花冠の王様
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ルーナは四つになった。
朝が来ると、妹は誰よりも早く起き出す。シルヴィアが朝食を用意する台所に駆け込み、母のスカートの裾を引っ張り、椅子に上って窓の外を覗き——兄の姿を探す。
「兄さん、今日はなにするの?」
「遺跡に行く」
「ルーナも行く!」
「まだ早い」
「やだ!」
毎朝の儀式のようなやりとりだった。カエルが遺跡での学習を始めてから、ルーナは一人で留守番をする時間が増えた。母はカエルの訓練を優先し、ルーナは村の子供たちと遊ぶか、家の前の野原で花を摘むか、帰りを待つかの三択を繰り返していた。
ルーナが魔法を使おうとしたのは、ある春の日のことだった。
カエルが遺跡から帰ると、裏庭でルーナが真剣な顔をしていた。両手を前に突き出し、目を閉じ、何かを唱えている。カエルが遺跡で古代語を詠唱する姿を、覗き見て覚えたらしい。
「……りゅうれは、ひかりよ……」
古代語の詠唱を真似ているつもりだろうが、発音は滅茶苦茶だった。けれど——
ルーナの足元で、小さな花が咲いた。
固い蕾が、するりと開く。白い花弁が陽光を受けて透き通る。もう一つ、もう一つ。ルーナの周囲に、点々と花が咲き始めた。微精霊の光が足元を這い、ルーナの手に吸い寄せられるように集まっている。
「ルーナ、すごいな」
カエルが声をかけると、ルーナの集中が解けた。花の展開が止まり、微精霊の光が散る。
「兄さん! 見た? ルーナもできたよ!」
「ああ、見た見た」
精霊魔法だった。それも、詠唱なしで——あるいは滅茶苦茶な詠唱が偶然にも微精霊の感応を引いたのか。いずれにせよ、ルーナの微精霊への親和力は獣じみていた。呼びかけるまでもなく、精霊の方がルーナに寄ってくる。
「兄さんみたいに強くなる!」
ルーナが拳を握って宣言する。泥まみれの手。膝の擦り傷。満面の笑み。
「ああ。いつかな」
カエルはルーナの頭を撫でた。妹の銀がかった髪は、母と同じ色だった。
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夜が来ると、家は静かに回る。
シルヴィアは遺跡に通い詰めるようになっていた。夕方には帰ってくるが、帰宅後も机に向かい、古い文書を読み、何かを書き留めている。カエルが覗くと、母は微笑んで手帳を閉じた。
「お母さんの宿題よ。気にしないで」
ルーナを寝かしつけるのは、カエルの役目になっていた。
小さな寝台にルーナを横たえ、毛布を顎の下まで引き上げる。ルーナは目を開けたまま、天井の染みを見つめている。
「兄さん」
「なんだ」
「お母さん、帰ってくる?」
言葉の端に、かすかな不安が混じっている。母が遺跡で遅くなる日が増えたことを、四歳のルーナは肌で感じ取っていた。
「絶対帰ってくるよ」
カエルはルーナの手を握った。小さな指が、兄の手にしがみつく。
「約束?」
「約束」
ルーナの目が閉じていく。寝息が規則的になるまで、カエルは手を離さなかった。
妹の寝顔を見つめる。穏やかで、無防備で、まるで世界に悪いものなど何もないかのような顔。この顔を守りたい。この子が泣かない世界を、守りたい。
口の中で、母が歌っていた古代語の子守唄を呟く。旋律は覚えている。意味はまだ全部はわからない。けれど声に出すと、部屋の空気が微かに柔らかくなった気がした。微精霊が——あるいは微念が——旋律に応えて揺れている。
——この子を守る。何があっても。
それは誓いというには幼すぎた。けれど胸の底に落ちた言葉は、石のように重かった。
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ルーナの世界は、花の色でできていた。
朝起きると、まず窓の外を見る。今日はどんな花が咲いているか。黄色い花の日は嬉しい。青い花の日は少しさみしい。赤い花の日は——お母さんの唇の色に似ていて、好き。
ルーナはいつも花畑にいた。
村の外れの野原に座り、花を摘む。もう一つ、もう一つ。茎を編んで、輪にして、花冠を作る。兄さんに教わった。兄さんは何でもできる。古い言葉が読めて、風を動かせて、光を手の中に作れる。ルーナもやってみたけど、光はできなかった。手から出てくるのは、いつも風。花を咲かせる風と、蝶を呼ぶ風。
兄さんみたいに白い光を出したかった。あの光はきれいで、温かそうで、特別な感じがしたから。
でも、できない。
何度やっても、光は出てこない。
代わりに花が咲く。代わりに蝶が来る。それはそれで嬉しいけれど——兄さんにできて自分にはできないものがある、という事実は、心のどこかに小さな棘として刺さった。
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兄さんは最近忙しい。
お母さんと二人で出かけることが多い。「遺跡」に行くのだという。ルーナは「遺跡」を知らない。連れていってもらえないから。「まだ早い」とお母さんは言う。「もう少し大きくなったら」と兄さんも言う。
——大きくなったら、ルーナも行ける?
大きくなったら、兄さんみたいに二つの力が使える?
大きくなったら——。
ルーナは花冠を編みながら考える。考えても答えは出ないので、花冠を作る手を速くした。
今日のは黄色い花で作った。大きくて、丸くて、王冠みたいなやつ。世界で一番立派な花冠。
夕方——兄が森から帰ってきた。
ルーナは花冠を両手に掲げて走った。兄さんは疲れた顔をしていた。目の下にうっすら隈ができて、手の甲に土がついている。遺跡で何かを練習してきたのだろう。
「兄さん!」
カエルが振り返る。ルーナの花冠を見て——笑った。疲れが消えるような笑顔で。
「きれいだな、ルーナ」
ルーナはつま先立ちになり、思いきり腕を伸ばして、兄の頭に花冠を乗せた。少し傾いた。兄が屈んでくれたから、なんとか載った。
「兄さんは花の王様!」
カエルが笑う。ルーナも笑う。夕焼けが二人を橙に染めている。
家に帰ると、お母さんがいた。夕食の匂いがする。煮込みと、パンと、少しだけ蜂蜜の匂い。特別な日でもないのに蜂蜜を使ったのは、お母さんの機嫌がいい日のしるし。
「おかえり、二人とも」
「お母さん! 兄さんを花の王様にしたの!」
「あら、似合ってるわ」
シルヴィアがカエルの頭の花冠を直す。三人が食卓を囲む。ルーナは椅子の上で膝立ちになり、パンをちぎっては口に入れ、ちぎっては兄さんに差し出す。カエルは黙って受け取る。お母さんが笑う。
ルーナの世界は、こういうものだった。
兄さんがいて、お母さんがいて、花が咲いて、夕ご飯がおいしくて。
三人が一緒なら、怖いものなんか何もない。
食後、シルヴィアが二人を膝に抱き寄せた。ルーナは母の左腕に収まり、カエルは右側に座る。母の身体はいつも少し冷たくて、でも抱きしめる力は温かかった。
「あなたたちは、お母さんの宝物よ」
ルーナは頷いた。いつも聞く言葉。いつもと同じ声。
世界は優しい場所だった。
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翌朝、母が険しい顔で帰宅した。
いつもより早い。まだ日が昇りきる前。遺跡に何か——忘れ物でも取りに行ったのだろうか。カエルが声をかけると、シルヴィアは一瞬だけ迷うような間を置いて、言った。
「明日から、もっと本格的に教えるわ」
その声に、昨夜の温もりはなかった。
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