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原力の殉教者  作者: とりまな
第1章 森の遺産
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古い言葉

あの日から遡ること、三年。


 鉄背山脈が朝靄のなかに浮かんでいる。万年雪を戴く稜線が橙色に染まり、麓に広がる辺境村の石屋根をなだらかな光が撫でていた。鶏が鳴き、井戸の滑車が軋み、どこかの家からは焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。


 カエルは五歳だった。


 村の中央を貫く石畳の道を、母の手を引いて歩いている。通りすがりの老婆が会釈し、荷車を引く農夫が「今朝も早いね、薬草師さん」と声をかけた。シルヴィアは微笑んで応じたが、農夫の視線がカエルの耳——人間族よりわずかに尖った耳朶——に一瞬だけ留まるのを、カエルは見逃さなかった。


 いつものことだった。視線は石ころと同じで数えてもしかたないが、それでも数えている自分がいて、今日で七回目になっていた。


 辺境村は人間族の集落だった。森人族の血を引く母と、その子供たちは珍しい存在であり、珍しいということは、それだけで小さな壁になる。


 村の子供たちがカエルを見つけた。


「おい、半端耳!」


 石壁の陰から飛び出してきた赤毛の少年がカエルの耳を指さして笑った。「お前の耳、尖ってて変なの! やーい、森の化け物!」


 カエルは立ち止まって少年の顔を見た。言い返す言葉はいくつか浮かんだ——お前の鼻のほうがよほど変だ、とか。けれど母がそばにいるから言わなかった。言わなかったのは母のためで自分のためではない、そう思うことで飲み込んだ。


「行きましょう、カエル」


 シルヴィアの指がカエルの手を軽く握り直す。それだけでよかった。


 家に帰ると、三歳のルーナが居間で小さな手足を投げ出して寝転がっていた。カエルが戸を開けた途端に身を起こし、よろよろと駆け寄ってくる。


「にいさ!」


 まだ「兄さん」を正しく発音できない。カエルの膝にしがみついて見上げてくる顔は、とろけるように無防備だった。


「ルーナ、母さんと出かけてくる。いい子にしてろよ」


「やだ! ルーナもいく!」


「まだ早いわ」シルヴィアがルーナの頭を撫でる。「もう少し大きくなったらね」


 ルーナの唇がへの字に曲がる。泣きはしない。ただ、母の服の裾を握って離さなかった。


 カエルはしゃがみ込み、妹と目線を合わせた。


「ルーナ。俺が守るから、待ってろ。すぐ帰る」


 ルーナが目を丸くした。それから、小さく頷いた。裾を握る手が、ゆっくりと離れた。


――――――――――――


 森は、村とは別の世界だった。


 木漏れ日が苔むした地面に斑模様を描き、湿った空気の中に土と腐葉の匂いが混じっている。枝を渡る小鳥の声に混じって——目には見えないが、肌の表面を撫でるような微かな気配があった。


 カエルは耳を澄ませた。風が——いや、風ではない。風の中にもっと細かなものが混じっている。粉雪のような、砂粒のような、触れるか触れないかの境目にあるもの。腕の産毛が立つのは、くすぐったさではなくもっと深い場所に響く、骨を伝うような共鳴だった。


「母さん、これ——何かいる?」


 シルヴィアが足を止めた。目を閉じて息を吸い、ゆっくり吐く。


「感じるのね」


 答えはそれだけで、説明はしない。カエルは少し不満だったが、母がこの顔をするときは聞いても無駄だと知っている。


 森の奥へ進むにつれ、木々の幹は太くなり、苔の緑は深くなった。肌の上の気配も濃くなる。やがて、緑の壁のように密集した蔓草の向こうに——石が見えた。


 苔に覆われた灰色の石造りの構造物がそこにあった。


 人の手で積まれたことは明らかだった。壁面には紋様が刻まれ、その一部がかすかに——淡い青緑の光を放っている。光は呼吸するように明滅し、さっきから肌の上を歩いていた気配がこの紋様の周囲に集まっているのがわかる。見えはしないが、空気の粒が細かくなるような密度の違いを感じた。


「ここはね」


 シルヴィアが蔓草を手で分け、入口の石段を降りる。


「お母さんの種族の、ずっと昔の見張り場だったの」


 中は薄暗かった。天井の石組みの隙間から細い光が差し、埃の粒を照らしている。壁の紋様が奥に行くほど密になり、光もわずかに強まった。外の森より重い空気の中に、肌の上の気配に加えてもう一つ——胸の内側から押し返してくるような圧力がある。祈りの残響と呼ぶにはまだ言葉を知らなかったが、骨と内臓の境目に沁みこんでくる何かだった。


 足を踏み入れたとき、壁の紋様が脈打った。


 光が赤みを帯びる。石段の下から低い振動が立ち上り、天井の隙間から埃が一斉に落ちた。カエルの足元の石板に亀裂が走り、その隙間から鋭い青白い光が噴く。


「——動くな!」


 シルヴィアの声が硬かった。母の指がカエルの肩を掴んで引き留める。紋様の赤い光が点滅し、石室全体が呼吸をしているように膨張と収縮を繰り返す。


 数秒の間があった。


 シルヴィアが石壁の紋様に手を触れ、唇を動かした。声が歌になる——朝に部屋で歌うのと同じ旋律だが、言葉が違った。もっと古く、もっと硬い音。


 紋様の赤みが薄れていく。光が青緑に戻り、振動が収まる。石板の亀裂から漏れていた光も引いて、石室は静かになった。


 カエルの膝が震えていた。それを母に見られたくなくて、片手を壁について立った。


「……なんだったの?」


「ここの守りが、知らない者に反応したの」シルヴィアが笑った。笑顔だが、首筋の腱がまだ浮いている。「お母さんがいるから大丈夫よ」


 革装丁の書物が奥の棚に並んでいた。


 経年で茶色く変色し、背表紙の文字はかすれて、隣の棚との間には蜘蛛の巣が張っている。シルヴィアがその中から一冊を抜き出し、埃を払って開いた。


 古代語が並んでいる。文字列が目に入った瞬間、骨の奥を何かが伝い降りた。家で写本を読むときと同じ、冷たい水が喉から胸に落ちていくような感覚だった。意味というより重さ——文字の重さが頭蓋の内側に沈んでいく。


 母が読めと言う前に、意味がわかっていた。


「——『万物は流れの中にあり、流れは……始まりの声に帰する』」


 声が出ていた。自分でも驚いた。読み上げるつもりはなかったのに、文字を追ったら唇が勝手に動いていた。


 石室の空気が変わった。壁の紋様が脈打ち、光が強くなる。棚の書物が微かに揺れている。さっきの警告とは違う反応——敵意がない。何かが集まってくる。外の森から流れ込むような気配と、胸の奥から押し出されてくる圧力が同時に起きて、二つの波が石室の中で重なった。床の石がかすかに鳴る。


 シルヴィアが息を呑んだ。


 そして——微笑んだ。驚きと喜びが入り混じった、少女のような笑顔。それと同時に、目が潤んでいた。


「あなた、読めるのね。一度も習っていないのに」


「……うん。なんでだろ。最初からわかる感じがする」


 嘘だった。最初からではない。文字を見た瞬間に骨に響くこの感覚は異常だと、五歳でもわかっている。わかっていて、わからないふりをした。母がこれ以上複雑な顔をするのを見たくなかった。


「そう」


 母の手がカエルの頬に触れた。指先が微かに震えている。


「明日からこの本を一緒に読みましょう。毎日ここに来て、少しずつ」


 カエルの胸が高鳴った。遺跡の守りに怖えた膝の震えはまだ残っているのに、別の何かがそれを押し退けていた。母との秘密の場所、母との秘密の言葉——あの村の誰にも見せない、二人だけの世界。


 帰り道、カエルは何度も振り返った。遺跡の入口は蔓草に隠れてもう見えないが、あの紋様の淡い光と石室が揺れた瞬間の震えは、骨の奥にまだ残っていた。


「母さん」


「なに?」


「明日が楽しみだね」


 シルヴィアは答えなかった。ただカエルの手を握り、少しだけ歩く速度を落とした。彼女の横顔には夕日が当たり、その表情を読み取ることはできなかった。


 家に帰ると、ルーナは玄関で眠っていた。母を待ちながら力尽きたらしく、石の床に小さな身体を丸めて拳の中に花びらを握りしめている。シルヴィアが抱き上げると、ルーナは目を開けもせずに母の首にしがみついた。


「にいさ……おかえり……」


 寝言のような声。カエルはルーナの背中を軽く叩いてやった。


 この日常が永遠に続く。五歳のカエルはそれを信じて疑わなかった。


――――――――――――


 翌日、シルヴィアは遺跡の奥から二冊の書を取り出した。

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