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弘治二年四月。
那古野での謹慎を続けていた彦七郎のもとに、兄・信長からの呼び出しが届いた。
「謹慎は解け。すぐさま清洲へ参れ」
その短い伝令には、春の陽気とは裏腹な、刺すような緊張感が漂っていた。
清洲城の奥の間。そこには、いつになく険しい表情を浮かべた信長と、その傍らで凛とした佇まいを見せる帰蝶、そして見慣れぬ若者が一人、緊張した面持ちで控えていた。
「彦七か。座れ」
信長のぶっきらぼうな声と共に、一枚の書状が彦七郎の前に投げ出された。
「読め。舅殿からの、最期の贈り物だ」
彦七郎はそれを手に取り、目を走らせた。
「我が嫡子・高政、不肖にして美濃一国を領すべき器にあらず。よって、美濃の国郡一切を織田三郎信長へ譲り渡すものなり。国中の諸侍においては、今より後は信長を主と仰ぎ、その下命に違背あるべからず。もし信長、この地を望まぬなれば、己が眼に叶いたる者へこれを与うべし。末子・新五郎を使いとして差し向けるゆえ、万事よろしう頼み奉る。
――弘治二年四月十日 斎藤山城守入道道三」
(ついに来たか。……道三殿が、その息子に討たれる日が)
夢の記憶が告げている。道三は長良川を挟んで高政と対峙するが、圧倒的な兵力差の前に敗北し、最後は無惨に討ち取られる。信長も援軍を出すが、川の増水と高政の軍勢に阻まれ、ついに道三殿を救うことは叶わない。
彦七郎が顔を上げると、信長が隣の若者を顎で示した。
「こいつが、道三殿が俺に託した新五郎だ。新五郎、状況を話せ」
斎藤新五郎は、沈痛な面持ちで語り始めた。
美濃の状況は、まさに地獄であった。道三は高政に家督を譲り隠居していたが、それは実質的に強制されたものであったこと。その後、道三は高政を廃し、寵愛する年少の息子たち …… 新五郎から見て二人の兄である孫四郎、喜平次のいずれかを後継に据えようとした。
そして……
「兄、高政は病と称して二人の兄たちを稲葉山城へ呼び寄せ……その手で殺害いたしました」
新五郎の声が震える。
弟を殺された道三は激昂し、鶴山にて挙兵。その数、わずか二千七百。
対する高政は、名を「范可」と改めた後、美濃の国衆をまとめ上げ、一万七千五百という圧倒的な軍勢を集結させていた。
「范可」とは唐土の故事に因む「やむを得ない事情で父を殺した者」の代名詞であり、道三を討つ決意や正当化する意図があった。
新五郎から戦況を聞き終えた彦七郎は、投げ出された譲状をもう一度見つめた。猛烈な違和感に襲われていた。
指先に触れる紙の質感が、妙に冷たい。
(なぜだ? 道三入道殿は高政殿に自身を殺させることで斎藤家三代にて美濃国盗りを完成させたかったはず。なのに、なぜ今、兄上に『美濃を譲る』などという書状を出した?)
しかし説明を聞くうちに、彦七郎の背筋に冷たいものが走った。一つの仮説が脳裏をよぎる。
「……兄上。これは、道三殿の『最後の謀略』かもしれません」
彦七郎の言葉に、信長が片眉を上げた。
「道三殿は、この譲り状をあえて織田に出すことで、美濃国内を『打倒・織田』という旗印の下、高政殿へ一本化させようとしているのではないでしょうか。自分を殺させることで、高政殿に『父を超えた』という実績を与え、斎藤家の国盗りを完成させようとしている。その上他国者である織田を侵略者に変えることで分断した美濃衆の結束を図る。斎藤が勝てば二国の太守となる。……もし仮に織田が勝ったとしても、義姉上がいる以上、斎藤の血は残る。どちらが転んでも、義父殿の勝ちなのです」
つまり、この譲り状は信長への「贈り物」ではなく、信長を利用して高政の権威を高め、美濃を強固な岩盤にするための「毒」なのだ。
沈黙を守っていた帰蝶が、絞り出すような声で言った。
「……ならば、殿。父上を見捨てるべきです」
それは、実の父を死へ追いやる、血を吐くような進言であった。
「父上は、殿や彦七郎様をも策の中に組み込み、嘲笑っておられる。そのような茶番に付き合う必要はございませぬ」
彦七郎も、その冷徹な判断に頷いた。
「私も、義姉上に賛成です。この状況で美濃へ踏み込めば、一万七千の敵の中に、義父殿の手で放り込まれることになります」
しかし、信長は頷かなかった。
ただ、じっと譲り状を見つめ、不敵な笑みを口端に浮かべた。
「……いや、助けに行かざるを得まい」
「兄上!?」
驚く彦七郎を制し、信長は力強く言い放った。
「美濃の主が、自ら国を譲ると言ってきたのだ。それを『罠だから』と見捨ててみろ。これ以降、美濃の侍たちは二度と俺を頼りにしなくなる。美濃だけではない、この尾張の国衆どももだ。『三郎は義父の遺言すら無視する臆病者だ』とな」
信長は立ち上がり、刀の柄を鳴らした。
「舅殿の策だろうが呪いだろうが知ったことか。俺を策に嵌めたつもりなら、その策ごと美濃を奪い取ってやる。……彦七、皆を集めい。死にたがっている老いぼれの面を拝みに行くぞ」
彦七郎は、信長の背中を見つめた。
道三が描いた「最期の謀略」を、この兄は力ずくで破り捨てようとしている。
八郎に「地図を捨てろ」と言われたばかりの彦七郎にとって、その蛮勇とも言える決断は、眩しく、そして恐ろしかった。
「……承知いたしました……」
那古野の冬風よりも冷たい、戦いの風が吹き荒れようとしていた。
弘治二年四月二十日。長良川の対岸、鶴山。
斎藤山城守道三入道は、迫りくる一万七千の軍勢を前に、微塵も揺らぐことなく床几に腰を下ろしていた。
「……ほう。高政の奴、いや、范可だったか……見事な陣立てよ。我が息子ながら見事としか言えまい。これほど美濃の国衆を鮮やかにまとめ上げるとはな」
傍らで震える近習たちとは対照的に、道三の口元には愉悦の笑みが浮かんでいた。
かつて自分が力でねじ伏せ、毒で操った美濃の侍たちが、今は「父殺しの大罪人」范可の下、岩盤のような団結を見せている。それこそが、道三が死を賭して仕掛けた最期の一手、「譲り状」という名の猛毒が引き起こした化学反応であった。
「報告! 織田三郎信長、木曽川を越え、大良の河原に布陣いたしました!」
伝令の叫びを聞き、道三の口元が醜く、しかし愉悦に歪んだ。
「……く、くく。期待通りよ、三郎。あの譲り状という名の猛毒を、一息に飲み下しおったか」
傍らには、若き才気を感じさせる一人の少年が静かに控えていた。竹中半兵衛である。道三はその底知れぬ瞳を半兵衛に向け、満足げに頷いた。
「読み通りだな、半兵衛よ。織田が動けば、美濃の侍共は『外敵』を恐れ、ますます范可の下で一つに固まる。……これで、斎藤の国盗りは完成だ。父を殺し、織田を退けたという揺るぎない実績が、あやつを真の美濃の主にする」
「……御隠居様。それでも、よろしいのですか。これでは貴方様は……」
半兵衛の問いに、道三はカラカラと喉を鳴らして笑った。
「構わぬ。美濃という国が強うなれば、それでよい。……さあ、半兵衛。お前はもう菩提山城へ戻れ。お前のような宝を、こんな老いぼれの黄泉路に付き合わせるわけにはいかぬ」
道三は立ち上がり、押し寄せる范可軍の先鋒を真っ向から見据えた。
「行け、半兵衛! 次の時代を見極めろ!」
半兵衛が深く一礼し、戦火の彼方へ消えていくのを見届けた後、マムシは自ら槍を手に取り、美濃の土にその血を捧げた。その絶命の瞬間まで、道三は己の策が完璧に成就したことを確信し、嗤い続けていた。
一方、大良の河原。
彦七郎は、対岸から響く地鳴りのような勝鬨を聞いた。
「道三殿が……討たれたか」
戦うための援軍ではない。道三が投げた「呪い」を確認しに来たに過ぎない。もはや、ここから先は一刻を争う撤退戦であった。一万七千の美濃勢が、勝利の余勢を駆って織田軍を飲み込もうと川を渡り始めている。
「引け! 陣を崩さず、整然と引けッ!」
信長の鋭い号令が飛ぶ。彦七郎は一益と共に殿に立ち、押し寄せる敵の先鋒を牽制した。
美濃勢の追撃は苛烈であったが、織田軍は決して背を見せなかった。
「……彦七! 遅れるな!」
追撃の手が彦七郎の部隊に届こうとしたその時、後方で一斉に火を噴くものがあった。信長自らが指揮する鉄砲隊である。
――ドォォォォォンッ!
轟音と共に硝煙が立ち込め、美濃の先鋒がたじろぐ。その隙を見逃さず、信長は馬を寄せ、彦七郎の腕を掴まんばかりの勢いで叫んだ。
「茶番は終わりだ! さあ、退くぞ。これ以上、美濃の土を俺たちの血で汚してやる必要はない!」
信長の放つ銃声と、一益が撒く煙幕が敵の視界を奪う。
織田軍は、一万七千という圧倒的な軍勢を背にしながら、まるで演習であるかのように整然と、粛々と木曽川へと退いていった。
川を渡りきり、尾張の地に足を下ろした時、犠牲者は一人も出ていなかった。
彦七郎は、振り返って美濃の空を見つめた。そこには、道三という巨星が消えた後の、重苦しい静寂だけが広がっていた。
「……負けましたな、兄上。完敗です」
「ああ、クソジジイに腹一杯、蝮の毒を食わされた。だが、死んだのはあやつだ。生きているのは俺たちだ」
信長は不敵に笑い、馬首を清洲へと向けた。
道三の死によって美濃は結束し、尾張は孤立した。そしてこの混乱を、末森の信行や林兄弟が見逃すはずがない。
「……帰るぞ。次は、身内の泥を掃除せねばならん」
彦七郎は、信長の背を追いながら、自らの内に宿る「熱」を確かめた。道三に叩きつけられた地獄を、今度は自分たちが踏み越えていく番だった。




