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異聞天下布武~夢を見た信興、天下に足掻く~  作者: 松本ジョー


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 弘治二年八月。美濃の「蝮」が長良川に沈んだという凶報は、尾張の政情を根底から突き崩した。


 信行派にとって、これ以上の好機はなかった。信長を支えていた二本の柱――圧倒的な武力と政治力で家中を抑えていた叔父・織田信光、そして北に睨みを利かせていた義父・斎藤道三。この二人が同時に消えたのである。


「三郎にもはや後ろ盾はいない。根無し草同然よ」


 末森城の奥の間で、林秀貞が冷ややかに言い放つ。だが、その言葉とは裏腹に、信行陣営の内情は焦燥に支配されていた。うつけと侮っていた信長が見せた電光石火の将器、美濃の前国主から贈られた「美濃国譲り状」の衝撃、さらには尾張国守護の武衛家を戴き、前守護代すら凌駕したその武力。そのどれもが、彼らの予想を遥かに上回っていた。


 今立ち上がらねば、その差は永遠に埋まらぬほどに開いていく。起死回生を狙って放った「信光暗殺」の策、そしてそれを信長の仕業と見せかけた偽計。これこそが最後の勝機であると信じたからこその蜂起であった。


 信行は、代々当主が名乗る「弾正忠」の官途を公然と自称し始めた。その背後には、林兄弟や家中随一の猛将・柴田勝家が控え、織田家は完全に二つに割れた。


 さらに信行は、信長の直轄領であり、重要な経済拠点であった春日井郡篠木三郷へ軍を出し、年貢を強引に押領した。これは単なる略奪ではない。「信長にはもはや領地を守る力も、当主の資格もない」と尾張全土に宣言する、強烈な政治的挑発であった。


「……三郎兄上。これで動かねば、尾張の国衆はすべて末森へ付きますぞ」


 彦七郎の言葉に、信長は無言で応えた。


 信長は信光の急逝によって揺れていた那古野城に、側近の佐久間信盛を即座に送り込んで守りを固め直した。当主不在の隙を突こうとしていた信行陣営の目論見を、電光石火の差配で封じたのである。


 その上で信行派の林兄弟を直接牽制するため、那古野城の鼻の先である名塚に砦を急造し、佐久間盛重を送り込む。


 この動きに激昂した林美作守と柴田勝家が、三千の兵を率いて出陣。舞台は稲生へと移った。末森軍が動く。柴田勝家が兵一千、林美作守通具が七百。これに織田信次やその他の国衆の兵を合わせ、その総勢は三千に膨れ上がった。


「先に手を出したのは三郎だ。もはや容赦は要らぬ」


 戦場は、庄内川を挟んだ名塚の地。


 南から北上した林美作守は、かつてないほどの焦燥に駆られていた。


「……三郎め、なんという速さだ」


 目の前では、増水した於多井川を、信長率いる千五百の兵が躊躇なく強行突破してくる。泥を跳ね上げ、鬼神のごとき形相で迫る信長軍。そして背後を振り返れば、信長軍ががっちりと守る那古野城が沈黙を守りつつ、今にも城門を開いて追撃してくる構えを見せている。


「柴田殿! 何をしておられる、早く突き進まれよ! 那古野の奴らが突き出してくれば、我らは川に沈むぞ!」


 林美作が絶叫するが、街道沿いに陣取る一千の柴田勝家勢は、不気味なほど動かない。勝家は床几にどっしりと腰を下ろし、ただ戦場を俯瞰していた。


 それもそのはず。挙兵の兆しを聞いた彦七郎は、念押しのために再度、柴田勝家のもとへ直接足を運んでいたのだ。



「柴田殿、なかなか末森の行方を変えるのは骨折りでしたな。それでもここに至っては致し方ありません。戦場での『日和見』、しかとよろしくお願いしますぞ」


「……本当に、それであのお方は助かるのでしょうね?」


 彦七郎は笑顔を貼り付け、懐から一枚の起請文を取り出した。


「もちろんでございます。天地神明に誓って、悪いようにはいたしません」


 柴田勝家は、がっくりと項垂れながらも、思い人、土田御前の命を救うという一点においてその提案を呑んだのであった。



「柴田殿……まさか、三郎に寝返ったか!?」


 疑念が確信に変わる間もなく、林美作は決断を迫られた。挟み撃ちを恐れた彼は、無理に兵を名塚砦側、すなわち信長軍の側面へと寄せた。だが、そここそが彦七郎が仕掛けた罠の入り口であった。


 名塚砦へと続く街道脇、深い藪の中。


 彦七郎は、火縄の香りに包まれながら、獲物が十分に近づくのを待っていた。


「……今だ。一益、始めろ」


 彦七郎の短い号令が響く。


「放てッ!」


 ――ドォォォォォンッ!!


 一斉に放たれた火蓋が、真夏の空気を引き裂いた。


 横腹を無防備に晒していた林軍の先頭集団が、猛烈な斉射を浴びてなぎ倒される。至近距離からの狙撃。兵たちは悲鳴を上げる暇もなく、泥濘へと沈んでいった。


「怯むな! 次弾用意! 二段、三段、間を置くな!」


 彦七郎の叱咤を受け、滝川一益が手際よく陣を回す。間髪入れずに放たれる第二撃、第三撃。那古野城という「壁」に怯え、名塚砦という「針」に吸い寄せられた林軍は、完全に逃げ場を失った。


 鉄砲の轟音を合図に、信長が大音声を上げた。


「身内同士で何をもたついている! 臆した者はその場で首を撥ねるぞッ! 敵を突き伏せろ!」


 信長自らが先陣に立ち、混乱の極致にある林軍へ突っ込む。


 もはや統制を失った林勢は、味方の死体を踏み越えて逃げ惑うばかり。林美作は血眼になりながら黒田半平と斬り合うが、そこに信長が飛びかかった。


「美作、貴様の野心もここまでよ!」


 信長はついに美作守を突き伏せ、その首を挙げた。


 林軍が鉄砲の轟音に崩れ、信長が返り血を浴びて咆哮を上げたその時、戦場の狂乱を切り裂いて突進してくる一団があった。


 守山城主にして叔父である織田信次だった。


「簒奪者・三郎ッ! よくも兄上を手にかけたな! その大罪、死して償え!」


 信次は、信行陣営が流した「信長による信光暗殺」という虚報を露ほども疑っていなかった。彼にとって信長は、敬愛する兄を葬った、血に飢えた怪物に映っていた。


 信次の軍勢は、退路を断たれた絶望を怒りに変え、一直線に信長の本陣へと肉薄する。守備の薄い側面。信長が美作守の首級を挙げた直後の、わずかな隙であった。


「……叔父上、止まってください!」


 藪の中から飛び出したのは、彦七郎であった。手にはまだ熱を帯びた火縄銃がある。


「彦七か! 貴様まで三郎の毒に当たったか。どけ、その男を殺して織田を清める!」


 信次の瞳には、狂信的な正義の炎が宿っている。もはや言葉が届く段階ではないことを、彦七郎は瞬時に悟った。信次をここで生かせば、信長は背中を貫かれる。そして、信次を殺せば、信長は「叔父殺し」の汚名を一生背負うことになる。


(……なら、私が背負う)


 彦七郎は、迷いを断ち切るように銃を構えた。夢の記憶にある「非情な信長」を、今の信長にさせてはならない。


「鉄砲隊、構え! 私に続けッ!」


 彦七郎の号令とともに、十数挺の銃口が信次へと向けられた。


 一瞬、信次が驚愕に目を見開く。甥が自分に銃口を向けるなど、想定もしていなかったのだろう。


「放てッ!」


 ――ドォォォォォンッ!!


 白煙が視界を覆う。


 鉛の玉は正確に信次の胸を貫き、その勢いのまま、彼は落馬した。信じられぬといった表情のまま、土と血にまみれる叔父の姿が彦七郎の目に焼き付く。


 静寂が訪れた。


 信長がゆっくりとこちらを振り返った。倒れた信次と、銃を構えたまま震える彦七郎。その光景が意味するものを、信長が理解しないはずがなかった。


「……彦七。貴様、叔父上を」


 信長の声には、驚きよりも深い悲痛が混じっていた。


「……兄上の背中を守るためです。この叔父上を殺したのは私だ。清洲の誰もが、そう証言するでしょう」


 彦七郎は、銃を地面に置き、深々と頭を下げた。手の震えが止まらない。だが、これでいいのだ。信次を死へ追いやったのは、信長への「疑念」という毒を撒いた信行たちなのだ。


「……で、あるか」


 信長は、短く、そして絞り出すようにそう呟いた。


 信次が討ち死にした光景を見届けた柴田勝家は、重い腰を上げると、一度も剣を抜くことなく兵を引き上げさせた。勝家の撤退、林美作と織田信次の死により、三千を誇った信行軍は一瞬にして霧散したのである。


 稲生の地に盛大な勝ち鬨が上がった瞬間だった。



 戦塵が舞い、硝煙の匂いが立ち込める稲生の戦場にて、首級の確認が進む喧騒の中で信長と彦七郎は並んで馬を止めていた。


 林美作守という牙を失い、柴田勝家に背を向けられた信行の敗北は、もはや疑いようのない事実であった。


 彦七郎は、返り血を拭いもせず一点を見つめている信長の横顔を盗み見た。そこに勝利の昂揚感はない。あるのは、実の弟を「賊」として討たねばならなかった男の、ひどく冷めた静寂であった。


「……兄上、勘十郎兄上をどうなさるので?」


 彦七郎の問いに、信長はすぐには答えなかった。視線の先には、敗走する末森勢が逃げ込んだ先、うっすらと霞む城影がある。


「……先ずは末森城の包囲を行う。その後は、彼奴の心掛け次第よ」


 信長の声は低く、どこか湿り気を帯びていた。


 道三に対して見せたあの苛烈な決断力はどこへ行ったのか。彦七郎は悟る。


(ああ、この人は……勘十郎兄上を、どうしても自分からは切り捨てることができないのだな)


 それは甘さというより、血肉を分けた者への呪縛に近い情であった。そしてその向こうには、幼い頃から信行を溺愛し、今も末森の城内で震えているであろう母・土田御前の影が、信長の背を重く押さえつけているのだ。


「ですが、このまま『何もなし』とは行きますまい。これほどの大事を起こしたのです。家中の手前、示しがつきませぬ」


 彦七郎は馬を一歩進め、信長の視線を遮るように立った。


「とりあえず包囲が完成したら、私が使者となって降伏を迫りましょう。兄上自らが出向いては、勘十郎兄も意地を張りましょう。私が泥を被り引導を渡して参ります」


 信長は、ようやく彦七郎の瞳を正面から見据えた。


 その目は「救いたいのか、それとも殺したいのか」と問うているようでもあり、あるいは自分の代わりに冷徹な役を買って出ようとする弟への、言葉にならぬ謝罪のようでもあった。


 信長は短く息を吐き、視線を再び空へと戻した。


「……で、あるか」


 その一言に、すべてが凝縮されていた。


 情に流される自分を許容し、同時に、これから始まる残酷な「後始末」を彦七郎に託すという意思表示。


「彦七。……しくじるなよ。毒は、早めに吸い出さねば体が腐る」


「わかっております、兄上」


 彦七郎は深く一礼し、馬首を巡らせた。


 記憶の中の信長は、二度目の謀反の際に、ついに自らの手で信行を刺し殺す。


(二度目はさせない。……それが、この時代に私がいる意味だ)


 背後で、信長が再び鉄砲の音のような鋭い号令をかけた。清洲軍が、末森へ向けて粛々と動き始めた。

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