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末森城を飛び出し、那古野へと駆け込んだ信興と半左衛門を待っていたのは、静まり返った平手屋敷だった。
平手屋敷の門前に着くと、嫡男・五郎右衛門が自慢の駿馬を甲斐甲斐しく世話していた。かつての人生で、信長がこの馬を欲したのを彼が拒絶したことが、平手親子と信長の間に決定的な亀裂を生んだことを彦七郎は知っている。
「ほう、これは見事な良馬ですね」
八歳のあどけない声を装い、彦七郎は近寄った。
「これは彦七郎様。お目が高い。尾張中を探してもそうはおらぬ名馬にございます」
彦七郎は無邪気に笑いながら、その誇りを打ち砕いた。
「……でもね、林様が鼻で笑っていたらしいって噂になってたよ。『平手の子息は良馬を飾って武士を気取っているが、真の武士なら駄馬に乗ってこそ真価が問われるもの。そんな道理も知らぬとは、平手の教育も知れたものだ』って言ったとか。……ねえ、五郎右衛門殿。林様にそんな風に侮られるなんて、私、可哀想だと思って」
五郎右衛門の顔から笑みが消え、怒りで土色に染まった。主家の幼子に「可哀想」と同情された屈辱が、林への殺意に変わる。
(……よし、これで林と平手の共闘は消えた。だが、今はそれどころではない)
案内された奥の間。脇差を静かに研いでいる政秀の背中には、恐ろしいほど澄んだ死の気配が漂っていた。
「平手殿。その刀で、何を斬るつもりだ。父上への追い腹か」
「……殉死などという、綺麗なものではございませぬ」
政秀は研ぎの手を止め、虚ろな瞳で彦七郎を見た。
「私が死ぬのは、信秀様に誓った『三郎様を立派な当主に育てる』という約束を破ったお詫び。三郎様をあのような化け物にしてしまった、己の無能への裁きにございます。殉死と混同されぬよう、葬儀の狂騒が冷めるのを待っておりました。独り、静かに責任を取りたいのです」
これは「忠義」ではなく、己を裁く「処刑」なのだ。その絶望に、彦七郎は容赦なく踏み込む。
「兄上を見限るにはまだ早い。あの萬松寺の『うつけ』は、兄上が孤独の中で放った起死回生の策だ。各地から集まった僧侶たちに『信長は救いようのないうつけだ』と触れ回らせることで、外敵を油断させ、内なる不忠者を炙り出す。これほど壮大な仕掛けが、他にあろうか」
「しかし、あれでは、あまりに殿が不憫にございます!」
政秀が慟哭した。
「兄上が泥を被り、牙を研いでおられる今、あんたが死んでどうする! あんたの死は、兄上の心をさらに凍りつかせる。兄上はあんたを父のように慕い、誰よりもあんたの理解に頼っておられるのだぞ。それなのに、死を以て自分を全否定される子供の気持ちが、あんたに分かるか!」
政秀の脇差が、音を立てて畳に転がった。彦七郎は一歩踏み出し、追い打ちをかける。
「俺は、兄上の側で織田を支えたい。だが、今の俺には力が、知識が足りぬ。平手殿、あんたに頼みがある。この彦七郎に、あんたの持っているすべてを叩き込んでくれないか。あんたが信秀様から託されたその知恵、死なせて灰にするにはあまりに惜しい」
政秀が息を呑む。
「……私に、彦七郎様を、教えろと?」
「そうだ。今日から俺と半左衛門を、この屋敷に置いてくれ。あんたが切腹しようとするなら、俺は毎日あんたの袖を掴んで邪魔してやる。死ぬ暇などないほど、俺を鍛えてみせろ。それが、あんたが信秀様へ果たすべき、もう一つの責任ではないのか」
政秀はしばし絶句し、やがて脇差を鞘に収めると、天を仰いで長く、深い息を吐き出した。その表情には、死を決意した時よりもさらに厳しい、しかし生気に満ちた「覚悟」が宿っていた。
「……おそれ入りました。八歳の童に、これほどまでの執念を見せつけられては、老骨も形無しにございます。……彦七郎様。あなたのその眼差し、ただの聡明さでは片付けられぬ『何か』を感じます」
政秀はゆっくりと頭を下げた。
「分かりました。三郎様が修羅の道へ堕ちぬよう、そして彦七郎様、あなたが何を目指しておられるのか……。この平手政秀、冥土への土産を増やすために、今しばらくこの世に留まり、あなたをお預かりいたしましょう」
政秀は八歳の彦七郎に向かって、深く深く頭を下げた。
「……彦七郎様。この老骨、いまだ死に場所ではありませぬか」
「死ぬのは、弾正忠家が尾張一統を果たしてからでも遅くはない。……さて。それより平手殿。門前の五郎右衛門殿を止めておいてくれ。林殿が五郎右衛門殿の事を侮っているらしいって教えたら、今にも林屋敷へ斬り込みに行きそうな顔をしていた」
「……は? 林殿が、五郎右衛門を?」
政秀が目を丸くした。彦七郎は苦笑いしながら、子供の顔に戻って立ち上がる。
「林殿を斬れば、今度こそ弾正忠家は割れる。平手殿、あんたの役割は、兄上の教育だけじゃない。五郎右衛門殿の手綱を握ることも、立派な『お家への忠義』だよ」
彦七郎は、そっと政秀の肩に手を置いた。その小さな手は、驚くほど温かく、そして揺るぎない力強さに満ちていた。
那古野城の一室。
そこには、葬儀の際の狂乱が嘘のように、気怠げに脇息にもたれかかり、頬杖をついている織田三郎信長の姿があった。片膝を立て、だらしなく肌を晒したその姿は、相変わらず「うつけ」そのものである。
「……何の用だ。末森で勘十郎の太鼓持ちでもしていれば良かろうに」
濁った、だが射抜くような眼光が彦七郎を捉える。彦七郎は平然と座り込み、半左衛門を横に並ばせた。
「勘十郎兄上とは喧嘩をして参りました。今日からこちらに置いてください」
「喧嘩だと?」
「はい。『当主の家族は当主の城に居るべきだ』と至極まともなことを申し上げたのですが、なぜかあちらは顔を真っ赤にして茶碗を叩き割りまして。追い出される前に、こちらから見限ってやった次第です」
信長は一瞬呆然とした後、喉の奥でククッ、と短く笑った。
「くかか! まともな理屈ほど、あの潔癖症には毒だったか。……だが、我が那古野は食い詰め者の溜まり場だぞ。末森のような贅沢はできん」
「構いません。当面は、平手殿の屋敷にお世話になることに決めました。あの方の持っている知恵を、すべて吸い尽くすつもりです」
その言葉が出た瞬間、信長の動きが止まった。信長はゆっくりと上体を起こし、彦七郎を凝視した。
「……爺のところだと? ……ほう。あの葬儀の後、死にそうな顔をしておった爺が、何も言ってこぬと思うていたが。そういうことか」
信長はすべてを察した。政秀が自分を責める説教に来なかったのは、目の前の小さな弟が「楔」となって繋ぎ止めたからだと。
「……よかろう。爺には、引き続き宿老を務めてもらわねばならん。そのついでだ、こやつらを、少しは使える道具に仕込むよう伝えておけ」
「心得ました。……ああ、それと兄上。一言お耳に入れたいことが」
彦七郎は、ふと思い出したかのように声を潜めた。
「平手五郎右衛門殿の持っている、あの立派な馬の噂、聞きました?」
「……。いや、何だ」
信長の眉が、わずかにピクリと動く。その馬を献上させようかと思案していた矢先のことだった。
「何でも末森城まであの駿馬の話が広まっていて、それを聞いた林様が『武士は駄馬に乗るべきだ』なんて言って、五郎右衛門殿から馬を取り上げようとする気満々らしいですよ。どうやら、勘十郎兄上がその馬を欲しがっているから、そんなことを言い出した……なんて噂が、家臣の間で広まっています。それを手土産に平手家を末森方へ引き込もうとしているのかも、と心配でね」
「……ふん。あいつがいかにも考えそうなことだ。家臣の馬一頭で己の格が上がるとでも思っているのか。器の知れた奴よ」
信長は吐き捨てるように言った。自分も欲しがろうとしていたその馬が、急に「勘十郎のような小物が喜ぶ安っぽい玩具」に思えてきたのだ。
「ですよね。だから私も五郎右衛門殿には言っておきましたよ。『その馬を絶対に手放すな。三郎兄上はそんな小物の欲しがるものに興味はない。だが、もしあんたが誰かに馬を譲れば、それは平手家が兄上を裏切った証拠になる。死んでも手放すな』と。……兄上のような器の大きな御方は、そんなつまらない噂を立てられたくはないでしょう?」
信長は苛立たしげに、しかしどこか愉快そうに鼻を鳴らした。
「勝手にしろ。あんな馬、俺には必要ない。俺は俺のやり方で、末森の連中に格の違いを見せつけてやるまでよ」
「さすが兄上。……ああ、それと末森を出る時、喜六郎兄上に会いました。『今度一緒にうつけましょう! 新しい踊りを考えておく』と伝言を預かっております」
信長は一瞬、苦いものを噛み潰したような顔をしたが、すぐに背を向けて再び寝そべった。
「……相変わらず、どいつもこいつも馬鹿ばかりよ。さっさと行け」
爺を救い、五郎右衛門の馬を封じ、喜六郎を案じ……勘十郎に毒を吐くか。
彦七、お前は一体、何を見ておる。
その時。彦七郎たちが出て行った方とは逆の戸が、音もなく静かに開いた。
滑り込むように入ってきたのは、凛とした空気を纏った若き女人——斎藤道三の娘、帰蝶である。
「……聞いておったか」
信長が寝そべったまま声をかけると、帰蝶は薄く微笑み、彦七郎が先ほどまで座っていた畳に目を落とした。
「何やら面白い童ですね。あのような小さな体に、どれほどの毒と知恵を隠し持っているのやら」
「ふん、何を考えているかよくわからん奴よ。……だが、あの落ち着き払った目、あれはただの子供の目ではない」
「あら、まるでご自分を見ているようだと仰りたいのですか?」
帰蝶の揶揄に、信長は答えず、ただ鼻を鳴らした。
その表情には、先ほどまでの一人きりの孤独ではなく、好敵手を見つけた時のような、かすかな高揚感が混じっていた。
那古野の城に、新しい風が吹き始めていた。




