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異聞天下布武~夢を見た信興、天下に足掻く~  作者: 松本ジョー


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 天文二十四年四月、清洲城は陥落した。


 織田信長は本拠を清洲へと移し、空いた那古野城には守山から織田信光が移り住んだ。彦七郎は信長の命を受け、那古野に留まって叔父・信光の「軍監」兼「警護」の任に就く。


 彦七郎の脳裏には、元亀元年まで生きた「夢の記憶」が刻まれている。


(……確か天文から弘治に変わってすぐの十一月だったはず。織田孫三郎信光は、寵臣・坂井孫八郎の手によってその命を散らす、と。動機は大膳への義理、あるいは一族の復讐。これほど明確な『答え』が他にあろうか)


 彦七郎は、孫八郎を四六時中監視させていた。もし奴が、清洲の残党と密談を交わすか、あるいは寝所の警護を不自然に外れるような「予兆」を見せれば、即座に一益に命じて斬り捨てるつもりだった。一太刀で終わらぬなら、暗殺の罪を着せて一族ごと根絶やしにする覚悟すらできている。


 だが、那古野の夏が過ぎ、風に冷気が混じり始めても、現実は彦七郎の期待を裏切り続け、坂井は動かなかった。


 事件まであと一ヶ月。


 彦七郎は、那古野城の一室で独り、白黒の碁石を盤に並べていた。


「……一益、奴の昨日の動きは」


「左様。城下の砥ぎ師の元へ赴き、己が刀を念入りに研がせておりました。その後、紙屋にて手紙用の懐紙を数帖、買い求めております。……いずれも武士の嗜み、綻びとは言えませぬ」


 一益の冷徹な報告に、彦七郎の指が石を強く弾く。


(研いだと? 十一月の凶行を前に、己の刃を仕上げたというのか。懐紙は……大膳への密書を認めるためか?)


 さらに一益は言葉を継いだ。


「昨夜は若衆らと酒を酌み交わしておりました。清洲から来た我ら警護の者を『信長の犬が監視している』と毒づく者が数名。……ですが、孫八郎は『彦七郎様は殿を案じておられるだけだ。無体な物言いは慎め』と、座をなだめて終わっております」


 彦七郎は、盤上の黒石を指先でなぞった。


(……なだめた? 敵意を隠すための擬態か。それとも、周囲を油断させるための偽善か……)


 一益の冷徹な報告が、彦七郎の焦燥を煽る。


 孫八郎の瞳に宿っているのは、大膳への忠義ではなく、信光への純粋な心酔にしか見えない。


(なぜだ? なぜ動かない。私の知る歴史が間違っているのか? それとも、奴の演技が神懸かっているのか……)


 十月の冷たい風が、広間の隙間から忍び込む。


 彦七郎は、孫八郎という男を鏡越しに覗き込んでいるような感覚に陥っていた。見れば見るほど、犯人像という「絵」がぼやけていく。


(坂井という名字。大膳と同じ血筋。これ以上の証拠が必要か? いや、犯人は奴だ。奴でなければならない。そうでなければ、叔父上を救う道筋が、盤面から消えてしまう)


 「未来を知る」という全能感は、いつしか「犯人を仕立て上げなければ、勝機はない」という強迫観念にすり替わっていた。彦七郎の思考は、理詰めの推論ではなく、結論という完成図に合わせ、無理やり組み木を削るような危うい作業へと変質していった。


「……一益。奴が動かぬなら、こちらで動くしかない。……『坂井大膳からの密書』を、奴の邸に忍ばせろ。内容は何でもいい。清洲奪還の約束、あるいは金子の授受。……それを理由に、奴をこの城から、叔父上の側から物理的に排除する」


 滝川一益は、主の瞳に宿った暗い熱に一瞬だけ眉を動かしたが、短く「御意」とだけ答えた。


 彦七郎は無理やり歴史の筋書きを繋ぎ合わせようとしていた。


  霜月が迫る夜、彦七郎は一益に短く命じた。


「……やれ。これ以上、奴を自由にさせておく危険は冒せん」


 一益は音もなく孫八郎の屋敷を包囲し、文箱の底から「仕込んでおいた」大膳の密書を突きつけた。


「坂井孫八郎。大膳への内通、明白なり。……引け」


 孫八郎の叫びは、夜の闇に飲み込まれた。


 翌朝、那古野城の空気は一変していた。廊下ですれ違う家臣たちの視線は、針のように冷たく彦七郎を刺す。


「信長様は、ついに叔父上を孤立させる気か」


「忠臣を無実の罪で捕らえるとは、彦七郎様も、兄上に似て狂われたか」


 その囁きを無視し、彦七郎は座敷牢の孫八郎を見下ろした。


 やつれた男の嘆願を、彦七郎は「歴史という定石」で遮断する。


(罪のない男を陥れる罪悪感はある。だが、叔父上の首が飛ぶよりは、座敷牢で恨まれる方が数倍マシだ。……そうだろ、孫八郎?……お前がどれほど叫ぼうと、私はお前の手を血で汚させはしない。……これで、歴史は変わるはずだ)


 牢の奥深く、無実を訴えながら絶望に沈む孫八郎。その様子を「これで詰んだ」と冷たく見下ろす彦七郎。


 彼が一点を凝視すればするほど、その背後の「空白」、林通具という本物の毒が忍び寄る隙間が、致命的なまでに広がっていることに、彼はまだ気づいていなかった。皮肉にも、彦七郎が孫八郎を「不当に」捕らえたことが、林一派に「主君の寵臣を救う」という大義名分を与えてしまったのだ。


 城内では「信長様は、叔父上を監視し、いずれ始末するために彦七郎様を置いたのだ」という噂が、毒のように回っていた。


 だが、当の信光だけは、彦七郎の真意を見抜いていた。


「彦七、気にするな。お前がこれほど必死に立ち回るのは、わしの命を案じてのことだろう。妻子にも、お前を信じろと言い含めてある。……だがな、案じすぎるのは毒だぞ」


 信光の温かな言葉に、彦七郎は一瞬だけ安堵した。孫八郎は牢の中だ。これで悲劇は防げる。


 その夜。那古野の廊下を歩いていた彦七郎の足が止まった。


(……待てよ。あの時の孫八郎は、なぜ叔父上を殺したんだ? 単独犯だったのか? もし、誰かに唆されていたとしたら……!?)


 その瞬間、闇を切り裂く悲鳴が響き渡った。


「孫八郎殿を解放せよ! 信長の専横を許すな!」


 林通具が扇動した暴徒たちが、孫八郎の救出を名目に乱入したのだ。彦七郎が現場へ駆けつけると、信光が丸腰で立ち塞がり、興奮する家臣たちを説得していた。


「皆、落ち着け! これは三郎の真意ではない。孫八郎のことは俺が……」


 騒動の渦中、家臣に紛れていた暗殺者が動いた。鋭い刃が信光の背後から迫る。一益のクナイが暗殺者の腕を弾き、一党が即座に制圧にかかる。


 失敗を悟った暗殺者の瞳に、捨て身の狂気が宿った。


「せめて、化物の片割れだけでも……!」


 標的は、信光ではなく、傍らにいた彦七郎へと向けられた。


「彦七、危ない!」


 叫びと共に、視界が反転した。


 信光が小さな彦七郎を力一杯突き飛ばし、その体に刃を受けたのだ。


「叔父上ぇぇぇ!!」


 一益たちが暗殺者を斬り捨て、騒乱を制圧した。だが、静まり返った広間には、鮮血の匂いだけが充満していた。


 血に染まる畳の上で、彦七郎は叔父を抱きかかえた。


「……叔父上、なぜ……。私の、私の策が甘かったばかりに……!」


 瀕死の信光は、震える手で彦七郎の頬を撫で、弱々しく笑った。


「気にするな……彦七。……兄上と共に戦った日々も、三郎や……お前と共に駆けたこの一年も、実に楽しかった。……那古野は、我が嫡男ではなく、三郎とお前に譲る。……まずは、尾張を一つにせよ。その先へ……さらに羽ばたけ。……兄上の……夢を……」


 その言葉を最後に、織田家最大の功労者・信光の手から力が抜けた。



 一益の急報を受け、清洲から馬を飛ばして駆けつけた信長が、扉を蹴り開けた。


 冷たくなった叔父の亡骸と、茫然自失として立ち尽くす彦七郎。


 信長は無言で彦七郎に歩み寄ると、その頬を力一杯殴り飛ばした。


「……いつまで座り込んでいる、彦七!」


「兄上……私は……私のせいで……」


「叔父貴は、わしとお前にこの城を、尾張を託したのだ! 泣いて済むなら叔父貴は死なぬ! 直ぐに動け。叔父貴の死を、ただの無駄死ににさせるつもりか!」


 信長の激昂は、弟への期待と、大切な身内を失った悲しみの裏返しであった。その怒声に、彦七郎の思考が強制的に熱を帯びる。


 一益が、倒れた刺客の懐から「林の関与」を示唆する物証を見つけ、彦七郎に差し出そうとした。だが、彦七郎はそれを手で制した。


(……今、林や信行を糾弾しても、証拠は不十分。内乱を長引かせれば、叔父上の望んだ『尾張一統』が遠のくだけだ。今はまだ、その時ではない)


「一益、黒幕を追うのは後だ。まずは叔父上の領地と兵を掌握し、下四郡を完全に統べる。……敵に、叔父上の死を喜ぶ暇など与えぬ。清洲と那古野を合わせ、織田の真なる力を世に知らしめるぞ」


 叔父の血で汚れた手を固く握りしめ、彦七郎は立ち上がった。


 悲劇は防げなかった。ならば、それすらも糧にして、この乱世を食い破る。


 那古野の夜風が、冷たく、そして鋭く吹き抜けていった。

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