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天文二十三年、夏。
清洲城の守護・斯波義統が逆臣の手によって討たれ、尾張の情勢は一気に沸騰した。
那古野の織田信長は、即座に弔い合戦の陣触れを下す。清洲へ至る道筋にて、迎撃に出た清洲勢と激突するのは明白であった。
「……三郎様! 何卒、この弔い合戦の先鋒、わが主・信行様率いる末森勢にお任せいただきたい!」
那古野城の大広間。末森勢の家老、林佐渡守秀貞が平伏して叫んだ。その声は震えていた。
若武衛様を鮮やかに救出した彦七郎、そして主君の仇討ちという大義を得た信長。このまま清洲を落とせば、家中での信長の優位は揺るぎないものとなる。末森派にとって、この合戦での武功は、家督相続の望みを繋ぐための「最後の命綱」であった。
信長は、上座で面倒そうに欠伸をした。その隣には、救出されたばかりの岩竜丸が、緊張した面持ちで座っている。
「……先鋒だと? 佐渡、末森にそれほどの気概があったか。……よかろう、好きにせよ。わしは若武衛様のご機嫌伺いで忙しいのだ。戦は末森だけで終わらせてみせよ。彦七、貴様は軍監として付いて行け!」
信長は鼻を鳴らし、全ての権限を投げ出すように言い放った。林の顔に安堵の色が走る。だが、その背後に控える彦七郎は、兄の瞳の奥に冷めた観察の光があるのを見逃さなかった。
織田の軍勢は、清洲城の外堀の内側、山王社周辺へと雪崩れ込んだ。中市場と呼ばれる町一帯が、最初にして最大の激戦地となる。
清洲から押し寄せた織田信友勢と対峙する末森勢の陣に、信長の姿はなかった。
そして、それ以上に深刻なのは、先鋒の総大将であるはずの織田勘十郎信行の姿もなかったことである。
「……勘十郎兄上は? まさか、この期に及んで城を出ぬのか」
軍監として末森の陣を訪れた彦七郎が問うと、陣頭に立つ大男が重々しく目礼を返した。
柴田権六勝家。後に「鬼柴田」と恐れられる、末森勢最強の宿将である。
「信行様は急な御不例。某、柴田権六が名代を務めまする」
勝家の声は低く、そして冷たかった。彼は十歳の彦七郎を一瞥したが、その瞳には何の期待も映っていない。ただの「うつけの弟」であり、監視役として送り込まれた「余計な荷物」…勝家の目礼には、そのような徹底した軽視が込められていた。
彦七郎は心中で苦笑する。
(……今はそれでいい、柴田殿。だが、貴殿が末森に殉じるのは、信行兄上への忠義ゆえか。それとも……)
「一益、可成殿。兄上は本陣で若武衛様と茶を飲んでいる。ここは我らが『軍監』としての仕事を果たさねばなるまい」
傍らに控える滝川一益と、信長から借り受けた猛将・森可成が頷く。
彦七郎は、泥の箱庭ではない、血と鉄の匂いが漂う本物の戦場を見据えた。
「……柴田殿。この中市場の狭い通り、そして山王口。ここで清洲勢を粉砕せねば、泥沼の市街戦となります。……例の『得物』、出し惜しみは無用です」
彦七郎の言葉に、柴田勝家は不敵に口角を上げた。
先頭に立つ柴田勝家の軍勢が手にしていたのは、織田家中で「うつけの長すぎる玩具」と揶揄されていた、三間半の長槍であった。
「……信長様が編み出しつつあったあの長槍、まさかこれほどまでの代物とは」
軍監・彦七郎の傍らで、森可成が息を呑んだ。
信長が「これからは槍の長さが勝敗を決める」と豪語し、試作させていた長槍。多くの将が「重すぎて使い物にならぬ」と冷笑する中、潜在的な敵であるはずの柴田勝家だけは、その有用性をいち早く見抜いていた。
「引くなッ! 穂先を揃え、壁を作れ! 敵の槍が届かぬ場所から、ただ叩き潰せッ!」
勝家の怒号が響く。彼は、信長が理論として掲げていた長槍戦術を、実戦の泥の中で瞬時に最適化してみせた。
清洲勢の二間半の槍が空を切る。その一間先から、勝家率いる末森勢の穂先が、容赦なく清洲兵の頭蓋を、喉元を、具足を粉砕していく。
勝家は、信長の「狂気」とも取れる発想を、己の「武」によって完璧な「戦術」へと昇華させ、清洲軍を圧倒的な暴力で蹂躙したのである。
中市場から安食村へと敗走する清洲勢。だが、そこには彦七郎が事前に仕掛けた「罠」が待ち構えていた。
彦七郎は滝川一益を使い、主君を殺された屈辱に震える斯波家の遺臣たちを密かに迂回させ、安食の要所に伏兵として配置していたのである。
「軍監殿、あれは……斯波の者たちか!」
驚く森可成に対し、彦七郎は冷徹に頷いた。
「彼らには『仇討ち』という名の飢えがあります。敵が最も油断する退路こそ、彼らが牙を剥くべき場所です」
混乱する清洲勢の前に、一人の若武者が躍り出た。
由宇喜一、十七歳。
驚くべきことに、彼は鎧すら着けず、夏の夕涼みにでも行くような浴衣姿の軽装であった。
「……おのれ、逆賊ども! 我が主、義統様の無念、その首をもって購えッ!」
喜一の動きは、鎧の重みに縛られない分、獣のように速かった。
清洲城家老・織田三位が驚愕して太刀を振るうが、喜一はそれを紙一重でかわすと、浴衣の袖をなびかせながら懐へと飛び込んだ。
「遅いッ!」
白刃が閃く。喜一の刀が、織田三位の首を鮮やかに跳ね飛ばした。
浴衣に飛び散る返り血。その凄絶な姿に清洲勢は「死神が現れた」と戦慄し、防衛線は完全に崩壊した。
勢いに乗る織田軍は、誓願寺前で防ごうとする清洲勢を次々と粉砕した。
一益の狙撃が指揮官を射抜き、可成の十文字槍が隙を突く。河尻左馬丞、雑賀修理、原、八板、高北、古沢七郎左衛門、浅野久蔵……。清洲を支えてきた柱石たちが、次々と戦場の泥に沈んでゆく。
三十余名の有力家臣を失った清洲勢は、もはや組織的な抵抗力を失い、坂井大膳は孤立無援の境地へと追い込まれたのである。
戦後、血の匂いが立ち込める陣屋。柴田勝家は、ただの「うつけの弟」だと侮っていた彦七郎が、軍師としての底知れぬ才を見せたことで、その場に膝をつき、深く頭を下げていた。
「……見事な采配にございました、彦七郎様。……これで、信行様も、そして土田御前様も、さぞやお喜びになられましょう」
彦七郎は、ふと目を細めた。勝家の口からは、あまりにも頻繁に、そして祈るような熱を帯びて「母」の名が出る。
「……柴田殿。貴殿は、先ほどから義母上のことばかり案じておいでだ。……もしや、貴殿、義母上に『気』があるのではないですか?」
「なっ……! 滅相もございませぬ! 某はただ、織田の家と、御前様の安寧を……! ひ、控えめに申しても、あのような高貴な御方に、某ごときが……っ!」
剛勇無比な「鬼柴田」が、目に見えて動揺し、巨体を震わせて目が泳ぎ、まさに挙動不審になり始めた。顔は返り血よりも赤く染まっている。
(……確定だ。この男、義母上に惚れているな)
彦七郎は確信を持った。この「弱点」こそが、最強の楔になる。
「柴田殿、落ち着きなされ。……今、貴殿の主である勘十郎兄上は、那古野に挨拶すら来ず、末森の奥で震えておいでだ。一方、三郎兄上はどうだ。長槍を編み出し、自ら泥にまみれ、清洲を追い詰めている。……この才の差、貴殿も武士なら分かっているはずだ」
勝家は唇を噛み、沈黙した。
「現状を見なされ。末森勢がどれほど足掻こうと、もはや織田の家督は三郎兄上の手にある。林殿たちが描く『勘十郎兄上への相続』など、もはや夢物語に過ぎない」
「しかし……しかし、土田御前様が……。あのお方は、信行様こそが織田の正統であると信じておられるのだ! 某が裏切れば、御前様は悲しまれる……!」
勝家の抗弁は悲痛だった。彼にとって、土田御前の笑顔を曇らせることは、死よりも耐え難い。
「柴田殿、貴殿は三郎兄上の気性を知っているはずだ。兄上の『合理』は、時に残酷だ。反逆者に対しては、身内といえど容赦はしない。このまま勘十郎兄上が謀叛を続ければ、三郎兄上は末森を灰にし、反逆の象徴である義母上をも……厳しい処罰に処すだろう。……貴殿は、義母上が幽閉され、あるいは命を落とす姿を見たいのか?」
「……っ!」
勝家の瞳に絶望の色が走る。彦七郎はその懐に、静かに毒を、いや甘い救いを忍ばせた。
「何も今すぐ勘十郎兄上を裏切れと言っているわけではない。貴殿はこれからも信行兄上の側近として、あの方を『三郎兄上に従うよう』、やんわりと導いていけばよいのです。そうすれば、末森は救われる」
「……もし、信行様が、それでも聞き入れず戦になれば……?」
「その時は、積極的に戦わなければよい。貴殿という最強の矛が動かなければ、戦は最小限の血で終わる。……柴田殿。取引をしましょう。貴殿が今この時から、密かに私と三郎兄上の内応者となるなら、私が兄上を説き伏せ、何があろうとも義母上を赦し、その余生を保障させましょう」
勝家の呼吸が荒くなる。主君への忠義と、秘めたる情愛。勝家の心の中で、これまでの価値観が音を立てて崩れていく。
「……信長様を敵に回せば御前様が危うい。だが、某が退けば、御前様の命は助かる……ということか」
「そうです。貴殿だけが、義母上を救えるのだ」
長い、あまりにも長い沈黙の後。
柴田勝家は、十歳の少年の冷徹かつ慈愛に満ちた「提案」に、ついに力なく頭を垂れた。
「……分かり申した。……それならば……御前様の安寧のため、この柴田権六、これよりは彦七郎様に魂を預けましょう。……信行様を、なるべく穏やかな道へとお導きいたします」
勝家は絞り出すようにそう告げると、さらに一歩踏み込み、彦七郎を圧するような低い声で付け加えた。
「ただし! この権六が秘めた思い、たとえ三郎様であろうと、断じて……断じて誰にも話さないでいただきたい!」
その顔は、戦場での面影はどこへやら、一人の男としての、あまりにも不器用で必死な熱情に染まっていた。
尾張の中でも一二を争うこの猛将が、ただ一人の女性への情愛ゆえに、十歳の少年に急所を預けたのだ。
彦七郎はその滑稽なまでの純情と、それゆえに得られた巨大な果実に、口角を吊り上げた。
「……承知いたしました。貴殿のその美しい誠実、私が墓まで持っていきましょう」
ニヤリ、と。
子供らしからぬ邪悪な、しかし全幅の信頼を寄せるに足る確信に満ちた笑みを浮かべ、彦七郎は深く頷いた。
夏の空に、一陣の風が吹き抜けた。
安食の野に、勝利の勝鬨が響き渡る。だが信長からはこのまま撤退するよう指示が来ていた。今回はあくまでも武衛様の仇討ちの前哨戦であり、清洲城を落とす程の準備が出来ている訳でもなかったからだ。
彦七郎は後ろ髪を引かれる思いで清洲城を振り返った。
清洲城の影が、夕闇の中に不気味なほど静かに佇んでいた。




