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異聞天下布武~夢を見た信興、天下に足掻く~  作者: 松本ジョー


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 安食の野で三十余名の有力家臣を失った清洲城内は、まるでお通夜のような沈んだ雰囲気で静寂に包まれていた。


 守護代・織田信友は、震える手で脇差の柄を握りしめたまま、奥の間に座り込んでいる。その目の前で、又守護代と呼ばれている坂井大膳が血走った眼を地図に叩きつけていた。


「……長槍だと? あの『うつけ』がもてあそんでいた玩具に、わが精鋭がなす術なく貫かれたというのか!」


 大膳の震える声が、人気の消えた廊下に虚空に響く。


 河尻、雑賀、織田三位……清洲の屋台骨を支えた宿老たちは、もはやこの世にはいない。生き残った城兵の口から漏れるのは、返り血を浴びて笑う「浴衣姿の死神」と、間合いを許さぬ「三間半の長槍」への恐怖ばかりであった。


「大膳……もはやこれまでか。那古野の軍勢が押し寄せれば、この城は半日も持つまい」


 信友の弱音に、大膳は獣のような歯を剥き出しにして振り返った。


「馬鹿なことを! 槍が長かろうが、所詮は三郎一人の力。織田弾正忠の家はいまだ、ひび割れた茶碗も同然にございます!」


 大膳の指が、地図上の「末森」と「守山」を強く叩いた。


「那古野の三郎に家督を奪われたと歯噛みしている勘十郎がおります。そして、三郎の叔父でありながら、当主と同等の兵力を持ち、今や三郎の背後を支える守山城主・織田孫三郎信光……。この二人が『三郎を討つ』と動けば、三郎は一夜にして孤立いたします」


 大膳の瞳に、暗く濁った謀略の火が灯る。


「……信光を釣るのです。清洲城の半分を譲るとでも言えば、あの強欲な叔父は必ず動く。勘十郎には『兄を排し、真の家督を継げ』と唆せばよい。那古野の三郎が外を向いている今こそ、内側から食い破ってくれるわ!」


「清洲の半分を……信光に?」


「城を半分失っても、命まで失うよりはマシにございましょう! 奴らが仲間割れを始めれば、死神も長槍も、ただの笑い草になりまする」


 大膳は不敵に笑ったが、その額には嫌な汗が滲んでいた。


 清洲城は、もはや尾張の中心ではなく、巨大な墓標へと変わりつつある。


 坂井大膳は、その墓標の中に、三郎信長という怪物を道連れに引きずり込もうと、最後の呪詛を編み始めていた。



 一方、清洲の焦燥をよそに、那古野城では戦勝の祝宴が静かに、しかし熱を持って行われていた。


 広間には、安食の野で目覚ましい武功を挙げた将たちが並んでいる。


「皆、大義であった! 由宇喜一、浴衣一丁で三位を討ち取ったその勇気、あっぱれよ。清洲の腰抜けどもに、斯波の意地を見せつけてやったな。褒美として、我が秘蔵の太刀を一振り遣わす!」


 信長の豪快な声に、若武者・喜一が震えながら平伏する。続いて信長は、滝川一益と森可成にも、所領の加増と感状を直々に手渡した。末森勢の柴田勝家らにも、その長槍の運用を高く評価し、敵味方の別を問わぬ公平な恩賞が与えられた。


 論功行賞が一段落し、将たちが酒宴の膳に並ぶ酒の香りに顔をしかめる中、信長は一人、冷えた白湯を喉に流し込んでいた。彦七郎は、兄が次の梨に手を伸ばした時、別室に行きましょうと声をかけた。


「兄上。安食の勝利、改めておめでとうございます。ですが、真の収穫は首級の数だけではありません」


「ほう、他にもあるのか」


 信長が梨を一切れ口に放り込むと、彦七郎は声を潜めて言った。


「柴田権六殿を、こちら側に引き込みました。 彼は今後、勘十郎兄上の側にありながら、我らのために動く内応者となります」


 信長が、危うく梨を喉に詰まらせそうになった。


「……あの権六をか? あの男の頑固さは、清洲の石垣より硬いぞ。力で屈服させたわけではあるまい。一体、何を握った。……金か? それとも、女か?」


 信長がニヤリと、どこか楽しげに目を細める。彦七郎は、勝家との約束を思い出し、表情を変えずに首を振った。


「……それは、武士の情け。墓まで持っていくと約束いたしました。ただ、彼には織田弾正忠家と勘十郎兄上の現状、どちらがより当主として相応しいかを蕩々と語り合ったまで。……まぁ、このまま行けば兄上の勘気に触れ、末森が灰になるとは申しましたが」


 彦七郎は、まるで明日の天気を語るような平然とした口調で、身内を皆殺しにする脅しをかけたことを告げた。


 信長は、口に含んでいた梨をあやうく吹き出しそうになり、むせ返った。


「げほっ! ……貴様、さらりと非道なことを抜かすな。末森を灰にするだと? まるで血も涙もない鬼の言い草ではないか。わしですら、そこまで言わんぞ」


「あら、兄上の代弁をしたまでですよ。兄上ならやりかねない……いえ、合理的であれば必ずそうなさると、権六殿も確信しておいででしたから」


 彦七郎は小首を傾げ、いかにも子供らしい無垢な笑みを浮かべる。だが、その瞳の奥には、すべてを計算し尽くした冷徹な光が宿っている。


「……くかか! お前、そのツラでそんなことを……。お前の方がよほど化け物だわ!」


 信長は笑い転げながら、彦七郎の頭を大きな手でわしづかみにし、ぐりぐりと乱暴に撫でまわした。


「痛いですよ、兄上。髪が乱れます」


「やかましい! 権六を震え上がらせて味方につけるなど、十歳のガキがやることか。お前、本当に中身は入れ替わっておらんのか? どこかの古狸が化けておるのではないか?」


「失礼な。私はいたって真面目な兄上の軍監ですよ」


 信長は「やれやれ」と肩をすくめ、手元の梨を一切れ、彦七郎の口に強引に突っ込んだ。


「食え! 毒を吐きすぎるから口直しだ。……しかし、面白い。権六が内側にいれば、末森の牙は抜けたも同然よ。彦七、その『人の皮を被った魔物』のような知恵、これからもわしのために存分に振るえ。ただし、わしまで灰にするなよ?」


「……それは、兄上次第ですね」


 彦七郎が梨を咀嚼しながらニヤリと笑い返すと、信長は一瞬だけ呆然とした顔を見せ、次の瞬間、これまでで一番大きな声で笑い声をあげた。


 彦七郎が信長とじゃれ合っていると、影のように滝川一益が現れ、平伏した。


「大殿、彦七郎様。梁田政綱より東海道における驚天動地の報にございます。」


 梁田政綱、かつて山口教吉として信長に挑み、敗北の淵で彦七郎に拾われ、死んだことにして名を変えた男である。梁田は東海道に深く沈み、今川の情勢を探る、織田家の「目」となっていた。


「……甲斐の武田、相模の北条、そして駿河の今川。この三国が互いに嫡男と娘を娶わせ、強固なる同盟を結びましてございます」


 甲相駿三国同盟。


 彦七郎の脳裏に、夢の記憶が鮮やかに浮かび上がる。武田は信濃へ、北条は関東へ。そして ……


「今川義元は、背後の憂いを断ち、三河、そしてこの尾張へと牙を剥く構えですな」


 彦七郎の言葉に、信長はフンと鼻を鳴らした。


「太原雪斎の差配か。癪だが、見事な采配よ。これで今川の目は完全に西に向いたというわけだ。……だが彦七、今川よりも先に、美濃のうるさいジジイから文が届いているぞ」


 信長が放り投げたのは、斎藤道三からの書状であった。


「蝮殿が隠居を決めおった。家督を嫡男の高政に譲り、自身は鷺山城へ退くという。……それでな、『一度でよいから彦七郎を美濃へ寄こせ』と、再三せっつかれておるのだ」


 信長の目は笑っていなかった。道三が彦七郎に、ただならぬ関心を示している。


「……行かぬ方が良いでしょう。道三殿は、私を呼び出し、口を封じるつもりかもしれません」


「口封じだと? なぜだ」


「先日、美濃の竹中半兵衛に伝えたのです。……道三殿は、美濃の国盗りを真に完成させるため、わざと高政殿に殺されるつもりではないか、と」


 信長が眉をひそめる。「殺される? あの合理の塊のようなジジイがか」


「はい。高政殿は土岐の血を引くという自負を持ってます。だがそれはわざと道三殿が流した噂だったら……」


 斎藤高政の母は、美濃の前国主である土岐頼芸の愛妾深芳野を、道三が望んで迎えたと言われている。しかしその時には既に子を孕んでいたとか。高政殿が道三殿とは似つかない六尺五寸もの体躯を誇っていることも道三殿の血を引いていないとの根拠となっていた。


「道三殿は、自身という『下克上の象徴』を息子に殺させることで、斎藤家による美濃支配の業をすべて背負って逝くつもりなのでしょう。……道三殿は、私がその企みを見抜いたことに気づいた。それを確かめ、余計な知恵をこれ以上広めぬよう、私を始末する気かもしれません」


 彦七郎は静かに茶を啜り、続けた。


「道三殿は面白いお方ですが、斎藤家の物語に付き合う義理はありません。行けば生きて那古野の土を踏めぬでしょう。……兄上、今は清洲を完全に腐らせることに集中すべきです。今川の西進も、そう遠い日の話ではありませんから」


 信長は、しばし沈黙した後、ガハハと喉を鳴らして笑った。


「くかか! 実の親子の殺し合いを『完成』と呼ぶか。彦七、貴様の方がよほど蝮よ。……よかろう、美濃へは『安食の戦いでの傷が癒えぬため静養中』とでも返しておいてやる。蝮の毒に当たるのは、まだ先でよいわ」


 夜も更け、那古野城を包む空気はしっとりと重みを増していた。


 滝川一益が闇に消えた後も、広間には切り分けられた梨の甘い香りと、冷えた白湯の器だけが残されている。


 遠くで鳴り響く寄辺ない夏の虫の声は、まるで安食で命を散らした兵たちの嘆きのようでもあり、あるいはこれから東から押し寄せる今川の軍勢の足音のようにも聞こえた。


「……三国同盟に、蝮の隠居か。退屈せぬ夏になりそうですね、兄上」


 彦七郎がふと外の闇に目をやると、信長は空になった器を畳に置き、満足げに一つ、大きなあくびをした。


「退屈など、うつけのすることよ。彦七、明日からは清洲をじわじわと締め上げていくぞ。……それにお前が蒔いた権六という種、どう芽吹くか見ものだな」


 信長はそう言うと、立ち上がり際に乱暴に、だが慈しむように再び彦七郎の頭を撫でた。


「夜風が冷える。化け物でも、風邪くらいは引くのだろう? 早く寝ろ」


「……兄上こそ。梨の食べ過ぎでお腹を壊しませぬよう」


 軽口を叩き合う二人の間に、庭先を吹き抜けた一陣の夜風が通り過ぎてゆく。


 一方、暗闇に沈む清洲城では、坂井大膳が血走った眼で守山城の方角を睨みつけていた。


 織田大和守家はもはや風前の灯火。明日をも知れぬ命を繋ぐため、いや、この状況から大逆転で勝利するために、大膳は起死回生の策謀を実行に移そうとするのだった。

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