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異聞天下布武~夢を見た信興、天下に足掻く~  作者: 松本ジョー


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 平手屋敷の広間。彦七郎は、平手政秀が用意した大量の書物と地図を前に、静かに己の内面を見つめていた。


(……かつての俺は、ただの『駒』だった)


 二十五歳で散った記憶。兄・信長の命じるところ、どこへでも赴き、どんな無茶な戦もこなしてきた。だが、それは兄の光に照らされているだけの存在に過ぎなかった。小木江城という最前線を任された時、俺は己の無知ゆえに、状況を判断し、血路を拓く術を持たなかったのだ。


 二十五歳の「知恵」はある。だが、それを体系立てて裏付ける「学問」が欠けていた。一国の柱として己の頭で考え、血路を拓くための学びを蔑ろにしていた報いが、あの炎だったのだ。兄の命令を待つだけの「器」であっては、二度目の人生も同じ火に焼かれる。


 不意に、平手政秀が静かに語りかけてきた。


「彦七郎様。学びとは、時に退屈で、終わりのない道にございます。三郎様もかつては、この机の前で幾度となくあくびをなされたものですが……」


「兄上と一緒にしないでくれ」


 彦七郎は政秀の言葉を遮った。


「俺には時間がない。兄上が尾張を駆け抜ける時、俺が『何も分からぬ足手まとい』でいることは、死ぬことよりも耐え難い。平手殿、あんたが父上の傍で自得し、磨き上げたそのすべてを、一滴残らず俺に注ぎ込んでほしい」


 政秀は、その言葉の重みに息を呑んだ。目の前の童からは、未来の戦場を知る者特有の「焦燥」と、一度命を落とした者だけが持つ「覚悟」が溢れ出していた。


「……分かりました。ではまずは、我ら織田家の立ち位置からおさらいいたしましょう」


 政秀は、墨の跡も生々しい尾張の絵図を広げた。


「まず、頂点におわすのは尾張守護・斯波家。武衛家と呼ばれておりますが、今は清洲城にて飾り物同然。実権はすべて、その下の『守護代』たちが握っております」


 政秀の指が、清洲城と岩倉城を叩く。


「上四郡の岩倉・織田伊勢守。そして下四郡を支配し、我ら弾正忠家の主君筋にあたる清洲・織田大和守。この両家は、三郎様の『うつけ』を口実に、虎視眈々と那古野を飲み込もうとしております」


 さらに図の南と東を指した。


「そして我ら弾正忠家。亡き信秀様が一代で築いた財力により守護代を凌ぐ勢力となりましたが、現在、その中身はバラバラにございます。末森の勘十郎様は林、柴田といった重臣を抱え、那古野を凌ぐ軍事力を持っている。……そして、忘れてはならぬのが、叔父上様方の存在にございます」


「孫三郎叔父貴と、孫十郎叔父貴か」


 半左衛門が腕を組んで付け加えた。


「左様。守山城の織田孫十郎信次様。そして、那古野にほど近い織田孫三郎信光様。この孫三郎様こそ、小豆坂で今川を震え上がらせた我が家最強の武辺者。この御方がどちらに付くかで、織田の命運は決まります」


 彦七郎は地図を凝視し、呟いた。


「だが、今のところ実権を握っているのは、那古野の兄上だ。なぜだと思う、半左衛門」


「えっ、それは……兄上が怖いから?」


「違う。『銭』だ」


 彦七郎は地図上の津島と熱田を叩いた。


「祖父上と父上がこの二つを領有された。他の武家が『土地と米』に執着する中、我らは莫大な銭を手に入れた。武士には銭を蔑む者もいるが、兵を養い、工作をし、城を築くには銭が要る。そういう道理を知らぬ家は、真っ先に淘汰されるんだ」


 政秀は驚きと共に深く頷き、講義をさらに外側へと広げた。


「そして北の隣国・美濃。そこには『蝮』の異名を持つ斎藤道三が居座っております。土岐の主家を乗っ取り、一国を飲み込んだ下克上の化身。三郎様に嫁がれた帰蝶様は、その蝮の娘にございます。表向きは縁戚なれど、道三は娘を使い、三郎様が『真のうつけ』であれば即座に尾張を喰らう腹づもりでしょう」


 続けて、地図の西端……木曽三川の湿地帯を指差す。


「西の国境、木曽三川が入り乱れる中州の地……あそこはもはや尾張でも伊勢でもございませぬ。長島願証寺という『もう一つの国』にございます。住職は証恵という者です。


顕如上人を頂点とする一向宗の絆は岩よりも固く、門徒たちは『進めば極楽、退かれば地獄』と唱え、命を捨てて襲いかかって参ります。その武力を束ねているのが、桑名の豪族・服部左京友貞。海賊さながらに伊勢湾の水運を支配し、我ら弾正忠家の商路を脅かしております。


北伊勢四十八家も、多くがこの願証寺に魂を売っております。奴らは武力で従わせることは叶いませぬ。ひとたび敵に回せば、田畑から湧き出るように門徒が集い、泥沼の戦いとなるでしょう。ここは触れぬが勝ち、今はただ眠れる獅子を突かぬよう腐心するしかございませぬ」


 彦七郎の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。前世の自分を死に至らしめた元凶。彦七郎は知らず知らず苦い顔をしていたが、政秀は気づかず指を東へと動かした。ただ、今度は政秀が苦い顔をしながら。


「東に座すは、駿河の太守・今川義元公。足利将軍家の連枝という高貴な家柄なれど、その実態は『今川仮名目録』の下に統制された、最強の軍事機構にございます。


三河の松平家は、先代・広忠殿亡き後、実質的に今川の属国となりました。……悔やまれるは数年前の安城合戦。あなた達の長兄・信広様が捕らえられた折、我らは人質としていた松平の若君・竹千代殿を、今川へ引き渡してしまいました。


かつてこの那古野で共に過ごした竹千代殿を失ったことで、三河を制御する拠は消え、松平の武士たちは今や今川の『先鋒』として我が領土を侵食しております。今川は、他家の血を使い、自らの手を汚さず尾張を削り取る術に長けた恐るべき敵。潤沢な軍資金と、寝返らせるべきを寝返らせる老獪な調略、それを可能とする権威……。今、我らが対峙しているのは、尾張という小国を丸ごと飲み込まんとする、巨大な顎にございます」


 そう言いながら、政秀は一冊の書物を取り出した。


「彦七郎様。甲斐の武田信玄という男をご存知か。孫子の兵法を使いこなし、戦わずして勝つための調略に余念がありませぬ。孫子が説くは、戦う前に敵を崩すこと。そのためには、字の読み書きこそが最大の武器となるのです」


 講義が佳境に入ったその時、政秀の表情が曇った。


「……彦七郎様。一つ、耳に入れておかねばならぬ噂がございます。鳴海城の山口教継殿が、今川と通じたとの報せが入り申した」


 山口氏は父・信秀の時代からの重臣だ。彦七郎の目つきが鋭く変わる。


「……やはり来たか。平手殿、これは単なる裏切りではない。戦略の問題だ。山口殿は、三郎兄上の『うつけ』に絶望したか、あるいは今川の『武力』に屈したか。いずれにせよ、彼は今川という巨龍を引き込むための『鍵』になる」


「左様にございます。……もし今、三郎様が性急に鳴海へ軍を動かせば、周囲はどう動くとお考えか?」


 政秀の問いに、彦七郎は迷わず答える。


「清洲は間違いなく背後を突くだろうな。そして末森の信行兄上は静観だ。いや、林殿あたりが『兄の不始末』として当主交代の好機と見るだろう」


「仰る通り。なれど、この裏切りを捨て置けば連鎖いたします。……三郎様は、いつ動かれるとお思いか」


「兄上なら、一月と待たずに動くはずだ。……いや、もう準備を始めているかもしれない」


 彦七郎はそう言うと、いつの間にか庭でトカゲを追いかけていた弟を鋭い声で呼び寄せた。


「半左衛門! トカゲを追う暇があるなら、こっちへ来い!」


「えっ、彦七、もう少し待って。あともう少しで捕まるから……」


「今から兄上が戦をなさる。お前がそのトカゲ一匹に目を奪われている間に、敵の大将は筆を走らせ、こちらの門番に賄賂を送り、城門を開けさせているかもしれないんだぞ。字が読めなければ、密書の中身も分からず背中から刺される。……お前が初陣で兄上を支えたいなら、まずはトカゲより先に筆を捕まえろ!」


 その後、政秀は、八歳の少年二人がどうやって山口氏を討伐するか熱く意見を交わすのを和やかに見守っていた。


 しかし、那古野の空は厚く雲がたれこめていた。風が、不穏に鳴り始める。


 赤塚の戦いまで、時間は残り少ない。

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