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異聞天下布武~夢を見た信興、天下に足掻く~  作者: 松本ジョー


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 萬松寺の葬儀が終わりを告げ、参列者たちがどよめきと共に散っていく中、彦七郎は一刻の猶予もないことを悟っていた。香炉から立ち上る煙が堂内に淀むように、織田弾正忠家の未来もまた、暗雲に包まれようとしていた。


 父・信秀という巨大な重石が外れた今、織田家は分裂の危機に瀕している。いや、実際四年後に分裂する。それほど今日の葬儀での信長の奇行は劇薬であり、末森の家臣たちの心を急速に離れさせていた。


 それに、信行にとって自分たちは、三郎信長と「同じ穴の狢」に過ぎなかった。特に彦七郎は、幼い頃からどこか三郎信長を彷彿とさせる奔放さと、時折見せる射抜くような眼光があった。それが信行には、たまらなく癪に障り、薄気味悪かったのだ。夢を見る前から、信行の自分たちへの接し方は、兄弟のそれではなく「害獣」を見るような冷ややかさだった。ゆえにこのまま末森城に留まれば、待っているのは「冷遇」の二文字だ。


(……夢の中の、一度目の人生がそうだった)


 彦七郎の脳裏に、不快な記憶が蘇る。信行が「稲生の戦い」で信長に敗れ、その野心が潰えるまでの数年間。末森城にいた自分たちは、まるでいない者のように扱われたのだ。公の場には呼ばれず、廊下ですれ違う家臣たちはあからさまに目を逸らし、配られる飯はいつも冷え切っていた。


 そんな惨めな「空白の時間」を、二度も繰り返すつもりはない。


 そして何より、今の那古野なごやには平手政秀がいる。父亡き後、信長を守る唯一の盾。だが今の政秀は、信長の醜態をすべて己の責任として背負い込み、死の淵に立たされているはずだ。


(……平手様を失えば、三郎兄上の心が一つ壊れる。あの方が自害して果てる前に、那古野へ入らねばならぬ)


「半左衛門、荷をまとめろ。我らはこれより末森を去り、那古野の城へ向かう」


 彦七郎が低く告げると、傍らの半左衛門は目を丸くした。


「なっ……彦七、本気か? 父上を亡くしたばかりで、勘十郎兄上を見限るというのか」


「ここに居ては、いない者として腐っていくだけだ。それに、平手様が危ない。あの方は今、絶望の底におられる。俺たちが行って支えねば、那古野は内側から崩れるぞ」


 彦七郎の瞳に宿る、実体験に裏打ちされた冷徹な先見性に、半左衛門は圧倒されたように頷いた。


「……分かった。彦七がそう言うなら、ここはおさらばだ。あいつらに『いないもの』扱いされるのは、もう真っ平だからな」


 二人は足早に自室へ戻り、最低限の旅装を整えた。向かうは、勘十郎信行の居間。末森の主を気取る兄に、決別の挨拶を叩きつけるために。


 信行の居間は、父・信秀が愛用した華美な調度品に囲まれ、まるで彼が既に織田家の正嫡であるかのような尊大さに満ちていた。


 彦七郎が評定の間に立ち入る許可を得て中に踏み込むと、信行は重臣たちと何やら談笑していたようだったが、彦七郎に気付くと不機嫌そうに顔を上げた。


「彦七郎か。何の用だ、騒々しい。父上の死を悼み、神妙にしていれば良いものを」


「勘十郎兄上。本日を以て、私と半左衛門は末森を去り、那古野の三郎兄上の元へ居を移します。そのご挨拶に参りました」


 その場にいた林秀貞の目が細まり、柴田勝家が獣のような低い唸り声を上げた。信行は、彦七郎が冗談を言っているとでも思ったのか、鼻で笑って調度品の茶碗をもてあそんだ。


「……那古野だと? あの葬儀での無様を見た直後に、よくそのようなことが言える。三郎はもう終わりだ。抹香と共に、織田の嫡男としての権威も投げ捨てたのだ。あやつに連座して、泥を啜りたいのか」


 信行は、信長を「三郎」と呼び捨てにすることで、暗に自分が上に立ったことを誇示していた。だが、彦七郎は一歩も引かず、冷徹な視線を兄に据えた。


「勘十郎兄上。今現在、弾正忠家の家督継承はどなた様にござろう」


 それを聞いた信行は顔をしかめた。


「……今は、三郎だ」


 葬儀が終わったばかりで、いずれ家督が自分に転がり込むと確信してはいたが、現時点では自分こそが当主だと言い切る名分を、彼はまだ持っていなかった。


「勘十郎兄上。私も、家督はあなたが仰った通り三郎兄上だと思っております。どれほど奇行に及ぼうとも、今はまだ、正当なる当主は三郎兄上。それは亡き父上がお決めになったこと。であれば、その家族はその当主がいる城に住むべきだと愚考いたしますが、いかがか」


 部屋の温度が、一瞬で氷点下まで下がった。


 後ろに控える半左衛門が息を呑む音が、静寂に響く。


 彦七郎は、怒りに震える信行を前にして、にこりと無垢な笑みを浮かべて続けた。


「そういうわけで、那古野の城に行きます。……至極まともな考えでしょう?」


「勝手にしろ! 沈みゆく泥舟に乗りたいというなら貴様の自由だ。ただし、二度と、この末森の門を潜れると思うな!」


 信行は憤懣やる方ないという表情でそう吐き捨てた。


「はい、勝手にさせていただきます」


 続けて、彦七郎は念を押すように言った。


「そうそう……先ほど勘十郎兄上が仰った通り、織田弾正忠家の当主は三郎兄上です。そして、あくまであなたは三郎兄上の家臣に過ぎません。それだけはお忘れなきよう」


 信行がもてあそんでいた茶碗を畳に叩きつけた。ガシャリと、高価な陶器が無惨な音を立てて砕ける。


「黙れ! 誰に口を利いている! 側室腹の余り者の分際で!」


「事実を申し上げたまでです。織田の規矩を重んじる兄上ならば、家臣が主君を見限るような真似はされますまい」


 彦七郎は、激昂する信行を「哀れな者」を見るような目で見つめた。かつての人生で、この兄が最後には信長に謀殺されることを知っている。その最期を知っているからこそ、この威嚇が空虚に、そして滑稽にすら響いた。


「さらばでござる。……半左衛門、行くぞ」


 信行の背後で、柴田勝家が立ち上がろうとしたが、彦七郎はその殺気すらも背中で受け流した。八歳の背中には、到底子供のものとは思えぬ、死線を越えた者特有の静かな重圧が宿っていた。


 荷をまとめ、半左衛門を連れて那古野へ旅立とうとする彦七郎の前に、派手な格好をした兄・喜六郎秀孝が立ちふさがった。


「おっ、彦七! 本当に行くのか、那古野。いいなぁ、三郎兄上のそばにいられるなんて!」


 秀孝は、信長を真似て少し着崩した着物を翻し、ガハハと笑って彦七郎の頭を乱暴に撫でた。自分より背の高い兄だが、その瞳には悪意も野心も微塵もない。


「……喜六郎兄上。兄上も、勘十郎兄上ではなく、三郎兄上のところへ来ればいいのに」


「俺? 俺はいいよ、ここで母上の話し相手でもしてるさ。あ、でも三郎兄上に会ったら伝えておいてくれよ。『今度一緒にうつけましょう!』ってな! 新しい踊り、考えておくからさ!」


 秀孝は腰の短刀を叩いて笑う。一度目の人生では、この「信長に憧れる無防備さ」ゆえに、数年後、一人で馬を飛ばして守山城付近を通りかかり、叔父の家臣に不審者と間違われて射殺されてしまった。


(……この人は……三郎兄上のことが大好きで、だから兄上を真似て、一人で勝手に死んだんだ)


 彦七郎は、かつて聞いた「秀孝、単騎にて守山を通りかかり、誤射にて果てる」という、あまりにもマヌケで、それゆえに悲惨な報せを思い出し、胸の奥が熱くなる。この男を死なせることは、信長の心をさらに削ることと同義だ。


「喜六郎兄上。……いいか、よく聞いてくれ。あんたはこれから、絶対に一人で馬を走らせるな。どこへ行くにも、必ず誰かを連れていけ。いいな、約束だぞ」


「ははは! 彦七は相変わらず理屈っぽいなぁ。俺の馬術なら、与一の矢だって追い越せるさ。じゃあな、三郎兄上によろしく!」


 秀孝はひらひらと手を振りながら、鼻唄まじりの軽い足取りで城内へ戻っていった。


(……死なせぬ。絶対にだ。あんな悲劇を、二度と兄上に見せてたまるか)


 そう決意し、彦七郎は半左衛門とわずかな共を連れて末森の城を駆け出した。


 背後に残る末森の城壁が夕闇に沈んでいく。


 彦七郎の未だ見ぬ視線のその先には、運命の分岐点となる那古野の城が、不気味なほど静かに佇んでいるのだった。

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