灰になった日
目を閉じても、母の歌が聞こえていた。
古代語で、意味は半分もわからない。けれどシルヴィアの声が一音を刻むたび、部屋の空気が密度を変えた。窓辺に吊るされた薬草の束が微かに傾ぎ、棚に並んだ硝子瓶の液面にはひとりでに輪が広がっていく。歌は空気を通り越して、もっと細かなもの——部屋中に漂う目に見えないものに、直接触れているようだった。
カエルは寝台の端で足をぶらぶらさせながら、膝の上に広げた革装の写本を睨んでいた。苔とカビの匂いが染みついたページには、遺跡から持ち帰ったもので村の誰にも読めないはずの文字がびっしりと並んでいる。
カエルには読めた。理由は知らない。ただ文字の列に目を滑らせると、骨の奥を何かが伝い降りてくる——冷たい水を飲んだときに喉から胸へ落ちていく、あの感覚に似ていた。意味というより重さだった。文字が重さを持って、頭蓋の内側に沈んでいく。
「——お母さん、見て!」
窓の向こうからルーナの声が割り込んだ。六歳の妹は庭で地面に膝をつき、両手いっぱいに摘んだ野の花を掲げている。銀がかった髪が朝の光に白く飛んでいた。
「黄色いのと、青いの!」
昨日も外で叫びすぎたせいか声が少し嗄れていて、語尾がいつも跳ねるように上がる癖も手伝って、何を言っても問いかけのように聞こえる。
シルヴィアが歌を止めた。窓枠に手をついて外を覗き、笑う。
「きれいね。お母さんの分もある?」
「あるよ! 兄さんの分も!」
ルーナが駆け寄ってきた。土の匂いをまとった泥だらけの指が、花束ごとカエルに突き出される。写本を閉じようとして——ページの間に土が落ちるのが見え、一瞬だけ手を引きかけた。古代語のページに泥がつく、取り返しがつかない気がした。
けれどカエルはすぐに花束を受け取った。花弁に露が残っていて指先が濡れたが、ページより妹の顔のほうが大事だと、考えるまでもなくわかっていた。
「ありがとう」
ルーナはにっと笑って、母の膝へ走っていった。
鉄背山脈の麓、石造りの家が連なる辺境の集落で、カエルは薬草師の母と花を追いかける妹と暮らしていた。窓の外を朝靄が流れ、鶏の声がして、遠い稜線には万年雪が光っている。
――――――――――――
昼過ぎになって、母が手招きした。
「おいで。見せたいものがあるの」
シルヴィアが写本の途中のページを開き、一節を指で示した。文字の並びが他の箇所と違っていた。目で追うと、骨の奥に届く重さの種類が二つある——片方は肌を掠めるような軽い痺れを伴い、もう片方は胸の底で脈を打つように響いた。
「声に出してみて」
カエルは声に出して読んだ。
喉を離れた瞬間、部屋の空気が張り詰めた。窓辺の花瓶に波紋が走る——水面を叩いたのではなく、水そのものが内側から揺れたのだった。何かが瓶の周りに集まってくる気配がして、同時にカエルの肋骨の裏で温かいものが点り、息に合わせて明滅する。
二つの別々の反応が、たった今読み上げた同じ言葉に応じていた。
シルヴィアが自分の口元を手で覆い、指の隙間から息を漏らしながら、数秒の間何も言わなかった。やがて手を下ろし、唇を噛んだまま笑う——笑顔なのに、目尻が赤かった。
「あなたには特別な力がある」
母の掌がカエルの頭に載った。重く、少し湿っていて、かすかに震えている。
「でも——誰にも見せないでね。まだ」
なぜ、と聞こうとした。母の顔を見て、やめた。シルヴィアは歌っているときと同じ目をしていた。穏やかで、どこか遠い。こちらを見ているのに、もっと先のものを見ている目。
――――――――――――
夕暮れの食卓に、根菜の煮込みの湯気が立っている。
シルヴィアが焼いた黒パンは相変わらず硬く、ルーナは椅子の上で膝立ちになって母の腕にもたれながら、パンの端を齧りつつ半分眠りかけていた。カエルが妹の髪に絡んだ草の切れ端を指で抜いてやると、ルーナは首を傾け、くすぐったそうに肩をすぼめた。
「母さん」
「なに」
「村の外って、どうなってるの」
シルヴィアは匙を置き、窓に顔を向けた。鉄背山脈の稜線が夕焼けに赤黒く沈んでいくところだった。
「広いわ」
短くそう言ったきり黙り、匙を取り直すときに棚の薬草瓶を見る目が一瞬だけ硬くなった。けれどルーナの頭を撫でる仕草でそれを隠すように、すぐ柔らかい表情に戻る。
カエルはその切り替わりを見ていた。何なのかはわからない。ただ、母が隠す仕草をするたびに、隠されたものの輪郭だけがかえって浮かび上がる気がした。聞いてはいけないことが、この家にはある。
――――――――――――
最初に目が覚めたのは、音のせいではなかった。
空気が変わったのだ。部屋の温度は同じなのに、壁の向こう側の気圧が違う。寝台にいたカエルの肌が粟立ち、骨の芯を低い振動が通り抜けていく——誰かが外で強い魔法を使っている。
隣の部屋で物音がして覗くと、そこは空だった。シルヴィアもルーナもいない。
外から、鈍い破裂音が聞こえた。
森の方角だった。空が一瞬、青や白の光に照らされる。
カエルは裸足のまま家を飛び出した。石畳を蹴り、村の北側、森への入り口へと走る。
そこで——見た。
母が、四人の影を相手に戦っていた。フードを深く被った大人の男たち。
シルヴィアが動くたび、風が唸り、地面の根が跳ね上がる。こんな強い人だったのか。毎朝穏やかに歌っていた母が、全く違う声で短い叫びを上げ、精霊魔法で次々と影たちを退けていた。
だが、リーダー格の男が放つ教会魔法の白い光の刃が、母の結界を切り裂いた。
母の腕から血が飛ぶ。
気がつくと体が動いていた。森の入り口へ飛び込み、右の掌に微念を集める。結界を——張ろうとした。同時に左手から精霊魔法の衝撃波を放つ。
しかし、八歳の体で放つ魔法は弱すぎた。影の一つの足がカエルの胸に入った。地面に叩きつけられ、背骨の上を激痛が走りおりた。息が吸えない。
「カエル!」
母の声——それが、シルヴィアが最後に出した大きな声だった。
緑の光が、カエルの頭上に展開された。結界の膜。母が最後の力を振り絞って張った、カエルを隠し守るための術だった。
その直後、結界の外で刃が光り、シルヴィアの体が折れた。膝から。ゆっくりではなかった。石の地面に手をつき、それから肘が折れ、肩が落ちた。
「お母さん……!」
声が重なった。
カエルの背後から——同じく家を飛び出してきたルーナの声だった。
ルーナの口が開いた。声が出た。
声というより振動だった。カエルの鼓膜を通り越し、歯の根元と肋骨を直接揺さぶる。周囲の空気が震え、森がざわめき、微精霊たちがルーナの悲しみに共振して物理的な暴風を生み出した。ルーナの中の何かが微精霊を掴んで引き裂くように叫んでいた。
そして、途切れた。ルーナの口が開いたまま音が消えた。喉が動いている。舌が動いている。何も出てこない。声が、そこにあった場所から、なくなっていた。
母の目的が果たされたと悟ったのか、実行犯の動きが止まり、そのまま森の奥へと撤退していく気配がした。
実行犯の気配は、もうなかった。
カエルは結界が解けた土の上を這い、母のそばに膝をついた。抱き上げようとしたが持ち上がらず、両腕で母の肩と頭を抱えて自分の膝の上に引き寄せた。服に血が染みた。温かかった。母の体温なのか血の温度なのか区別がつかない。顔を近づけたとき、薬草と、それから——鉄に似た匂いが鼻の奥を灼いた。
吐かなかった。唇を噛んで堪えた。
ルーナが這い寄ってきた。カエルの膝の横に座り込み、裾を握った。声のない口で何かを形作っている。繰り返し、繰り返し——おかあさん、と読めた。
カエルは母を膝に載せたまま、動けなかった。
梢の隙間から空が見えた。星がいくつか光っている。何も変わっていない空だった。母が好きだった空だった。
カエルは立ち上がった。ルーナの手を取った。妹の指には——母の形見となった銀の髪飾りが握られていた。
夜が白み始めていた。
カエルは昇る太陽を睨みつけた。
——俺は見つける。母さんを殺した奴を、必ず。
その誓いだけが、冷え切った体の中に残っていた。




