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弘治元年の冬。
叔父・信光の四十九日法要が、那古野城にて、城下に構える菩提寺から高僧を招き、しめやかに営まれた。
主を失った城内の喧騒もようやく落ち着きを見せ始めた頃だったが、その静寂はかえって、彦七郎の耳に不気味なほど冷たく響いていた。
読経の響きが消え、焼香の煙が冬の空へ吸い込まれていく中、彦七郎は信長の前で深く平伏した。
「兄上。叔父上を死なせたは、わが策の過ち。このまま那古野に留まれば、城内の家臣らの不満は収まりませぬ。……これより、清洲にて謹慎閉門いたします」
信長は、位牌の前に置かれた冷めた茶を見つめたまま、弟の顔すら見なかった。
「……勝手にしろ。貴様の面など、見飽きたわ」
吐き捨てるような言葉。だが、信長がその場を立ち去った後、彦七郎の手元には一通の書き付けが残された。そこには、信光の膨大な遺領を一切辞退した彦七郎への「埋め合わせ」として、清洲の蔵から自由に出し入れできる莫大な軍資金の管理権が記されていた。信長なりの、不器用な「次は負けるな」という激励だった。
末森城の織田信行や林兄弟にとって、信光の死はこの上ない朗報であった。
「信長を支えていた最大の柱が折れた。もはや清洲に、我ら末森を抑え込める力はあるまい」
彼らは密かに祝杯を挙げた。織田家一族の重鎮であり、圧倒的な軍事力を誇った信光が消えたことで、尾張の主導権が自分たちの手元に転がり込んできたと確信したのだ。
彦七郎が責任を感じて清洲城の奥に引きこもったという知らせも、彼らにとってはついでの喜びであった。あの小賢しい小僧も、主柱を失えばただの子供に戻ったのだと見なし、警戒の網を緩めていった。
だが、彼らにも計算違いはあった。信光の遺領をこの混乱に乗じて切り取る算段であったが、彦七郎が事前に手を回し、一益の手の者が迅速に城内を掌握していたため、領地を掠め取ることには失敗したのだ。
悔し紛れに、林通具らは尾張中に卑劣な噂を流布した。
「信光殿を亡き者にしたのは、他ならぬ清洲の三郎である。己の野心のため、邪魔になった叔父を謀殺したのだ」
この悪意ある流言は、保守的な国衆たちの心に深く刺さった。前田利昌が守る荒子城を始め、いくつもの城主が「身内殺しの信長には付いていけぬ」と、次々に信行側へと与力し始めたのである。
一方、閉ざされた部屋で彦七郎は、出口のない問いに苛まれていた。
表面上は静かだが、その内心は「なぜ間違えたのか」という問いで荒れ果てていた。
(なぜ、間違えた)
部屋の隅に置かれた「組み木」を、彦七郎は何度も組み直し、そして崩した。
元亀元年まで生きた記憶。坂井孫八郎という名前。十一月という月日。
正解を知っていたはずなのに、なぜ叔父上の胸には刃が突き立てられたのか。
(私は夢の記憶という正解を追うあまり、目の前の人間の顔を見ていなかったのか……。孫八郎を縛れば、別の誰かが動く。そんな単純な理すら夢の記憶という傲慢さが曇らせたのか)
冬の風が、障子の隙間から冷たく入り込む。
彦七郎は、暗い部屋で独り、自分の知略の未熟さを噛み締めていた。
このままでは、また誰かを死なせる。兄上も、そして自分自身も。
「……一益、いるか」
闇に向かって呟くと、音もなく滝川一益が現れた。
「ここに」
「……支度をせよ。これより密かに城を抜ける。向かうは末森だ」
「末森……信行様の元へ?」
「……いや、あそこにいる八郎に会いに行く」
彦七郎は立ち上がった。その瞳には、絶望の影を振り切ろうとする、鋭い武将の光が戻りつつあった。
末森城の警戒は日増しに厳重さを増していたが、今の彦七郎にとって、その網を潜り抜けるのはさほど難いことではなかった。
一益の手引きで闇に紛れ、勝手知ったる脇道を進む。忍び込むのも二度目となれば、足に伝わる土の感触や、見張りの交代時に生まれる僅かな静寂さえ、呼吸の一部のように馴染んでいた。
たどり着いたのは、末森城の最奥。世間から隔絶されたような静寂に包まれた一室だ。
そこに座していたのは、彦七郎と同じく「夢の記憶」を持つ弟、八郎であった。
彼は彦七郎とは違う。彦七郎が元亀元年の炎の中でその生を終えたのに対し、八郎はその後、織田の家がどうなったのか、老いさらばえて死ぬまで見届けたのだろう。あまりに長く、過酷な時代を最後まで歩ききってしまった彼は、今さら子供に戻ってやり直す気力など失せ、末森の奥に隠棲していた。
「……如何した、彦七。袋小路にでも迷い込んだか」
八郎は、火鉢の灰を無造作に掻き回しながら、覇気のない声で言った。その瞳には、子供らしい輝きはなく、すべてを見尽くした隠居人のような、深い諦念がある。
「八郎。私は……『正解』を知っていたはずだった。坂井孫八郎が、十一月に叔父上を殺すのだと。だから奴を縛り、警護を固めた。……なのに、なぜ叔父上は死なねばならなかった」
彦七郎は、畳を掴む指が白くなるほど力を込めた。自分は元亀まで生き、武将として戦い抜いたはずだ。その記憶があるのに信光叔父上を救えなかった。
八郎は火鉢から顔を上げ、自分より「早く死んだ記憶」を持つ兄を、慈しむように見つめた。
「彦七……お前はその『記憶』をなぞれば、万事思い通りに運ぶとでも思っていたか? 記憶を持っている自分は、運命を操る神仏にでもなったつもりだったか?」
「……何が言いたい」
「お前の記憶にある『坂井孫八郎』は、ただの結果だ。その背後で誰が糸を引き、誰が毒を盛ったか……お前の記憶はその『過程』まで正しく語っていたか? お前が孫八郎を縛ったとき、那古野の連中は『信長が叔父を疑っている』と見た。お前が作ったその隙に、別の誰かが入り込んだだけのことだ」
八郎の言葉は、冷たい水のように彦七郎の脳髄を冷やした。
「未来の記憶なんてものは、ただの古びた地図だ。雨が降れば道は泥濘に変わるし、地震が起きれば山は崩れる。お前は神仏ではない。ただ、少し先の天気を知っているだけの臆病なガキだ。……私のように余生を眠って過ごす気がないのなら、一度その記憶を忘れろ。今の空を見て、今の泥を踏んで歩け。文字にも記憶にも書いてない、今この瞬間こそが真実だぞ」
彦七郎は、目から鱗が落ちるような衝撃を受けた。
元亀までしか知らぬ自分と、その先まで見届けた八郎。その視座の差が、今の自分の「傲慢」を浮き彫りにした。
「……地図を捨て、今の空を見よ、か」
「そうだ。今回の負けは、次に生かせ。……それと、彦七、お前が変えたのは悲劇だけではないはずだぞ。少しは顔を上げて、外を見てこい」
八郎は、また興味を失ったように火鉢の灰をいじり始めた。
彦七郎は、弟の言葉に背中を押されるように、静かに部屋を辞した。
八郎との対話を終えた彦七郎は、末森城を包囲する厳重な警戒の網を、再び音もなく潜り抜けた。
冬の凍てつく空気が、今は心地良い。
「……地図を捨て、今の空を見よ、か」
独り言ちたその声は、まだ掠れていた。だが、ここへ来る前のような、出口のない暗闇に閉じ込められた感覚は消えている。
かつての自分がどれほど知識に溺れ、目の前の「人間」を軽んじていたか。八郎の、あの透徹したような眼差しが、それを容赦なく暴いてみせた。叔父を救えなかった忸怩たる思いは、未だ胸の奥で鋭く疼いている。だが、それはもはや自責の鎖ではなく、二度と繰り返さぬための重石へと変わりつつあった。
清洲城への帰路、末森城下の喧騒に紛れようとした時のことだ。
ふと見覚えのある、しかし「死んでいるはず」の背中を見つけた。
赤に近い派手な着物を纏い、一振りの刀を腰に、ふらふらと、しかしどこか楽しげに歩く若者、織田喜六郎秀孝。
(……喜六郎兄上……!?)
彦七郎は息を呑んだ。
夢の記憶では、喜六郎は天文二十四年六月、叔父・織田信次の家臣によって、守山近くの川原で誤殺されている。その死が信長と信行の対立を決定的にしたはずだった。
だが、今はもう十一月。
喜六郎は、生きている。
「あ、彦七じゃないか。元気にしてたか?」
喜六郎は彦七郎に気づくと、無邪気に笑って手を振った。
「兄上……一人で歩いておられるのですか」
「ああ。お前に『一人で馬に乗るな』と口酸っぱく言われたからな。馬に乗らず、徒歩で、かつ城の近くだけ散歩しているんだ。これなら文句なかろう?」
彦七郎は、震える膝を必死に抑えた。
叔父・信光は救えなかった。だが、自分のたった一言の忠告が、最も危うかった兄・喜六郎の命を、歴史の濁流から掬い上げていたのだ。
(歴史は……変えられる。私の手で、書き換えられるのだ)
だが、相変わらず供も連れずに歩く兄の無防備さに、彦七郎は背筋が凍る思いもした。信次の一件を凌いでも、次は誰が牙を剥くか分かったものではない。
(この兄上を、本当の意味で守り抜くには、確かな『盾』がいる。しっかりとこの兄を諌められる盾が)
彦七郎は、踵を返した。
再び闇を縫い、末森城の最奥、八郎の籠もる一室へと滑り込む。
「八郎! 頼みがある!」
「……騒がしいな。今度は何だ、彦七」
「誰か、今この時、浪人や不遇を囲っていて、将来必ず一廉の人物になる……そんな『盾』になる男に心当たりはないか! 喜六郎兄上を、今度こそ完璧に守れる男だ!」
八郎は、驚いたように目を瞬かせたあと、ふっと懐かしむような笑みを浮かべた。江戸まで生きた彼だけが知る、かつて「天下の三傑」の一人を支えた家の名だ。
「……将来の出世頭か。それなら、三河に面白い一家がいるぞ。碧海郡上野城酒井の被官に、榊原長政という男がいる。その次男は傑物になる。今のうちに手懐けておけ」
八郎からその名を聞き出すや否や、彦七郎は滝川一益を伴い、末森城を後にした。
目指すは三河碧海郡、上野城付近。そこは今川義元の勢力が浸透し、度重なる出兵と過酷な取り立てによって、武士さえもが百姓に身をやつさねば生きていけない「困窮の地」であった。
冬の冷たい雨が降りしきる中、泥濘を歩く彦七郎の前に、粗末な小屋があった。そこには、雨に打たれながら黙々と排水のための溝を掘り、石を運ぶ男たちの姿があった。
「……冬の雨の中で、あのような苦役を」
一益の呟きに、彦七郎は目を細めた。
本来なら城に腰を据え、指図をしているはずの榊原一族。だが、今川の過酷な取り立ては、彼らから武士の矜持を奪い、凍てつく泥を啜らねば生きていけぬ境遇へと追い込んでいたのだ。
「あれが、榊原長政か……」
一益の呟きに、彦七郎は頷いた。
目の前にいるのは、歴史の文字に刻まれた輝かしい武将の姿ではない。泥にまみれ、ひび割れた手で鋤や鍬を振るう、しがない「農本武士」の姿だった。
「榊原長政殿とお見受けする」
彦七郎の呼びかけに、男は動きを止め、鋭い眼光を向けた。警戒の、そして、飢えた獣のような光。
「……何奴だ」
「織田彦七郎と申す。貴殿を、一家まるごと召し抱えに参った」
長政は鼻で笑った。
「召し抱えるだと? 織田は叔父を殺し、身内で争うていると聞く。そのような泥舟に乗る気はない」
彦七郎は無言で、一益に合図を送った。一益が差し出した袋から、鈍い光を放つ「銭」が溢れ出す。今川の重税に喘ぐ彼らにとって、それは何年かかっても手にできぬほどの、圧倒的な現実であった。
「……長政殿。このまま今川に使い潰されるのを待つか。それとも、尾張へ来て我らと共に歩むか。選ぶのは貴殿だ」
長政の顔に、苦渋と野心が交錯する。その傍らで、一人の少年がじっと彦七郎を見つめていた。次男の亀丸である。
まだ幼いながらも、その瞳には驚くほどの知性と、彦七郎の覚悟を測るような胆力が宿っていた。亀丸は、彦七郎の手の汚れと、その奥にある「変えたい」という渇望を見抜いたかのように、父の袖を引いた。
「……父上。この御方は、私たちと同じ泥を踏んで歩いてこられたようだ」
長政は大きく息を吐き、鍬を地面に突き立てた。
「……承知した。この榊原長政、一家まるごと、彦七郎様に預けよう。今さら失うものなど、この泥の他には何もない」
交渉は成立した。
彦七郎は、榊原一家を伴い尾張へと戻った。彼らに与えた役割は、兄喜六郎を助けることと同時に。
父、榊原長政。
今川の冷徹な圧政の下で泥を啜り、武士の矜持を削りながら家族を食わせてきた男。その瞳には、平和な尾張の武士にはない「飢え」と、死線を潜り抜けた者特有の硬質な慎重さがあった。彦七郎は彼を、危ういほど無垢な兄・喜六郎の側付きに据えた。かつての悲劇を知る長政の眼差しは、兄を狙ういかなる微かな殺意も見逃さない鉄の防壁となるはずだった。
嫡男、榊原清政。
父の背を見、泥の中で育った青年は、影を厭わなかった。彼は那古野と清洲、そして敵意に満ちた末森をも密かに繋ぐ伝令として、暗闘の最前線を走ることとなった。
そして次男、亀丸。
彦七郎は、まだ幼いこの少年の瞳に、自分と同じ「先を見る光」を見出した。いずれ来るであろう大戦の最前線で、己が描く盤面を具現化する「最強の矛」として育てるべく、その若き才能を己の小姓として傍らに置いた。
清洲城の一室。冬の陽光が弱々しく差し込む中、彦七郎は亀丸の前に一振りの刀を差し出した。
「亀丸。お前は、今日から私の小姓だ。……これから様々な事を経験し、己が血肉とせよ。期待している」
亀丸は、まだ小さな、しかし冬の野良仕事で荒れた両手で、その重みをしっかりと受け止めた。授かった刀を抱きしめるその仕草には、子供らしい遊び心など微塵もなかった。
「……御意。この命、殿が描く道のために」
少年の静かだが鋼のように硬い声が、冷え切った部屋に響く。
叔父・信光の死という血塗られた敗北を経て、彦七郎はひとつの教訓を魂に刻んだ。
未来を知るという「記憶」の知識だけでは、誰も救えない。人を救うのは、絶望の淵で差し出す「金」であり、泥の中で結ばれる「情」であり、そして何より、「今、この瞬間の変化」を力でねじ伏せる実力なのだ。
清洲を吹き抜ける冬風は、依然として肌を刺すほどに冷たい。
だが彦七郎の胸に今までよりもちょっとだけ暖かい熱が宿っていた。




