村へと戻った。
村の広場では、すでに自警団が集合していた。煙が上がって半刻後のことだった。
自警団長は五十がらみの元農夫で、腰に古い剣を提げているが実戦経験はない。団員は若い農夫が四人。武器は鉈と斧と鋤の柄。鎧はない。
村が騒然とする中、カエルは——誰よりも冷静に状況を観察していた。彼は六歳になっていた。
カエルは自ら後方支援として同行することを申し出た。農夫たちだけでは全滅するかもしれないという直感があった。シルヴィアは最初、強く反対した。しかし「私が行かなければ被害が広がる」という息子の切実な目を見て折れた。『前に出ない』『人を傷つけない』という二つを条件に、しぶしぶ頷いたのだ。こうしてカエルは、村長と自警団長に「気休めの魔法盾くらいなら張れる」という名目で同行を許可された。村人たちも、少しでも戦力が欲しかった。
交易路は村から東へ半里。森の切れ目に沿って走る一本道で、草が踏み固められただけの質素な道。その道の脇に、転覆した荷馬車が見えた。
荷馬車の周囲に人影が五つ、六つ。頭巾を被り、腰に短剣を帯びた男たち。盗賊だった。荷馬車の脇に旅商人の一行が座らされている——人間族の商人が二人、そして肌の色が青みがかった長身の男が一人。海人族の交易人。
自警団長が木の陰から声を張った。
「そこの者! 荷を返して立ち去れ! 村の自警団だ!」
盗賊のリーダーらしい男が振り返った。鉈と斧を手にした農夫たちを一瞥し——笑った。
「自警団? 農夫じゃねえか。帰れ帰れ。死にたくなけりゃな」
交渉は一瞬で決裂した。
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カエルは木の上にいた。
太い楢の幹に背を預け、枝の隙間から戦場を見下ろしている。自警団は物陰に散開したが、農夫の動きは鈍い。盗賊は慣れている。このまま正面からぶつかれば、自警団に犠牲が出る。
考えろ。
カエルは目を閉じた。精霊魔法で風の微精霊に呼びかける。周囲の風の流れを読む——交易路は風の通り道になっている。南から北へ、安定した風。
次に、教会魔法。微念を薄く練る。結界の基礎。身を守る膜。自警団員に、それを——かけられるか?
やってみるしかなかった。
カエルは右手を開いた。精霊魔法——風を操る。交易路の地面は砂混じりの土。風を足元の高さで加速させ、盗賊の立つ地点に向けて吹きつける。
突風が砂を巻き上げた。
盗賊たちが目を押さえる。「なんだ、急に——」。視界を奪われた隙に、カエルは左手から微念を放った。薄い防御の膜——自警団員の五人に、それぞれ一枚ずつ。結界というほど頑強なものではない。しかし刃の一撃を一度だけ弾く程度の厚みはある。
自警団長が驚いた顔で自分の手を見た。淡い白光が身体を覆っている。
「……聖なる加護が降りた! 今だ、押せ!」
士気が跳ね上がった。農夫たちが雄叫びを上げて突進する。砂煙の中で盗賊たちが狼狽し、短剣を振るうが、微念の膜が初撃を弾く。盗賊のリーダーが舌打ちした。
「面倒だ——引け!」
五人の盗賊が交易路を駆け抜け、森の中に消えた。
旅商人たちが解放される。人間族の商人が何度も頭を下げ、自警団長は胸を張った。カエルは木から降りて、自警団の後列に戻った。
海人族の交易人が——カエルの方を見ていた。
青みがかった肌に琥珀色の目。口元に薄い笑みを浮かべ、去り際にカエルの横を通り抜けながら、低い声で言った。
「坊主、いい風を吹かせるな。俺は覚えとくぜ」
カエルはしらばっくれた。
「たまたま風が吹いただけです」
海人族の男は笑った。信じてはいない目だった。
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数週間後、新たな盗賊団が現れた。
今度は規模が違った。十人。武装も本格的で、革鎧に短弓を装備した者もいる。交易路を封鎖し、通行税を要求するようになった。辺境村の物資輸送が止まりかけている。
村長がシルヴィアを訪ねてきた。
「薬草師殿。あの子——カエルがいれば、犠牲を減らせる。前回の『聖なる加護』とやらのおかげで、農夫たちも戦えると息巻いておるのだ」
隠していたわけではなかったが、カエルの力が村の中でいつの間にか「奇跡の加護」として広まっていた。シルヴィアの表情が固くなった。カエルは部屋の隅で聞いていた。
母が村長に向き直る。
「……条件があります」
村長が頷くのを確認すると、シルヴィアは振り返り、部屋の隅にいるカエルへ静かに、しかし毅然と告げた。
「殺すな。深手を負わせるな。退かせるだけにしなさい」
その言葉は、村長への参戦の条件提示であると同時に、強すぎる力を持つ息子への厳しい戒めだった。
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翌日の巡回。
自警団に混じって交易路を歩くカエルの姿は、誰が見ても場違いだった。六歳の子供が、農夫たちの間に立っている。しかし自警団員たちは前回の「聖なる加護」を覚えていた。カエルがいるだけで足取りが軽い。
森の陰から盗賊が現れたのは、交易路の曲がり角だった。
十人。前方五人が短剣を構え、後方五人が短弓に矢をつがえている。
「通行税を払えと言ったろう。払えねえなら——」
カエルが一歩前に出た。
右手を地面に向ける。古代語のフレーズを呟く——精霊魔法。地中の微精霊に働きかけ、交易路の土を隆起させる。盗賊たちの足元が盛り上がり、踝まで土に埋まった。前衛の五人が身動きを封じられる。
「なっ——」
同時に左手を掲げる。教会魔法——微念を凝集させ、光の壁を作り出す。白い輝きが交易路の幅いっぱいに展開し、後衛の弓兵と前衛を分断する。光が眩しい。弓兵たちが目を眩ませ、矢を放つどころではなくなった。
ルクスの聖光を模した威嚇結界。実際の殺傷力はほとんどない。しかし盗賊たちはそんなことを知らない。
「化け物だ!」
悲鳴が上がった。足を抜いた盗賊が転がるように逃げ出し、光の壁に怯えた弓兵たちが弓を投げ捨てる。十人の盗賊が、一分もかからずに四散した。
自警団員がカエルの背中を叩いた。
「大したもんだ、坊主!」
カエルはくすぐったそうに笑った。笑おうとした。
しかし——手が震えていた。
力を人に向けたのは初めてだった。盗賊を殺す気はなかった。母の言いつけ通り、怖がらせるだけ。けれど地面を隆起させた時、一人の盗賊が転び、顔を地面に打ちつけたのが見えた。血が出ていた。
カエルの右手が微かに震えている。力の行使後の疲労と——人に力を向けたことへの、名前のない緊張。
帰り道、自警団員たちが武勇伝を語り合う声が遠くに聞こえた。カエルは一人、列の後ろを歩いていた。
「兄さん!」
村の入り口で、ルーナが待っていた。走ってきて、カエルの足にしがみつく。
「おかえり! 大丈夫だった?」
「ああ。大丈夫だよ」
震えている手を、ルーナの頭の上に置いた。柔らかい髪。温かい頭。これだけで——手の震えが止まった。
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盗賊を追い払った翌日、カエルは村の酒場の前を通りかかった。
開け放たれた窓から、旅人たちの会話が漏れてくる。
「——ヘスペリアの大学で、教会魔法と精霊魔法の関係を探る研究が進んでいるらしいぞ」
「そんな研究は異端だ。ルクスに見つかったら終わりだろう」
「いいや、ヘスペリアは東方教会の管轄だ。ルクスよりずっと自由らしい」
カエルは足を止めた。
——ヘスペリア。
教会魔法と精霊魔法の関係を探る研究。
その言葉が、胸のどこかに引っかかった。




