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原力の殉教者  作者: とりまな
第1章 森の遺産
3/4

二つの流れ

遺跡の石室に、二冊の書が開かれていた。


 一冊は薄い青の表紙、もう一冊は白い革装丁に金の箔押しで、どちらも古代語で書かれている。昨日まで読んでいた写本とは紙の匂いが違った——もっと乾いていて、もっと深い。


「今日はこれを読むの」


 シルヴィアは壁に寄りかかり、石室の紋様の光を背にしている。二冊の書をカエルの前に並べただけで、説明はしない。


 カエルは青い表紙のほうを手に取った。ページを開くと古代語の文字が並んでおり、意味が流れ込んでくる——水が窪みに溜まるように自然に。微精霊の性質、属性、自然界との交渉の作法——知らないはずの言葉なのに、骨の奥で響きが繋がって理解になる。


 一節を声に出して読み上げた。


 掌に何かが触れた。


 見えない。けれど確かに、小さな何かがカエルの手のひらの上に降りてきている。肌の上を歩くような、砂粒より軽いものの足跡。指先に微かな青い光の粒が瞬き、手のひらの上で渦を巻いた。昨日遺跡に入ったときに肌の上をざわつかせていた気配と同じものが、今は自分の手の上に集まっている。


 母を見た。シルヴィアは微笑んでいるだけで、何も言わない。カエルは自分で考えた。


 精霊だ、とカエルは思った。この書物には精霊を呼ぶ術が書かれていて、自分が読み上げたから応えてきたのだ。


 白い表紙の書に手を伸ばした。


 別の文字列。同じ古代語だが並び方が違う。青い書が外に向かって開くような言葉の連なりだとすれば、白い書は内に向かって沈んでいく。読んでいると胸の奥で何かが点り、白い光が灯る。内臓の奥から体の表面に向かって押し出されてくる圧力——さっきの精霊たちとは全く別の感覚で、外から来たのではなく自分の中から生まれた力だった。


 カエルは右手と左手を見比べた。


 右手の上に浮かぶ青い粒と、胸の奥で脈打つ白い光。二つは明らかに別のもので、別の場所から来ている。なのに、自分の身体の中では同じ距離にある気がした。


「母さん——この二冊、同じ言葉で書いてあるのに、力が違う」


 シルヴィアが目を見開いた。それから、ゆっくりと頷いた。


「そう。よく気がついたわね」


 シルヴィアが棚から小さな結晶体を取り出した。掌に載るほどの透明な石で、光に翟すと内側に白い光と青い光の二つの色が見える。別々に揺れているが、結晶の中心で互いに触れ合っていた。


「ほら、別々に見えるでしょう?」


「……うん。でも真ん中で——」


「そう。光はつながっているの。忘れないでね」


 カエルは頷いた。その言葉の意味を、まだ本当にはわかっていなかった。けれど結晶の中で二つの光が触れ合う一点が、妙に目に残った。右手の青と、胸の白が、どこかで繋がっている。そう思うと、指先がじんと痺れた。


――――――――――――


 翌日は、森を歩いた。


 シルヴィアが先を歩き、カエルとルーナがついていく。ルーナは三歳の脚で懸命に母の背中を追い、石に躓いては立ち上がり、蝶を見つけては立ち止まった。


「ルーナ、置いていくよ」


「やだ! 待って!」


 ルーナが駆け出した。下り斜面で、小さな脚の歩幅では制動がきかない。速度が上がり、前方に苔むした岩の段差が迫る——


 カエルの右手が動いた。考えるより先に。指先から風が吹き、ルーナの身体を下から支えるように包んだ。ルーナはふわりと浮き上がり、段差の手前でゆっくりと地面に降ろされた。


「わぁ!」


 ルーナが目を丸くする。恐怖ではなく純粋な驚きだった。「兄さん、すごい! 風がふわってした!」


「カエル」


 母の声が鋭かった。走ってきたシルヴィアの額に汗が浮いている。段差の下は岩場で、落ちていたら怪我では済まなかった。


「……外では、やらないで」


「ごめん」


 反射的に出た力だった。精霊魔法——風を操る術。昨日の青い書で読んだ知識ではなく、もっと前から手に馴染んでいた感覚で、妹が落ちそうになったとき身体が勝手に動いたのだ。


 シルヴィアの表情が緩んだ。叱ったことを後悔したような、苦い笑みだった。


「……いいわ。でも、約束して」


「うん」


――――――――――――


 森の奥で、三人は精霊の群れに出会った。


 木々の根元に沿って、青白い光の粒が流れている。水脈のように枝分かれし、合流し、渦を巻く。シルヴィアがルーナの手を取り、光の流れの近くにしゃがませた。


 ルーナの手が光に触れた——瞬間、光が弾けた。


 足元の野花が一斉に蕾を開いた。白い花弁が広がり、蝶が寄ってくる。ルーナは声を上げて笑い、両手を広げて蝶を追った。精霊たちがルーナの周囲に渦を巻いている。兄よりも密に、兄よりも近く。


 カエルは呟いた。妹の精霊への親和力は自分より遥かに高い。花が咲き、蝶が集まり、光がまとわりつく。精霊たちがルーナを好んでいるように見えた。自分が古代語で呼びかけてやっと集まるものが、ルーナにはただ触れるだけで応えるのだ。


 試しに胸の奥で微念を生成し、白い光の粒を右手に浮かべてみせた。ルーナはきょとんとした顔で「きれい」とは言ったが、自分で再現しようとはしなかった。できないという以前に、そこに力の経路がないようだった。


「母さん」


「なに?」


「なぜ俺だけ二つの力が使えるの?」


 シルヴィアが立ち上がり、スカートについた腐葉を払いながら遠くを見た。


「あなたはお母さんとお父さんの、両方の力を受け継いだの。それはとても珍しいこと」


「……父さんの?」


 父のことを聞いたのは、これが初めてだった。シルヴィアは何も答えなかった。ただ微笑んで、ルーナを抱き上げた。


「帰りましょう。日が暮れる前に」


 カエルはもう一つ聞きたかった。


「二つの力を同時に使ったら、どうなるの?」


 母の背中が、一瞬だけ止まった。


 そして——振り返らずに歩き出した。


――――――――――――


 夜、ルーナが隣の寝台で寝息を立てている。月明かりが窓から差し込み、部屋を青白く染めていた。


 カエルは天井を見つめていた。母は答えなかった。父のことも、二つの力のことも。聞いてはいけないことが増えていく。母が隠すたびに隠されたものの形がくっきりする。いつか自分で確かめるしかない。


 右手を開いた。掌の上で微念を生成すると、白い光の粒が指先の間に浮かび、脈拍に合わせて明滅する。自分の中から生まれた光だ。


 左手を開く。意識の端で精霊に呼びかけると、青い粒が手のひらの上に舞い降りてきた。冷たい。外の世界からやってきた光で、指先に触れる感触がくすぐったい。


 右手と左手を、ゆっくりと近づけた。


 白い光と青い光が近づくにつれ、指先が痺れ始めた。二つの力が反発するように震え、掌の上で渦を巻く。結晶の中で触れ合っていた二つの色が、今、自分の手の中にある。あれと同じことが、できるはずだ。


 母は答えなかった。だから、自分で確かめる。


 掌を合わせた。

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