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巨星が落ち、尾張は揺れていた。
一代で弾正忠家の武威を築き上げた織田信秀が死去すると、その隙を狙うように東の巨龍が動き出した。信秀に重用されていた鳴海城主・山口教継が、嫡男の三郎信長を「うつけ」と見限り、駿河の今川義元へと寝返ったのである。
教継の動きは早かった。子の教吉を本拠・鳴海城に据え、自らは笠寺城を電撃的に修築。そこに今川からの増援である葛山長嘉、岡部元信ら名だたる将たちを引き入れると、自らは桜中村城に立て籠もり、那古野への牙を剥き出しにした。
天文二十一年四月十七日。那古野の空は、雲一つない晴天だった。
だが、城門に漂う空気は鉄の匂いを含んで重い。信長は、この裏切りを断つべく、ついに出陣を決めたのだ。
今回の出陣には、二つの冷徹な目的があった。
一つは、家中の不穏分子に対し「三郎を侮れば即座に死が届く」という威圧を与え、裏切りの連鎖を防ぐこと。そしてもう一つは、信長が手元で鍛え上げた、後年「黒母衣衆」となる直属部隊の「実戦における練度」を推し量ることだ。旧態依然とした家臣団ではなく、己の意思一つで動く真の「手足」となる精鋭。この八百の働きこそが、今後の織田の軍法を占う試金石でもあった。
城門の前には、具足を着込んだ兵たちが整列している。対する山口勢は今川の加勢も合わせて千五百。倍近い兵力差を前に、兵たちの顔には隠しようのない不安が浮かんでいた。
そこへ、彦七郎が数人の従者に大きな籠を担がせて現れた。
「兄上、これをお持ちください」
信長が馬上で怪訝そうに眉を寄せた。籠の中には、香ばしい匂いを放つ「焼きおにぎり」がぎっしりと詰まっている。梅干しを芯にし、赤味噌をたっぷりと塗って焼き上げたものだ。
「……何だ、これは」
「差し入れにございます。兵一人につき二つ。俺が思うに、空腹ほど士気を下げるものはありませぬ。腹が減っては戦はできませぬよ」
彦七郎は、前世での「袋の鼠」となった最期を思い出していた。小木江城を包囲された、あの六日間。援軍の見込みもなく、出口を塞がれ、喉を焼く熱風と乾きの中で追い詰められた日々。
(あの時は、状況を打開する知恵も、兵の腹を満たして士気を繋ぎ止める余裕もなかった……)
だからこそ、この「一口」が、生死を分ける瀬戸際で踏ん張る力になると確信していた。
信長は不敵に笑った。
「面白い。者共、彦七の施しだ! 受け取って腰に下げておけ!」
兵たちの間に喜びの声が広がり、重苦しかった空気が一変する。
そんな中、彦七郎は過去から見知っている顔を見つけた。滝川久助一益。前の生涯で共に長島一向一揆の対策に奔走した、頼もしき戦友だ。だが、今はまだ言葉を交わしたことはない。
一益は元々甲賀の出だが、博打か借金か、身持ちを崩して各地を放浪。堺や紀州で鉄砲の技術を学び、信長の乳兄弟である池田恒興の縁故で織田家に仕えたという変わり種だ。だが、その実、忍びの血を引く彼は情報収集や調略に類まれな才を持っていた。
「滝川殿、御武運を」
彦七郎は声をかけ、握り飯の入った袋を差し出した。
「これは……手ずから、かたじけない。いただきまする」
一益は意外そうに目を細め、静かに受け取った。まだ何者でもない自分を知っているかのような少年の眼差しに、一益は奇妙な胸騒ぎを覚えたが、それを表に出すことはなかった。
一益との短い雑談の傍らで、信長が平手政秀に別れを告げていた。
出陣の刻限。信長は馬の首を叩き、平手政秀を見下ろした。
「では行ってくるぞ。爺、留守を頼んだぞ」
「ははっ、御武運を。那古野の守りは、この政秀にお任せくださりませ」
政秀が深く頭を下げると、信長は冷ややかな目を南東――弟である勘十郎信行の拠る末森城の方角へと向けた。
「……勘十郎が来ても城に入れるな。あの腰抜けに俺の留守を狙う度胸はないだろうが、周りの林や柴田がどう動くかは別だ」
「心得ております。何奴であろうとも、門を潜らせることはいたしませぬ」
信長が頷く横で、彦七郎は兄の鐙を掴む勢いで一歩前に出た。
「兄上。必ずや赤塚での野戦になるはず。兵数に惑わされず、敵の焦燥を突いてください。……そして、必ず生きて戻ると約束してください」
「生意気を言いおって。見ていろ、すぐに勝って戻ってくる。……半左衛門! トカゲは捕まえたか!」
後ろでそわそわしていた半左衛門が、鼻をふんっと鳴らすと、地べたを蹴るようにして声を張り上げた。
「トカゲより、字の練習の方が大事だって彦七にも言われましたよ! 兄上が帰るまでに驚くほど上手くなっておきます! だから兄上も、山口なんかボコボコにして、さっさと帰ってきてくださいね!」
信長は豪快に笑い飛ばすと、馬の腹を蹴った。
「出陣だあ!」
信長率いる八百の軍勢は、中根村から野並村を疾風のごとく駆け抜け、小鳴海の地へと到達した。信長が軍を止めたのは、鳴海城を一望できる山王山の頂だった。
眼下には、赤塚の野に陣を敷く山口教吉の千五百。信長は不敵に命じた。
「者共! 山を下りる前に腹に気合を詰め込め!」
山王山の陣中で、兵たちは一斉に焼きおにぎりにかぶりついた。梅干しの酸味と味噌の香ばしさが山頂に広がり、兵たちの末端まで熱い活力が染み渡っていく。
「……美味い。これなら、山口の二倍の兵など案ずるに及ばず!」
内藤勝介や蜂屋般若介ら歴戦の将らも、味噌のついた指をなめながら槍を握り直した。
巳の刻。激しい矢戦を経て、凄惨な槍戦へと突入した。
千五百対八百。本来なら圧倒されるはずの織田勢だったが、握り飯で士気を保った彼らは粘り強かった。午の刻に至るまで、泥にまみれた乱戦が続く。互いの顔が見える至近距離での突き合い。信長側からは十余名の討ち死にが出たが、織田の陣形は決して崩れなかった。
その最中、信長が教吉に呼びかけた。
「教吉、元は弾正忠家に仕えた仲よな。無益な殺生はよそう。捕虜を返そうではないか」
信長が不敵にニヤリと笑ったその瞬間、教吉は「信長の甘さ」と侮り、提案を飲んだ。
「……おい。そっちへ逃げたのは俺の馬だ。返せ」
「ああ……こっちの捕虜もそっちの幼馴染みだ。交換しよう」
泥だらけの武者たちが馬を引き渡し、捕虜が肩を叩き合って自陣へ戻る。一見、美談のような光景を、信長は冷徹な瞳で見つめていた。結局、勝敗は付かず、両軍は自陣へと引き上げていった。
夕闇が迫る那古野城門。帰還した信長を、彦七郎は待ち構えていた。
「兄上!」
馬上の信長は、真っ黒に汚れた顔で笑った。
「……彦七。あの味噌の塩気がなければ、途中で槍を放り出していたかもしれんぞ」
決定的な勝ちではなかった。だが、圧倒的不利を跳ね返した事実は、「織田弾正忠家はまだ死んでいない」と尾張中に知らしめた。
一方、鳴海城に戻った山口九郎次郎教吉は、父・教継に戦の報告を行っていた。
「何……捕虜を交換してきたのか。九郎次郎よ、それは不味いかもしれんぞ……」
「父上、それは何故でございますか?」
教継の顔が、恐怖でわずかに歪んだ。
「わからぬか。我らは今川の太守様に鞍替えした身。そんな我らが旧主と仲睦まじく馬を返し合うなど……。国境を守る我らが内通を疑われれば、太守様がどう動くか。……信長め、わざとやりおったか」
「申し訳ございません。以後、疑われる真似はいたしませぬ」
「ふむ……杞憂に終われば良いが。九郎次郎、これからは身を粉にして働かねばならんぞ」
「ははっ!」
山口親子の背後に、駿河からの暗い影が伸び始めていた。




