27
稲生の戦場から数里。夕闇に包まれ始めた末森城には、敗残の兵たちが次々と運び込まれていた。
つい数刻前まで、尾張の主を自認し、勝利を確信していた空気は霧散した。城内に漂うのは、重苦しい血の匂いと、行き場のない絶望だけである。
主君・信行の前へ、泥と硝煙にまみれた柴田勝家が姿を現した。彼は兜を脱ぎ、脇に抱えると、あえて感情を削ぎ落とした声で口を開いた。
「……申し上げます。林美作殿は我らを待たず早々に突撃なされ、あえなく返り討ち。さらに守山の信次様も、敵の鉄砲隊に狙い打たれ、討ち死にされました。もはや戦線を維持できず、止むなく撤退した次第にござる」
その報告を聞いた信行は、血の気の引いた顔で床几から崩れ落ちそうになった。
「なん……だと。美作も、叔父上も死んだというのか」
「は。敗因は明白。総大将を定めず、各々が勝手な判断で動いたことにござる。対する三郎殿の陣営は、当主自らが先陣を切って川を渡り、全軍の士気は天を衝く勢いにござった。……何とも、無念の極みにござる」
勝家は深々と頭を下げたが、その言葉の端々には、「本陣から一歩も動かなかった貴殿のせいで負けたのだ」という冷徹な糾弾が滲んでいた。
この静かな批判に耐えきれず、信行の傍らに控えていた寵臣・津々木蔵人が立ち上がった。
「黙れ、柴田! 貴様、戦場での日和見を棚に上げて何を言うか! 林殿が死に、信次様が討たれたのは、貴様が横から援護せなんだからではないか! 三郎の鉄砲ごとき、織田随一の猛将と謳われた貴様が防げぬはずがあろう!」
津々木は口角泡を飛ばして勝家を罵る。自らの臆病を隠すための、見苦しい責任転嫁であった。
勝家は津々木の怒声を、まるでもの言わぬ石像のように無視した。彼は津々木に一瞥もくれず、ただじっと信行の瞳を見据えて問いかける。
「さて、勘十郎様。……この後、いかがなさる? 籠城なされるなら、今すぐにでも兵糧を固め、大手門を塞がねばなりませぬ。三郎殿の追撃は、すぐそこまで迫っておりますぞ」
決断を迫られた信行は、唇を小刻みに震わせ、泳ぐような視線で周囲を見渡した。勝家の鋭い眼光、敗走した兵たちの呻き声、そして何より、実の兄がすぐそこまで殺意を持って迫っているという恐怖。
「母上だ……母上に相談せねば……」
信行は土田御前の元へ駆け込もうと背を向けたが、勝家の放つ無言の圧力に耐えかねたのか、立ち止まって震える声で付け加えた。
「……追撃に備えよ! 門を閉じ、兵糧を集め、籠城の準備を急ぐのだ! 良いな、権六!」
その言葉だけを遺し、信行は奥へと消えた。形ばかりの主君の命に、勝家は「ははっ」と短く応じ、広間に残った雑兵たちへ鋭い視線を送る。
信行は吐き捨てるように言うと、重臣たちの視線から逃げるように、奥にある土田御前の部屋へと足早に去っていった。
残された広間には、寒々とした沈黙が流れた。
柴田勝家は、ゆっくりと傍らの林佐渡守秀貞に視線を向けた。弟を失ったばかりの秀貞もまた、深い疲弊とともに天を仰いでいた。二人の間に、もはや言葉は必要なかった。ただ、「やれやれ」というやるせなさと、この主君にはもう明日がないという冷めた予感だけが共有された。
「聞いた通りだ。大手門を固めよ! 柵を組み、矢弾を運び込め!」
勝家の怒声で、沈滞していた末森城がにわかに動き出す。だが、それは勝機を見出すための活気ではなく、追い詰められた獣が必死に巣穴を塞ぐような、悲壮な騒乱であった。林秀貞は力なく首を振ると、実弟の死を悼む暇もなく、守備兵の配置を記した図面を広げた。
そんな喧騒の最中であった。
大手門の向こうから、一騎の馬蹄の音が近づき、堂々たる呼び上げが響き渡った。
「清洲より使者、織田彦七郎! 和睦の儀につき、勘十郎兄上にお目通り願いたい!」
騒ぎ立てる足軽たちを、勝家が手制止した。
「……通せ。この期に及んで、我が身一つで乗り込んできた剛の者だ。無体な真似は許さぬ」
重い門が軋みながら開く。
夕闇の中、一人馬を降りて入城してきた彦七郎は、返り血を浴びた装束のまま、戦場の硝煙と血の匂いを城内に持ち込んだ。逃げ惑う敗残兵たちの視線を、彼は一切意に介さず、まっすぐに広間へと歩を進める。
広間の入り口で待っていた勝家と秀貞が、彦七郎の前に立ち塞がった。
「……お早いお着きで。彦七郎様」
勝家の問いに、彦七郎は冷徹な眼差しで答える。
「柴田殿。……義母上様と兄上は、奥に?」
「……左様。お方様の下におられる」
勝家の手引きで入城した彦七郎は、返り血を浴びた装束のまま、奥の間に待機していた信行と土田御前の前へ進み出た。
「彦七郎、三郎は……兄は何と仰せか。切腹か、斬首か!」
「いえ、まだ何も。まずは兄上の意向を伺うべく参った次第。……勘十郎兄上はどうなさりたいので?」
「籠城じゃ。決まっておろう!」
虚勢を張る信行を土田御前が制し、彦七郎に問いかける。
「彦七郎殿。そなたは、三郎殿がどう始末をつけようとされているか、御存じなのでは?」
「……左様ですなぁ。おそらく勘十郎兄上の斬首などはないかと。むしろ態度次第では、赦されるのではないかと愚考いたします。後、皆様方も多少のお咎めはあるかも知れませんが、恐らく大丈夫かと思います」
ちらりと柴田勝家を見ると安堵したように頷いていた。
「やはり! では彦七郎殿、口添えを……」
土田御前が身を乗り出す。これこそが彦七郎の待っていた瞬間だった。
「いいえ、私ごときが動くより、義母上様が動く方が効果的です。ですが、条件がございます」
彦七郎は声を落とし、密やかに続けた。
「二日後、清洲へ出頭なされ。私が広間で『切腹を』と声高に主張します。そうしなければ、兄上の心中は収まらず、家中への示しがつきませぬ。義母上様は、私の言葉を遮るようにして、全力で命乞いをするのです。これは『芝居』です。命を救うための。……そして勘十郎兄上、林殿、柴田殿。あぁ津々木殿も含めて全員その場で髷を落とし、墨染めの衣を着てください。武士としての死を受け入れる覚悟を示さねば、兄上の刃は止まりませぬ」
信行は項垂れ、土田御前は「全て承知しました」と、彦七郎の冷徹な知略に身を委ねることを決めた。
翌日末森を去った彦七郎は、清洲城へ戻り、深夜に信長と二人きりで向き合った。
「……彦七。明日の断罪、勘十郎は斬る。身内の甘えを許せば、織田の秩序は保てぬ」
信長は、抜き放った刀を月光に透かし、冷徹に言い放った。対する彦七郎は、怯むことなく兄の瞳を見つめ返す。
「兄上。斬れば、義母上様は兄上を一生恨みましょう。それは織田家の中に決して癒えぬ毒を遺し、いずれまた秩序を内側から腐らせることになります」
彦七郎は、静かに地図の一点を指差した。
「比叡山です。これよりは勘十郎ではなく、仏に仕える『僧』として生きさせる。これならば謀叛人は消え、兄上の手も汚れません。……広間では、私が徹底的に勘十郎兄上を追い詰めます。兄上は頃合いを見て、私の提案に乗ってください。……情に流されたのではなく、苦渋の決断としてこの策を呑む。それが、当主としての兄上の威厳を守ることになろうかと……」
信長は鼻で笑い、刀を鞘に収めた。
「……で、あるか。よかろう、その茶番、乗ってやる」
翌日、清洲城の広間には、墨染めの衣を纏い、髪を下ろした信行の姿があった。その隣には、共に同じ色の衣に身を包んだ土田御前が付き添っている。
上座に座る信長は、一言も発さず、ただ冷ややかに弟を見下ろしていた。
「兄上……この通り、私は野心を捨て、仏門に入りました。これまでの不届き、どうかお許しを……」
信行が畳に額を擦り付ける。彦七郎は、その背中を冷たく見つめながら口を開いた。
「兄上。此度の謀叛、もはや情で済まされるものではございませぬ。織田の秩序を正し、家中に示しをつけるためにも、勘十郎兄上には……潔く、切腹を申し付けるべきにございます!」
「三郎、待ってください! 頼みます!」
打ち合わせ通り、土田御前が激しく慟哭し、信長の足元に縋りつく。信長はあえて苦悩する表情を作り、数瞬、考える素振りを見せた。
「……一族の情と、家臣を束ねる秩序。……俺には選べぬ」
信長のその「溜め」こそが、彦七郎が用意した舞台の山場であった。
「……ならば兄上。一つだけ落とし所がございます。比叡山です。勘十郎殿は、自ら比叡山にて一生を仏に捧げ、亡き父上の菩提を弔うと誓っております。これぞ真の悔い改め。兄上、比叡山への『出立』をお認めください。それならば、秩序も情も立ちましょう」
「……比叡山?」
信行が顔を上げた。予定にはなかった言葉だ。「近いうちに末森へ戻れる」という芝居の筋書きを聞かされていたのだ。だが、彦七郎は続けざまに、追い込むように言い放つ。
「左様。比叡山延暦寺にて、二度と俗世の土を踏まぬ覚悟。それこそが、織田家の平穏への唯一の証にござります。……滝川、迎えを」
広間の左右から、武装した滝川一益の配下たちが音もなく現れた。
「な……待て! 話が違う! 彦七、貴様……!」
逆上しかけた信行の言葉を、信長の鋭い一喝が遮った。
「で、あるか」
信長は、ゆっくりと立ち上がった。彦七郎が用意した「比叡山への追放」という舞台。それは信長にとっても、弟を殺さずに情を断ち切るための、唯一の出口であった。
「……行け、勘十郎。二度とその面を俺に見せるな。尾張の土を、二度と踏むこと、罷りならん」
「兄上! 母上、助けてください! 騙されたのです!」
泣き叫ぶ信行を、兵たちが容赦なく引き立てていく。土田御前は、震える手で自分の口を覆い、彦七郎を睨みつけた。
「彦七郎……その方、私まで騙したのか! 勘十郎を、あんな遠くへ……!」
彦七郎は、義母の恨みの視線を真正面から受け止めた。
「……殺さなかったことこそが、私の精一杯の『情』にございます」
家臣たちが去り、土田御前が奥へ引き上げ、勝家の咆哮すら遠ざかった広間。
そこには、先ほどまで「冷徹な主君」を演じていた信長と、「非情な軍師」を演じていた彦七郎だけが残されていた。
「……ふぅーっ」
信長が大きく肩を落とし、天守を支える太い柱に背を預けた。端正な顔には、戦場での疲労とは質の違う、ひどく泥臭い倦怠感が滲んでいる。
「……疲れましたね、兄上」
「ああ、最悪だ。……彦七、貴様のあの『切腹を!』という叫び、あまりに真に迫りすぎていて、一瞬俺までその気になりかけたぞ。どこの役者だ、貴様は」
信長は、苛立ちを隠すように笑い、手近にあった白湯を喉に流し込んだ。
信行が比叡山へと去った数日後。
清洲城の広間には、末森城から改めて出頭した柴田勝家の姿があった。
かつての主君を失い、さらに津々木蔵人ら「信行への狂信的な近臣」を排除した勝家は、一回り老け込んだようにも、あるいは憑き物が落ちたようにも見えた。
勝家は、信長の前で深く平伏した。
「……柴田権六。これまで、勘十郎様に義を尽くし、三郎殿に刃を向けた大罪。いかなる処分も受ける覚悟にござります」
信長は、無言で勝家を見下ろしている。広間の隅では、彦七郎が固唾を呑んで見守っていた。
「……権六。お前は、俺を殺そうとしたな」
「は。……そのつもりで、槍を振るいました」
「で、あるか」
信長は腰の刀に手をかけ、ゆっくりと立ち上がった。広間に緊張が走る。勝家は目を閉じ、首を差し出した。だが、信長が放ったのは斬撃ではなく、静かな、しかし重みのある言葉だった。
「その槍、次は俺のために振るえ。……今この時より、貴様を織田家の先鋒と認める。林佐渡も、そのままで良い。ただし、二度目はないと思え」
勝家は驚愕に目を見開き、信長を見上げた。
信長は、一度も振り返ることなく、勝家を通り過ぎて広間を出ていく。
「……権六。兄上は、お前の腕を高く買っておられるのだぞ。これからは、二人で兄上を支えていこう」
彦七郎が歩み寄り、勝家の肩に手を置いた。
勝家は、しばらく呆然としていたが、やがて大粒の涙を畳に落としながら、震える声で叫んだ。
「この柴田権六……命を懸けて、殿をお守りいたすッ! 地獄の底までも、お供つかまつる!」
ここに、織田家最強の矛「鬼柴田」が誕生した。
彦七郎の介入により、信行の死という悲劇を回避しつつ、信長軍団の骨格が完成したのである。




