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安食の戦いから八ヶ月。
尾張の中心、清洲城は音もなく死に体となっていた。彦七郎が献じた策は、力攻めを避けた「徹底的な孤立化」であった。
「力攻めは今川を利するだけ。清洲を尾張から切り離し、腐らせるのです」
信長は尾張の国衆へそれぞれ大義を説き、清洲との商いを禁じ、兵糧の流入を完全に断った。東に今川という巨虎が控える今、身内同士の消耗戦は愚策。かつての守護代の居城は、今や巨大な食い詰め者の巣窟となり果てていた。
那古野城の一室で、織田孫三郎信光は坂井大膳からの密書を畳に叩きつけ、豪快に笑った。
「清洲城の半分を譲るだと? 泥舟の船頭が、最後の一あがきに私を道連れにしようというわけか。くかか、大膳め、そこまで追い詰められたか!」
その場にいた彦七郎は、背筋に鋭い冷気が走るのを感じた。夢の記憶の通りだ。この誘いに乗れば、信光は清洲に入城し、奪取するが、その後、暗殺される。
「……叔父上、なりませぬ。これは見え透いた罠です。清洲に入れば、大膳は必ず刺客を放ちます。今は静観し、城を干殺しにするのが上策にございます」
十一歳となった少年の、必死な、そしてあまりにも正確な諫言。だが、信光は目を細め、ぎらついた「憧憬」を隠そうともしなかった。
「彦七よ。お前は賢いが、武士の『血』というものを分かっておらん。……かつて、わが兄・信秀公が那古野城を奪い取った時のことを知っているか? 敵の懐へ悠然と入り込み、内側から城ごと飲み込んだあの鮮やかな手際。私は、あの兄上の背中に、どうしても追いつきたいのだよ」
信光にとって、これは単なる領地拡大ではなかった。偉大な兄・信秀への、一族としての強烈な対抗心と憧れが、この男を突き動かしていた。
「ですが叔父上、死んでは元も子もありませぬ。成功の確証がどこに……」
食い下がる彦七郎の言葉を遮るように、傍らで梨をかじっていた信長が、愉快そうに鼻を鳴らした。
「くかか! 良いではないか彦七。叔父貴の目がこれほど輝いているのは久しぶりに見たぞ。……どうだ叔父貴、その大博打、わしが張ってやろうか?」
「三郎! お前なら分かってくれるか。……よし、決めたぞ。もし俺が大膳を追い出し、清洲を完全に手中に収めたあかつきには、その清洲城、お前に進呈してやろう!」
「なっ……! 叔父上、何を仰るのですか!」
彦七郎の驚愕をよそに、信長はニヤリと笑い、平然と答えた。
「ほう。清洲をわしに、か。……彦七、こういう時は遠慮なく頂いておくのが礼儀というものだ。……よかろう叔父貴、その心意気、しかと受け取った。ならば、清洲をわしにくれたあかつきには、わしからこの『那古野城』を叔父貴に進呈しよう。親父が愛し、叔父貴が焦がれた、弾正忠家始まりの城だ」
「那古野を……俺に!?」
信光の顔が、歓喜に震えた。かつて兄が拠り所とし、今は信長が居城とする、織田家飛躍の象徴。
「……三郎、お前という奴は……。よかろう! 必ずや清洲を分捕ってみせる。彦七、見ておれ。叔父の一世一代の『城盗り』をな!」
高笑いと共に部屋を去る信光。その後ろ姿を見送りながら、彦七郎は拳を白くなるほど固く握りしめた。
(……叔父上、那古野城が大きな墓標になってしまう。……兄上、なぜ煽るのです……)
信長は、彦七郎の焦燥を見透かしたように、冷たい白湯を一口飲み、呟いた。
「……彦七。男が死に場所と決めて駆け出した時、それを止めるのは、武士の情けではない。……守りたければ、裏で泥を啜ってでも、叔父貴に届かぬ刃を叩き落としてみせろ。それが貴様の仕事だろうが」
信長の瞳は、弟に過酷な「試練」を与えたのだった。
清洲城入城後、信光は機を逃さなかった。
南櫓の奥まった一室、坂井大膳が挨拶に訪れるはずのその場所に、信光は息を潜めた手下たちを配し、手ぐすね引いて待ち構えていた。かつて兄・信秀が那古野城で見せた、あの鮮やかな「内側からの奪取」を再現せんとする、不敵な笑みがその口元に浮かぶ。
しかし、大膳もまた戦国の荒波を泳ぎ抜いた老猾な獣であった。
廊下を進む大膳の足が、ふと止まる。微かな衣擦れの音か、あるいは差し込む陽光がわずかに揺れたか。大膳は信光の部屋を目前にしながら、表情一つ変えずに踵を返した。
「……何かが違う。孫三郎め、狸の皮を被りきれておらぬわ」
大膳は一兵も交えることなく、まるで煙のように清洲城から脱出し、そのまま行方をくらませた。
「逃げたか、大膳め! 鼻の利く奴だ」
伏兵の露見を悟った信光だったが、その瞳に落胆はなかった。もはやこの城は、彦七郎が八ヶ月かけて仕掛けた「徹底的な孤立化」によって、枯れ木も同然の状態にある。
「だが、もはやこれまでよ。これよりは力で捻じ伏せるまで! 三郎へ合図を送れ。清洲を、我らがものとするぞ!」
信光の号令と共に、城門が開け放たれる。
城外で待機していた信長勢が、地響きのような咆哮とともに雪崩れ込んだ。
「清洲の土を、那古野の風で塗り替えよ!」
先頭を切るは、猛将・森可成。外からは信長の黒き軍勢、内からは信光の精鋭。挟み撃ちにされた城兵たちは、飢えと恐怖で戦意を喪失し、次々と武器を投げ出した。
逃げ場を失った守護代・織田信友は、先代の栄華を誇った奥の間にて、震える手で脇差を握りしめていた。だが、障子を蹴破って現れた森可成の巨体と、その背後に立つ信長の冷徹な眼光に、声すら出なかった。
「……信友、貴様が座るには、この城は広すぎたようだな」
信長の宣告と同時に、可成の剛剣が一閃。
尾張の主として君臨し続けた織田大和守家の血が、清洲の畳を黒く染めた。
天文二十四年。
ついに尾張の中心・清洲城は陥落し、信長はその天守に、弾正忠家の旗を高く掲げたのである。
那古野が清洲奪取の祝杯を挙げている頃、末森城の一室は、澱んだ湿気と焦燥に支配されていた。
織田信行は青白い顔で座り込み、その傍らで家老・林佐渡守秀貞が苦い表情で沈黙を守っている。
「……三郎兄上は清洲を手に入れ、叔父貴は那古野に入った。もはや、差は開くばかりではないか。……権六も、安食から戻って以来、牙を抜かれた犬のようだ。佐渡、私はこのまま、あの『大うつけ』の兄に殺されるのを待つだけなのか?」
信行の震える声に応えたのは、秀貞ではなく、末席から身を乗り出した男だった。
林秀貞の弟、林美作守通具である。その目は、絶望を通り越して獲物を狙う獣のように血走っていた。
「殿、兄上。……存外、権六殿は意気地がありませぬな。武勲のみを尊ぶ猪武者には、この難局は乗り越えられませぬ。この期に及んでは、もはや大胆な手を打つしか道はございませぬぞ」
通具の不敵な言葉に、秀貞が眉をひそめて窘める。
「通具、滅多なことを申すな。我らはあくまで織田の正道を……」
「正道? 笑わせるな、兄上! 今や三郎は下四郡の大部分を治め、一方我らはこの末森周辺だ。このまま手をこまねいては正道もろとも首を跳ねられるだけだ!」
通具は畳を叩き、信行に詰め寄った。
「……三郎を殺すか。さもなくば、その後ろ盾である孫三郎を殺すのです」
部屋の温度が凍りついた。信行は息を呑み、秀貞は深いため息とともに目を伏せる。
「……叔父上を殺せと申すか。一族を、暗殺で……」
「渋っている暇はございませぬ! 孫三郎殿を暗殺し、その混乱に乗じて守山も含め、那古野の兵と領地を丸ごと横領するのです。清洲と那古野に割れた三郎の軍勢など、数で圧倒すれば一捻り。……そうすれば、織田の家督は自ずと殿の御手に転がり込みましょう」
通具は、唾を飛ばしながら熱弁を振るう。
信光の寵臣・坂井孫八郎に坂井大膳の仇討ちを吹き込み、実行させる。
「……だが、もし露見すれば」
信行が弱々しく問う。通具はニヤリと、暗い悦びに満ちた笑みを浮かべた。
「露見せぬよう、私がすべて仕切りましょう。殿はただ、知らぬ顔で末森におわすだけでよいのです」
信行は、その毒のような提案に、沈黙をもって応じた。秀貞もまた、末森の滅亡を避けるための「必要悪」として、異を唱えることをやめた。その瞬間、末森城の広間には、もはや引き返せぬほど濃い「死の影」が落ちた。
かつて父・信秀が築き上げた弾正忠家の結束は、清洲という巨大な果実を手に入れた瞬間に、最悪の形で崩壊を始めたのである。
叔父・信光の無邪気なまでの歓喜。
兄・信長の試練とも取れる冷徹な静観。
そして、運命を変えようともがく少年・彦七郎の暗躍。
それらすべてを嘲笑うかのように、林美作守の放った刺客の足音が、那古野の城門へと忍び寄っていた。




