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異聞天下布武~夢を見た信興、天下に足掻く~  作者: 松本ジョー


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8

 赤塚の戦いを経て、山口教継・教吉父子は焦燥に駆られていた。信長に植え付けられた「内通」の疑念を払拭するため、彼らは狂ったように戦果を追い求めたのである。


 教継は持ち前の老獪な調略を駆使し、織田方の要衝である大高城、さらには沓掛城を次々と奪取した。今川への忠誠を形で見せ、信長との「馴れ合い」の噂を力ずくでねじ伏せようとしたのだ。


 数日後。その功を称えるかのように、駿府の今川義元から一通の召喚状が届いた。


『大高、沓掛の攻略、見事なり。駿府にて直々に戦功を労う。親子揃って参じよ』


 鳴海を拠点とする国人にとって、東海一の弓取り・今川義元に拝謁できるのは至上の栄誉。教継らは喜び勇み、僅かな供回りを連れて駿府への道を急いだ。


 東海道、三河の国。


 日が落ち、辺りが静寂に包まれた宿場町の外れだった。闇を縫うようにして一人の影が山口親子の前に音もなく現れた。


「……何奴だ!」


 教吉が刀の柄に手をかける。だが、影――彦七郎が放った密使は、平伏したまま一通の文を差し出した。


「山口教継殿とお見受けいたす。織田弾正忠家、織田三郎が弟、彦七郎様より伝言にございます」


 教継は不審に思いつつも文をひったくり、月明かりの下で開いた。そこには、心臓を直接握りつぶされるような毒気に満ちた「予言」が綴られていた。


『駿府へ行けば死ぬ。今川は裏切り者を信じない。赤塚での馬と捕虜の交換……あれこそが、貴殿らが織田と通じている決定的な証左として義元の目に映った。大高や沓掛を落とした功で許されると思うな。義元は国境に後背定からぬ者を置くくらいなら粛清し、譜代の者を送り込む冷徹な男だ。死の門を叩く前に、足を止めよ』


「……フン、うつけの弟が何を。我らが大高、沓掛を落としたことがよほど口惜しいと見える」


 教継は鼻で笑い、文を握りつぶした。だが、内心に生じた小さな「棘」は消えなかった。


 翌朝、その不安は確信に変わる。


 道中の要所に配置された今川兵の目が、明らかに「出迎え」のそれではない。鋭く、冷たく、獲物を追い込む猟犬の眼光。宿を出るたび、数が増えていく監視の武者たち。


 遠江の国境を越える頃、教継は青ざめた顔で嫡男・九郎次郎教吉を呼び寄せた。


「……九郎次郎よ。あの童の言葉、真やもしれぬ」


「父上!?」


「今川は我らを労うつもりなどない。獲らえた城ごと、山口を刈り取るつもりだ。……九郎次郎、貴様はここで病と称して列を離れよ。そのまま那古野へ走れ」


「何を仰います! 父上をおいて行けるはずが――」


「行け! 山口の血を絶やすな!」


 それが父子の今生の別れとなった。山口教継はそのまま駿府へ入り、義元の前に引き出されることもなく、内通の嫌疑によって切腹を命じられた。


 一方、父と別れ、必死に西へ向かって馬を飛ばす教吉の背後には、すでに今川の追っ手が迫っていた。


「逃がすな! 裏切り者の種を絶て!」


 数に囲まれ、教吉は森の袋小路へと追い詰められた。肩を切り裂かれ、落馬し、泥を這う教吉の首筋に冷たい刃が突き立てられようとした、その時。


 シュッ――!


 闇を裂く風切り音と共に、追っ手の喉元に手裏剣が深々と突き刺さった。


「何奴だ!」


 混乱する今川勢の前に、木々の上から音もなく数人の黒装束が舞い降りる。


「……彦七郎様のお迎えだ。参るぞ、山口殿」


 首を獲る寸前だった追っ手を一瞬で片付けたその集団は、教吉の腕を荒々しく掴み上げ、闇の中へと消えた。


 死の淵から掬い上げられた教吉は、泥を啜りながら激しく震えていた。


(父上……無事でいてくれ、父上……!)


 今頃、駿府で義元の疑念に晒されているであろう父を想い、心臓が潰れるほどに疼く。同時に、脳裏を焼き付いて離れないのは、あの闇夜に受け取った手紙の一節だった。


『駿府へ行けば死ぬ』


 ただの戯言と切り捨てたあの言葉が、今、現実となって自分たちの命を刈り取っている。その事実にただただ背筋が凍る思いをしながら、教吉は気を失った。



 ――時は遡る。


 山口教継が織田方の大高城、沓掛城を奪取し、今川義元から召喚状が届いた、まさにその頃。


 彦七郎は、一人離れて鉄砲の筒を磨く滝川一益の前に立った。


「滝川殿。俺の与力になれ。おぬしの力が必要だ」


 一益は手を止めず、鼻で笑った。


「坊ちゃん、冗談が過ぎますぜ。あっしはこれでも、殿様に拾われた身。わざわざ八歳の子供の遊び相手に成り下がる気はねえんです」


「遊びではない。俺は本気だ。おぬしを俺の右腕として使いこなしてやる。その暁には……おぬしを城持ちの大名にしてやる」


 一益の磨く手がピタリと止まった。ゆっくりと顔を上げ、可笑しくてたまらないといった風に肩を揺らす。


「……ははっ、城持ちだぁ? 坊ちゃん、あっしの素性を知ってて言ってるんですかい? あっしはしがない甲賀の浮浪人。そんな奴に城をくれるなんて、お伽話でも聞きゃしねえ」


「お伽話にするか現実に目にするか、おぬしが選べ。俺にはその用意がある」


 彦七郎の、八歳とは思えぬ据わった眼差しに、一益の笑いが消えた。このガキは本気で言っている――その不気味な確信が背筋を走る。


「……ほう。そこまで言い切るなら、一つ『賭け』をしませんか」


 一益は鉄砲を横に置き、指の油を拭った。


「坊ちゃんが今から殿様のところへ行き、あっしを譲れと交渉してくる。もし殿様が渋りもせず、二つ返事で了承したら……あっしの負けだ。城持ちの夢とやらに、この命ごと乗っかってやりましょう」


「いいだろう。俺が負けたら?」


「その時は、あっしの博打のツケを全部肩代わりしてもらった上で、城を追い出されるあっしの『自由』を保証してもらう。どうです、坊ちゃんにとっては大損な賭けだ」


「損はしない。俺は勝つ賭けしかしない主義だ。……見ていろ」



 那古野城の一室。彦七郎は、兄・信長と対峙していた。


「……何だと? あの浮浪人を、お前の与力に寄こせだと?」


 信長が不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「はい。此度の戦で山口に植え付けた疑念……これを確実な『死』に繋げるには、那古野の兵ではない、闇に紛れて動ける手足が必要です」


 信長は手にした扇子を膝に叩きつけた。


「滝川は甲賀の浮浪人だぞ。鉄砲の腕は確かだが、根っこは博打打ちだ。一国一城の主を目指す武士の風上にも置けぬ奴を、なぜ欲しがる」


「兄上の目指す王道の影には、必ず泥をすする者がいなければなりませぬ。滝川殿は忍びの理に通じ、何より利で動くようでいて、その実、己を使いこなす主君を渇望しております」


 彦七郎の瞳には、迷いがなかった。前世で「織田四天王」の一人に数えられ、知略と武勇で織田家を支えた一益。その才能を、歴史が動く前の今、独占しようというのだ。


「……フン、好きにしろ。あんな得体の知れぬ男、俺の側に置いておくのも落ち着かぬ。だが彦七、もしその男が裏切れば、お前がその首を持ってこい。よいな」


「承知いたしました」



 信長の許しを得て、彦七郎は、相変わらず無関心を装って鉄砲を磨き続けている一益の前に、一枚の書状を突きつけた。


「……結果は?」


 一益が顔を上げずに問う。


「今日からお前は俺の与力だ。兄上の署名だ、確認しろ」


 一益は手を止め、書状をひったくるように奪い取った。そこには確かに、信長独特の筆致で一益の譲渡を認める旨が記されている。完勝だった。


「…………」


 一益は書状をじっと見つめたまま、長い沈黙に落ちた。やがて、喉の奥で漏れるような溜息をつくと、力なくその場に座り込んだ。


「……マジかよ。あの殿様が、こうもあっさりと……」


 一益は力なく笑い、懐から愛用の賽を取り出した。掌で転がしていたそれを、地面の隅へと無造作に投げ捨てる。


「……坊ちゃん。いや、殿。あっしはやっぱり、賭け事に向かねぇみたいだ。一世一代の大博打で、これほど無様に負けるたぁな。……もう、金輪際、賭け事はやめだ。あっしの勝ち運は、全部あんたに持っていかれちまったよ」


 その言葉とは裏腹に、一益は膝を突き、深々と頭を下げた。賭場を去る博打打ちの潔さと、新たな主君を見つけた武士の覚悟が、その背中に同居していた。


「……この一益の命。あんたがくれるっていう『城』を拝むまで、好きに使いなせえ」


 こうして彦七郎は闇から出ずる「右手」を手に入れた。山口教吉を救ったのは、この一益が率いる精鋭であった。



 山口教吉救出の数日後、那古野城。夜の静寂を切り裂くように、信長の怒号が響き渡った。


「彦七! 貴様、正気か!」


 広間の板敷きには、泥と血に塗れた山口教吉が、力なく平伏していた。


 信長は立ち上がるや否や太刀を抜き放つ。鞘走る鋭い音が、冬の夜気のように肌を刺した。


「裏切り者の種をなぜ生かして連れてきた! 我を裏切り、今川の手引きをした山口の血、この場で根絶やしにしてくれる!」


 信長が切っ先を教吉の首筋に突きつける。教吉は抵抗しなかった。ただ、絶望と恐怖に震えながら、目を閉じることしかできない。そこへ、わずか八歳の彦七郎が、信長の刃の前に割って入った。


「お待ちください、兄上。この男は、すでに一度死んだ身にございます」


「どけ、彦七! 『うつけ』の身内として情をかけたのなら、今すぐその首と一緒に放り出すぞ!」


「情などではありませぬ。理にございます」


 彦七郎は兄の怒気を正面から受け止め、静かに続けた。


「兄上。織田家が尾張一統を成し、今川を凌駕するためには、表の戦いだけでは足りませぬ。兄上が王道を歩まれるのであれば、その足元に広がる闇を引き受ける『毒』が必要です」


 信長の剣先がわずかに震える。彦七郎は、平伏する教吉を指し示した。


「山口教吉は駿府への道中で死にました。今、ここにいるのは名もなき亡霊。父を殺され、今川への恨みだけを糧とする影にございます。兄上の手を汚す必要はありませぬ。闇の始末はすべて、俺とこの男が引き受けます」


「……影だと?」


「左様にございます。兄上は光り輝く織田の当主として、堂々と戦場で勝ち鬨を上げてください。今川を内側から食い破る術は、俺に預けていただけませぬか」


 信長は、不気味なほどの覚悟を宿した弟を凝視した。その瞳に深淵のような冷徹さを見出すと、やがて鼻で笑い、太刀を鞘に収めた。


「……勝手にしろ。だが彦七、二度とその男を俺の前に出すな。その面を見るたび、俺は山口の裏切りを思い出す。……消えろ」


 信長が去ると、彦七郎は泣き伏す教吉の前に歩み寄った。


「顔を上げよ、九郎次郎。……いや、山口教吉は駿府で死んだ。今の貴殿は、形も名もない亡霊だ」


 彦七郎は一通の白紙を取り出し、その場に広げた。

「貴殿に新たな名を与える。これよりは梁田政綱と名乗れ」


「……梁田、政綱……」


「そうだ。山口の名を捨て、東海道の地の底に潜め。貴殿の役目はただ一つ。今川の動向を追い、義元の首筋に届く『隙』を見つけ出すことだ。……案ずるな。貴殿が今川に差し出したあの地、いずれは『梁田』の名で、真っ当な恩賞として奪い返させてやる」


 政綱は戦慄した。かつて裏切りで手に入れたあの領地を、今度は復讐の果てに正当に手にする道が示されたのだ。


「……山口の汚名、この梁田政綱が一生をかけて洗い流しましょう。彦七郎様……貴方様は、一体何者なのですか」


 政綱は額を板敷きに深く叩きつけた。その様子を柱の影で見ていた一益が、肩をすくめて独りごちた。


「……食えねぇガキだ。負け犬の山口を一番尖った『毒』に変えちまうとはな。これじゃ、あっしの賽も戻ってこねぇわけだ」


 彦七郎は立ち上がり、一益に視線を向けた。


「一益。政綱を連れて行け。お前の手の者として、徹底的に影の技術を叩き込め。……数年後、尾張にて義元が笑う時、その喉元に刃を突き立てるのは俺たちだ」


 那古野の夜風が、「影」の誕生を祝うように冷たく吹き抜けた。


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