プロローグ:最後の残業、そして――
「高橋君、この企画書、明日の朝までにもう一回作り直しといて」
午後11時。上司の軽い一言が、俺の最後の気力を奪った。
今日で連続勤務は何日目だっけ。もう数えるのもやめた。
高橋健太、29歳。都内の中堅IT企業で働く、どこにでもいるサラリーマン。いや、「働かされている」と言った方が正確かもしれない。
「はい、分かりました……」
返事をしながら、デスクに積まれた書類の山を見る。コンビニ弁当の空き容器。3日前のコーヒーカップ。そして、いつの間にか画面に映る、やつれ果てた自分の顔。
『もう、疲れたな……』
ふと、そんなことを思った。
この人生、いったい何のために生きてるんだろう。
朝起きて、満員電車に揺られて、会社で怒鳴られて、深夜に帰って寝る。それの繰り返し。
趣味を楽しむ時間もない。友達と遊ぶ余裕もない。恋人なんてもちろんいない。
「……せめて、美味しいもの食べたかったな」
最後に自炊したのはいつだっけ。
学生時代、料理が好きだった。母親に教わった家庭料理を作るのが、数少ない楽しみだった。
でも今は、コンビニとファストフードばかり。味なんてどうでもよくなってた。
疲れた体を引きずって、俺は会社のビルから出た。
深夜の都会は、いつも通り明るくて、騒がしくて、冷たい。
横断歩道の前で立ち止まる。
信号が青に変わる。
一歩、踏み出す。
その瞬間――
ブオォォォン!!
視界が真っ白になった。
「え……?」
体が浮く感覚。
痛みはない。
ただ、静かに、意識が遠のいていく。
『ああ……これで、楽になれるのか』
最後に思ったのは、そんなことだった。
そして――
「……ん?」
目を開けると、そこは見たこともない場所だった。
青い空。緑の草原。どこか懐かしい木造の家。
「ここは……」
体を起こす。服装が変わっている。動きやすそうな革の服と、丈夫そうなズボン。
そして――俺の視界の端に、半透明の何かが浮かんでいた。
『ステータス』という文字が見える。
「え、マジで?」
思わず声が出た。
これ、ゲームとかでよく見るやつじゃん。
恐る恐る、その文字に意識を向けると――
【ステータス】
名前:ケント
年齢:29歳
職業:なし
レベル:1
スキル:
・『調理の祝福』(ユニーク)
・『言語理解』
・『アイテムボックス』
称号:
・『異世界からの来訪者』
「異世界転移……マジか」
ゲームや漫画でしか見たことない展開が、現実になっている。
いや、現実というか、これが新しい現実なのか。
「でも、戦闘系のスキルがない……」
『調理の祝福』。名前からして、料理関係のスキルっぽい。
「つまり俺は、戦えないってこと?」
ちょっと不安になったその時、遠くから声が聞こえた。
「おーい!そこの旅の人!」
振り向くと、初老の男性が手を振りながら近づいてきた。
こうして、俺の異世界生活が始まった。
元社畜が、辺境の村で、小さなカフェを開く物語――




