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原力の殉教者  作者: とりまな
第1章 森の遺産
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小さな奇跡

―――――――――――


 壁にひびが入った。


 深夜の自室。カエルが掌を合わせた瞬間、白い光と青い光がぶつかり合い——ぱちん、と乾いた音が弾けた。小さな衝撃波が掌から放射状に広がり、壁の漆喰に蜘蛛の巣のような亀裂を走らせた。


 寝台の上の書物が吹き飛び、窓枠が軋む。


 廊下を走る足音。扉が勢いよく開かれ、シルヴィアが飛び込んできた。寝間着のまま、髪を乱して。その目が壁の亀裂を捉え、次にカエルの手元を見る。


「やめなさい!」


 初めて聞く、母の厳しい声だった。


 カエルは動けなかった。両手の痺れがまだ残っている。壁に走った亀裂から漆喰の粉が落ち、月明かりに白く舞っている。


「……ごめん」


「二つの力を同時にぶつけたでしょう」


 シルヴィアが膝をつき、カエルの手を取った。掌が赤く腫れている。力の衝突の余波。母の指がその腫れを確かめるように触れ——表情が怒りから苦さに変わった。


「二つの力は、ただ合わせるだけでは争うの。水と油みたいに」


「でも、遺跡の結晶の中では——」


「あれは千年の時間をかけて、自然に調和した状態。あなたの身体の中で、力は力任せに混ざりたがる。制御しなければ、あなた自身が壊れるわ」


―――――――――――


 翌日の遺跡。


 シルヴィアはカエルの前に精霊学の原典と教会魔法の理論書を並べ、その間に古代語の写本を開いた。


「古代語には、二つの力が争わずに流れる"道"がある」


 頁の一節を指で示す。


「このフレーズを見て。精霊語の語根と典礼語の語根が、一つの文の中に組み込まれている。古代語だけの特徴よ。この言い回しを使うと、微念と微精霊が衝突せずに流れる経路——溝のようなものが、術者の中にできるの」


 カエルはそのフレーズを声に出した。


 舌の上で二つの音が絡み合う。精霊語の柔らかい子音と、典礼語の硬い母音。声が古代語の形を取った瞬間、胸の中で何かが——開いた。水路の栓が抜けたような感覚。微念の白い光と微精霊の青い光が、衝突せずに並んで流れ始める。


「これ……ぶつからない」


「そう。古代語が溝になって、力を導いてくれる。でもね、カエル」


 母が人差し指を立てた。


「溝があっても、流す力が多すぎれば溢れるわ。少しずつ、少しずつよ」


 それから数日間、カエルは遺跡に通い続けた。古代語のフレーズを繰り返し唱え、二つの力を細い糸のように流す練習。手のひらの上で白と青が並走し、争わない——ただし、それだけ。調和はするが、融合には程遠い。母はそれでいいと言った。


「今はこれで十分。まだ五歳なのだから」


―――――――――――


 その数日後のことだった。


 村の外縁で、地面が灰色に変色していた。


 畑の土が乾き、ひび割れ、その隙間から薄い紫色の霧が這い出している。瘴気だった。マナの偏りが地中に澱みを生み、毒性のある微精霊の群体が噴出する現象。辺境では稀に起きるが、この規模は珍しい。


 村人たちが畑の周囲に集まっていた。鍬を持った農夫たちが手をこまねいている。瘴気を吸えば肺が焼け、作物は枯れる。しかしこの辺境には精霊魔法の使い手がいない。教会魔法の心得がある老婆が祈祷を試みたが、微念では微精霊の暴走を制御できなかった。


 シルヴィアは家の中にいた。窓から外を見つめ、唇を噛んでいる。力を使えば——精霊魔法を使えば、鎮められるかもしれない。しかし、それは正体を晒すことになる。


 カエルが先に動いた。


 裏口から飛び出し、畑に走る。母が「カエル!」と叫ぶ声が背中に当たったが、振り返らなかった。


 瘴気の前に立つ。


 紫の霧が足元を這い、肌がちりちりと痛む。微精霊たちが怒っている。不自然なマナの偏りに引き寄せられ、苛立ち、暴走している。


 カエルは古代語のフレーズを口にした。


 まず右手——精霊魔法。微精霊の群体に呼びかける。怒りを宥めるように、流れを読み、寄り添い、散乱した群体の位相を揃える。精霊たちの活性が徐々に収まり、紫の霧が薄くなっていく。


 同時に左手——教会魔法。微念を練り上げ、浄化の結界を畑に張る。白い光の膜が地面を覆い、瘴気の残滓を中和していく。


 二つの力が、古代語の溝に沿って並走する。ぶつからない。衝突しない。右手と左手が別々の仕事をしながら、一つの目的に向かっている。


 村人たちが声を上げた。


「瘴気が……消えていく!」


「あの子、何をしたんだ!?」


 数分後、畑は元の茶色い土に戻っていた。紫の霧は跡形もない。


 ただし——カエルの足元で、周囲の草が枯れていた。力の制御が完全ではなかった。浄化結界の余波が土壌から養分を吸い上げてしまったのだ。半径二歩ほどの円形に、緑が消えている。


 自警団の男がカエルの肩を叩いた。


「大したもんだ、坊主! 助かったぞ!」


 母が駆けつけた。カエルの手を取り、顔を覗き込む。怒っているのか泣いているのか、判然としない表情だった。


「ありがとう、カエル。でも——見せすぎよ」


―――――――――――


 その日の夕方、村長の家に呼ばれた。


 村の長老たちが居間に並んでいる。白髪の村長がシルヴィアに告げた。


「薬草師殿、あの子の力には助けられた。だが……あの子の力は、鉄の教会に知られない方がいい」


 シルヴィアが頷く前に、表の道で馬の蹄の音がした。


 鉄の教会の巡回司祭だった。


 定期巡回——辺境村を回っている地底族の聖職者。背は低いが肩幅が広く、革の外套の下に鍛造道具を覗かせている。その目が鋭かった。


「最近この辺りで——」


 司祭がシルヴィアの前に立ち、腕を組む。


「教会魔法と精霊魔法の同時反応が観測された。この村に心当たりはないかね」


 シルヴィアは一瞬も動じなかった。


「古い遺跡の残滓でしょう。鉄背山脈の麓にはそういった場所がいくつかあります」


「ほう」


 司祭の目が細くなった。信じたのか、疑っているのか。数秒の沈黙の後、司祭は外套を翻した。


「そうか。遺跡の残滓か。……ならば構わん」


 馬蹄の音が遠ざかる。


 シルヴィアが振り返った。その顔から血の気が引いている。


 夜、カエルをベッドに入れながら、母は静かに言った。


「二つの力を使えることは、この世界では異端なの」


「異端?」


「教会魔法と精霊魔法は、別々の体系として発展してきた。両方を使える人間は……存在してはいけないことになっている。少なくとも、西方ルクスという組織はそう定めている」


 カエルは天井を見つめた。


「でも——一緒に使った方が、ずっと強いのに」


「そうね。でも、強いことが正しいとは限らないの」


 母の手がカエルの髪を撫でた。


「今はまだ、この村でお母さんと一緒にいなさい。それだけで十分よ」


 カエルは目を閉じた。母の手が温かい。瘴気を鎮めた右手の痺れがまだ残っていたが、母の指が触れている間は、それも気にならなかった。


 なぜ二つの力を使ってはいけないのか。


 答えは、まだ出ない。


 けれど今はまだ——この温もりの方が、ずっと大きかった。

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