9
天文二十一年の夏。佐々氏の居城・比良城に近い大池に「大蛇がいる」という噂が流れた。
滝川一益が、面白そうにその話を彦七郎に持ちかけたのが始まりだった。
「……殿。比良の池に、身の丈十丈の大蛇が棲みついているそうで。村人は腰を抜かして近寄りもしねぇ」
さらに一益は、クツクツと笑いながら付け加えた。
「それを聞きつけた大殿が、池の水を全部抜いて大蛇を捕らえる――いわゆる『蛇替え』を行うと息巻いておられるらしいですぜ」
傍らで聞いていた平手政秀は、即座に頭を抱えた。
「ああ……なんということだ。赤塚の戦いでようやく『尾張に信長あり』と武名が上がってきたというのに、これではまた『うつけの蛮行』と嘲笑われてしまう……!」
嘆く政秀を他所に、彦七郎と半左衛門は目を輝かせた。
「面白そうではないか。一益、俺たちも兄上の『大蛇探し』に加わるぞ!」
翌朝、彦七郎たちは信長に直談判した。
「兄上! 蛇替え、我らも是非お手伝いさせてください!」
信長は、腰に瓢箪をぶら下げた奇妙な出で立ちで、弟を面白そうに見下ろした。
「フン、見物に来るつもりか。……いいだろう。だが、手ぶらでは来させぬぞ。護衛の分も含めて、あの香ばしい『焼きおにぎり』を大量に作ってこい。それが条件だ」
「承知いたしました! 特製の味噌を持って参ります!」
決行の日。比良の池には、信長の号令で集められた近隣住民や人足たちで溢れかえっていた。
「これから蛇替えを開始する! 大蛇を引きずり出し、俺の前に跪かせるのだ!」
信長の号令に、民衆はどよめいた。
彦七郎は、まず池の状況を把握するため、足軽から借りた二間の長槍を池に突き刺してみた。しかし、槍はするりと飲み込まれ、底に届く気配がない。
「……底が深いな。これでは進捗がわからぬ」
彦七郎は周囲を見渡し、もう一本の長槍を持ってこさせると、持参した紐で三箇所を固く縛り、二本の槍を連結した。その様子を、横で見守っていた信長の目が「キラリ」と光った。
(……二本の槍を繋いで、三間半か。あのガキ、また妙なことを……)
連結槍を突き刺すと、ようやく手応えがあった。深さは三間ほど。
「兄上、水深は三間ほどです。これはなかなか骨が折れますよ」
「何を言っている、バカ者! グダグダ言ってないでやるぞ! 彦七、お前が住民らを指揮して効率よく水を吐き出させろ!」
彦七郎は少し考え、住民たちを池から土手に向かって縦一列に並ばせた。
「皆、聞け! 闇雲に動くのは無駄だ。列を作れ!」
先頭に立つのは信長の側近たち。彼らが池から桶で水を汲み、それを後方の住民へ次々に渡していく。最後尾が小川に水を捨て、空になった桶を隣の列を使って先頭へ戻していく。
最初は不慣れだった住民たちも、彦七郎が焼きおにぎりの香りを漂わせながら鼓舞すると、リズムに乗って驚異的な速さで水を運び出し始めた。
二刻もすると、あんなに満々としていた水が目に見えて減ってきた。だが、大蛇は現れない。さらに一刻が過ぎ、夕闇が迫り始めると、信長が目に見えて苛立ちだした。
「まだか、彦七! まだ大蛇の尻尾一本も見えぬぞ!」
ついに焦れた信長は、着ていたものを脱ぎ捨ててふんどし一丁になった。短刀を口に咥えるや否や、残っている濁った水の中へと迷わず飛び込んだ。
「殿っ!」
政秀の悲鳴が響く中、信長は何度も潜り、泥をかき分け、池の底を隅々まで探し回った。
しばらくして、泥まみれで上がってきた信長は、天を仰いで叫んだ。
「……フン、居らぬか! 臆病な大蛇め、俺の気配に恐れをなして逃げおったわ!」
信長は住民たちに解散を告げた。彦七郎は、疲れ果てた住民一人一人に「ご苦労であった」と声をかけ、残った焼きおにぎりを配って見送った。
家路につく道すがら。隣を歩く滝川一益が、手のひらで賽を弄びながら、ぼそりと独りごちた。
「……殿。あっしは密かに、本当に大蛇が出てくるかどうかに、なけなしの小遣いを賭けてたんですがねぇ」
彦七郎は足を止め、ジロリと一益を睨んだ。
「一益。お前、博打はもうやめたと言わなかったか?」
「……ああ、やめましたよ。ほんと、誓ってやめましたとも。……あっしが本当にやめたかどうか、賭けてもいいですぜ?」
彦七郎は呆れ果て、かける言葉もなく前を向いて歩き出した。その背中を見ながら、一益は愉快そうに賽を懐にしまった。
――蛇替えから数日後。
那古野城の一角にある細工所では、彦七郎が職人たちを急かし、妙な形の槍を作らせていた。
(前の生涯では、兄上は三間半の長槍を主力にしていた。だが、今はまだ誰もそんな非常識な武器は使っていない……)
池の深さを測ったあの連結槍の感覚が、彦七郎の「開発者魂」に火をつけたのだ。自分がいなくともいずれ信長は思いつくだろう。だが、一度興味が湧けば居ても立ってもいられない。その熱に浮かされたような気質は、間違いなく兄の信長と同質のものであった。
彦七郎がまず試作したのは、「三間」の長槍だった。
当時の標準を遥かに超える長さを前に、平手政秀は眉間に深い皺を刻んでいた。
「……彦七郎様。左様に長い槍、取り回しが難しく、実戦では隙を晒すだけではありませぬか」
政秀の懸念に対し、一益が槍をひょいと持ち上げて見せた。
「いやぁ爺さん。こいつは『突く』んじゃなく、上から『叩きつける』ために使えば面白いんじゃねえですか? 数の暴力で上から叩きゃ、敵の陣形なんてひとたまりもねぇ」
「そういうもんかのぉ……」
政秀が絶句する横で、血気盛んな半左衛門が試作槍を手に取り、大きく振り回そうとした。
「おう、これなら俺が――うおっ、わわわっ!」
槍の重さに遠心力が加わり、半左衛門は止まれず、槍に引きずられるように庭先まで転がっていった。
「ははっ! 半左衛門、槍を振るってるのか、槍に振られてるのかわからんな!」
それを見ていた彦七郎は、思わず声を上げて笑った。
彦七郎は、完成した三間の長槍を担ぎ、意気揚々と信長のもとを訪れた。
「兄上、先日の池で深さを測った槍から着想を得て、面白いものを作ってみました。三間の長槍です。これなら敵が近づく前に仕留められます」
彦七郎は、少しだけ「先を越した」という自負を持って報告した。しかし、信長は弟の槍を一瞥すると、鼻で笑った。
「ほう。貴様も長槍の有用性に気付いたか。……だが彦七、まだまだ甘いな」
信長は奥から、さらに一回り長い槍を引きずり出してきた。
「わしは既に『三間半』の槍を試作させた。三間など、中途半端な棒切れよ」
「……三間半!? 流石にそれは、使いづらくはありませんか」
彦七郎が驚いて尋ねると、信長は不敵な笑みを浮かべ、槍の石突きをドンと板敷きに打ち付けた。
「使いづらいだと? そこは訓練と気合で補えい! 道具が人に合わせるのではない。人が道具に合わせるのだ。この長槍を揃えて一斉に振り下ろせば、敵など一溜まりもなかろうが!」
信長の目は、すでに「個人の武勇」を超えた、近代的な軍事革命の光を宿していた。
彦七郎は一瞬呆気にとられたが、自嘲気味な笑いがこみ上げてきた。
(……やられたな。重すぎる、扱いづらい、爺や家臣たちが反対するだろう……そんな言い訳を並べて、三間という安全圏に逃げていたんだ)
だが、目の前の兄はどうだ。
「不可能だ」という周囲の抵抗など、最初から計算に入れていない。ただ勝利のために必要な理想を掲げ、世界の方を自分に合わせようとしている。
(未来を知っている俺が、今を生きる兄上の狂気に気圧されるとは。……それでこそ俺の兄だ)
彦七郎は深々と頭を下げた。その顔には、弟として、兄への純粋な敬意が浮かんでいた。
こうして、織田弾正忠家では「三間半の長槍」の正式採用が決定した。
後に天下に恐れられることになるこの兵器は、実は兄弟の小さな意地の張り合いから生まれたのである。




