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父・織田信秀の死から一夜。末森城を包む空気は、不気味なほどに冷え冷えとしていた。
城内では、家督の継承を巡る重臣たちの密談が、床下のネズミのように這い回っている。そんな狂騒を余所に、ようやく長い眠りから覚めた八郎は、驚くほど静かに座していた。
当初こそ、己が幼子の体に戻っている事実に狼狽を見せていた八郎だったが、彦七郎から果心居士との邂逅、そして自分たちが「やり直し」の運命にあることを聞かされると、憑き物が落ちたような顔をした。
「……彦七郎。もうよい。私はもう、この部屋から一歩も出ぬ」
八歳の童が発したとは思えぬ、枯淡とした響き。八郎の瞳には、かつて数十年を生き抜き、病の床で人生を終えた隠居老人だけが持つ、深い倦怠が淀んでいた。
「……戦か。政か。それとも、血で血を洗う身内同士の化かし合いか。……どれも、もう十分だ。私はあの眠りの中で、一人の男としての生涯を、飽きるほどに使い果たしてきた。今更、子供の真似事をして泥にまみれる気力など、欠片も残っておらぬ。この小さな体で、再び天下の風に晒されるなど、考えただけで虫唾が走る」
果心の言葉通り、八郎はあの「夢」の中で、文字通り一世を「たっぷり」と生きてきたのだ。信照として八十歳を超える長寿を全うした記憶があるならば、再演の苦痛は想像に難くない。彦七郎は、疲れ果てている弟に対し、「どんな人生だったのか」と聞けるほど厚顔無恥ではいられなかった。
「……それでいい、八郎。お前は死なずに生きろ。泥を被る役目は、俺一人で足りる。三郎兄上の孤独を、俺が支える」
彦七郎が、己もまた元亀元年の炎の中で果てた記憶を持って戻ったことを打ち明けると、八郎は微かに口角を上げ、手元にある古い漢籍へと視線を落とした。
「……ならば、お前は勝手にするがよい。私はここで、誰からも忘れられた世捨て人として余生を過ごす。……だが、そうだな。もしお前が袋小路に迷い込み、老人の繰り言でも聞きたくなった時は、ここへ来い」
八郎は、まるで遠い未来の景色を眺めるような目で、手元の古い漢籍を指でなぞった。
「お前が戦場で血を流している間、私はここで、古今の知恵に埋もれて暮らすとしよう。それが、槍を捨てた私から、これから泥を被るお前への、せめてもの手向けだ」
織田家の中に、誰にも知られぬ奇妙な「聖域」と「共犯関係」が生まれた瞬間だった。
十日後。大須・萬松寺。
生前、信秀が織田弾正忠家の菩提寺として建立したこの地で、自身の葬儀が執り行われようとしていた。
山門から続く道には、尾張中から集まった野次馬や領民がひしめき合い、誰もが「織田の跡継ぎは誰か」を噂し合っている。寺の境内には、各地から招かれた三百人もの僧侶が居並び、その読経の声は、地鳴りのように大地を震わせていた。
堂内には線香の煙が重く立ち込め、陽光すらも白く濁らせている。
彦七郎のすぐ横には、三兄・勘十郎信行が座っていた。非の打ち所がない完璧な礼服を纏い、数珠を握る手は微かに震え、頬には美しい涙が伝っている。
「父上、なぜこれほど早く……」
時折漏れる嘆きの声すら、計算されたかのように「孝行息子」を演出していた。
だが、彦七郎は、信行を取り囲む重臣たちの視線に、鋭い殺意にも似た野心を嗅ぎ取った。
(……読める。読めるぞ。林、柴田、そして義母上までも。奴らの腹の内が、手に取るように分かる)
林秀貞は冷徹な目で場を支配し、柴田勝家は焦燥からか、しきりに鼻を鳴らしている。生母・土田御前は、嫡男であるはずの信長には関心を示さず、愛おしそうに信行の背を見つめていた。
彼らは信行の悲しみに寄り添っているのではない。信長という「うつけ」を廃し、御しやすい信行を当主に据えることで、己の権勢を確固たるものにしようと謀略の種を撒いているのだ。葬儀の静寂の中で、彼らの野心が黒い霧のようにうごめいているのを、二十五歳まで戦場を駆け抜けた信興の「武将の勘」が、逃さず捉えていた。
しかし、肝心の主役が来ない。
「……若はまだか。まだ来られぬのか」
最前列近くで、平手政秀が苛立ちを隠せず、何度も入り口を振り返っていた。その額には脂汗がにじみ、数珠を握る指先が白く強張っている。あまりの遅参に、周囲からは失笑に近い囁きが漏れ始めた。
「相変わらずのうつけぶりよ。父の葬儀にすら遅れるとは、もはや見限るしかあるまい」
「左様。平手殿のご苦労も、あれでは水の泡ですな。父親の葬儀にも現れぬとは。あのような者が主君とは、弾正忠家の末路も知れたものだ」
嘲笑の標的は信長から、彼を必死に支える政秀へと向けられていく。政秀の顔は次第に土色へと変わり、絶望の影が深く刻まれていった。
その時だった。堂内の空気が、刃物で切り裂かれたかのように、一瞬にして凍りついた。
現れたのは、兄・三郎信長だった。
髪は茶筅のように荒々しく結い、袴も穿かぬ素足。腰には縄を巻き、そこには火打ち袋や瓢箪をぶら下げている。仏事の礼節を微塵も感じさせぬ、あまりに異形な、そしてあまりに傲岸な姿。
嘲笑していた重臣たちの顔から余裕が消え、あまりの無礼さに憤怒の表情が浮かぶ。
信長は、周囲の蔑みや怒りの視線を、柳に風と受け流しながら、一直線に位牌の前へと進み出た。一歩、一歩踏みしめる音が、読経の声をかき消していく。
そして、誰もが予想だにしなかった凶行に及んだ。
信長は、供えられた抹香をわし掴みにすると、それを父の位牌に向けて、力任せに叩きつけたのだ。
「……っ!」
バサリ、と乾いた音が堂内に響き渡る。
父の位牌を無残に汚す、茶褐色の抹香の粉。それは織田家の伝統に対する、あるいは自分を認めなかった世界に対する、音の無い絶叫のようにも見えた。
彦七郎の背筋を、氷のような衝撃が走り抜けた。
(夢で見た通りだ。あの男――果心が見せたのは、幻などではない。これから起こる『避けられぬ未来』だったのだ!)
彦七郎は確信した。この二度目の人生は、ただの幸運ではない。果心居士という怪異が仕掛けた、あるいは天が命じた、残酷なまでの再演。そして、自分に課せられたのは、この狂気と孤独の隣で、誰よりも長く生き残ることなのだと。
隣で半左衛門が、彦七郎の推察を補強するかのように、小さく呟いた。
「あれ? 見たことある……」
ふと視線を転じると、平手政秀がいた。
彼は青ざめるのを通り越し、顔色はまるで幽鬼の如く白くなり、信長を見つめていた。己の教育が、信念が、そして信長の未来が、たった今、永遠に失われたのだと悟った者の顔だった。
(平手殿……。あんたは、この後、自ら命を絶つ。この『うつけ』への諌死として……。だが、俺は知っている。兄上が、あなたを誰よりも頼りにしていたことを)
彦七郎が兄・信長に目を向けると、信長が微かに口端を歪めたのが見えた。一度目の時にはあまりの衝撃に気づかなかったが、確かに信長は、嘲笑か、あるいは皮肉か、微かに口端を歪めたのだ。
彦七郎は違和感を覚えた。あんな祭まで行って父の命を繋ぎ止めようとした男が、なぜこれほどの暴挙に出るのか。
彦七郎が思考の渦に捕らわれようとしている間に、信長はそのまま一度も振り返ることなく、颯爽と堂内から出て行った。
「なんちゅう無作法な……。あのような者が嫡男とは、弾正忠家も終わりよ。信長殿には、ひとかけらの情も無いのか」
背後で重臣の一人が、信行を称えるような目配せをしながら、信長を罵った。
彦七郎は、ゆっくりとその重臣の方を振り返った。八歳の子供とは思えぬ、底冷えのする冷徹な視線。それは小木江城で死を覚悟した武将の眼光だった。重臣は一瞬、何かに射すくめられたような違和感に顔を歪めたが、相手が子供だと気づくと、鼻で笑って再び信行へと媚びを売る。
「ありゃあ、大した男たい。きっと国ば持つ人になっばい」
突如、参列していた客僧が、場にそぐわぬ素っ頓狂な声を上げた。周囲が非難の目を向ける中、その老僧だけは、信長が去っていった方向を、何やら愉快そうに見送っていた。
彦七郎は、立ち込める香炉の煙の中で、急速に思考をまとめていた。
(そうか、兄上。あなたは敵味方をはっきりさせるために、あえて泥を被ったのか……。だとしたら、各地から集められたこの三百もの僧侶たちは、己の『うつけ』を尾張のみならず、他国へも知らしめるための格好の語り部…。今はまだ、牙を隠し、敵を欺かねばならぬ時期ということか……)
信行派の台頭、今川の侵攻、美濃攻略、本願寺対策。
これから始まる嵐のような日々を、どう泳ぎ切り、兄の盾となるか。
(何はともあれ、取り急ぎ平手政秀殿を救わねばならぬ。あの顔……いつ腹を切ってもおかしくない)
彦七郎は、立ち込める香炉の煙に目を細めた。
怒号と困惑が渦巻く萬松寺の喧騒の中で、独り。
彦七郎の瞳は、白く濁った煙の向こうに消えた兄の背中を、いつまでも追い続けていた。




