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異聞天下布武~夢を見た信興、天下に足掻く~  作者: 松本ジョー


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原哲夫先生・北原星望先生著 いくさの子-織田三郎信長伝-のオマージュです。みんな、面白いから絶対見てくれよな!

 空の色が、不気味なほどに昏い朱に染まり始めていた。


 夕闇が迫り、森の影が伸びていく中、彦七郎は膝から伝わる土の冷たさに、己の意識を繋ぎ止めていた。


 彦七郎は、同い年の弟である半左衛門と共に、これまた同い年の八郎を戸板に乗せ、末森城を目指していた。子供の小さな手に、戸板の角が容赦なく食い込む。一歩踏み出すごとに草鞋が乾いた土埃を巻き上げ、慣れぬ長旅を強いられた幼い足首を重くさせた。


(……そうだ。この感覚だ。戦場で泥を啜り、死の淵を這い回った、あの頃の感覚だ)


 数刻前まで、自分は燃え盛る小木江城にいたはずだった。腹を切り、喉を裂き、噴き出す血の熱さを感じながら、兄信長への申し訳なさと共に意識を失った。それなのに、目覚めれば自分は幼少期の姿に戻り、朽ち果てた古寺の床に転がっていたのだ。


(……俺たちは、あの男に会ったのだ)


 彦七郎の脳裏に、あの得体の知れない旅人――果心居士の姿が蘇る。


 一方で、共にいた半左衛門は特に夢の内容を覚えていないようで、八郎が起きないことにブツブツと不満を漏らしていた。


「重い、彦七、重いよぉ……なんで起きないんだよ、こいつ。置いていこうぜ……ったく、薬は無かったし、重いし、散々だよ……」


 薬? そういえば彦七郎は夢の中で享年二十五の人生を歩んできたため、大まかな出来事は覚えていたが、幼少期の自分がなぜこの昼下がりに城の目を盗んでまで古寺へ行ったのかまでは、明確に思い出せなかった。


「なぁ、半左衛門。何で俺たちはあの古寺に行ったのか、覚えているか?」


「何言ってんだよ。彦七が、あの古寺に父上の病を立ち所に治す霊薬があるって台所の者が言ってたって……」


 ちょっと休憩だ、と言いながら戸板を下ろし、半左衛門が記憶を語る。


 本来ならば、側室の子であるといえど、父の危篤という非常時に勝手に城を抜け出すなど、あってはならないことだった。だが、誘惑はあまりに甘美で、抗いがたかったのだ。


 城の台所付近で聞いた「霊薬」の噂。それが誰の口から出たものだったか、今となっては判然としない。恐らくそこから既に果心の手の上にいたのだろう。ただ、その噂を耳にした瞬間、彼らの目の前には陽光を弾く霧の向こうに光り輝く古寺の幻影が見えた。吸い寄せられるように、三人は昼間のうちに城の裏門を抜け出したのだ。


「半左衛門……八郎は、まだ目を覚まさないのか」


 彦七郎は、足元に横たわる八郎の体を揺さぶった。八郎は起きる気配がない。


(……果心の言葉を信じれば、こいつは相当長生きするのだろう。ならば、今ここで死ぬことはないはずだ)


 歴史を知る者特有の、冷めた確信が胸を掠める。彦七郎は一度死を経験した者としての冷静さを取り戻そうと、周囲の状況を分析し始めた。


(果心という男……あいつは一体、何が目的だ。坂井大膳や岩倉の連中が、俺たちのような幼子を狙うとは考えにくい。……ならば、奴は本当に戯れに現れただけの、歩く災害だったというのか?)


 あのような「超常」を前にすれば、人間の知略など無意味に等しい。しかし、彦七郎は土に汚れた手を握りしめた。もし自分がこの時代に戻されたことに意味があるとするならば、それはあの男の「驚き」のためではなく、織田の家を守るためであるはずだ。

「……半左衛門。泣くのはよせ。死神は、泣いている奴から連れていくぞ」


 父の薬が手に入らなかった落胆からか、半左衛門はいつの間にか泣き出していた。それを咎める彦七郎の口から出た言葉は、自分でも驚くほど低く、冷徹だった。半左衛門はビクッと体を震わせ、涙を拭った。


「彦七……なんだか、別人みたいだよ」


「……そうかもしれん。人は、死ぬ気になれば変わるものだ」


 彦七郎は、意識のない八郎を背負い、半左衛門の肩を抱いた。夕闇が急速に濃くなり、視界が奪われていく。一里の道が十里にも感じられた。城へ戻るのが一刻でも遅れれば、自分たちの身分すら危うい。


(……天文二十一年。この年、この後、父上は末森で没する。そして、勘十郎兄上派と三郎兄上の派閥が、織田を真っ二つに分かつ争いを始めるのだ)


 彦七郎は、闇の底に沈みつつある末森城の方向を睨みつけた。


 夢の中では、この家督争いは数年に及び、三郎信長が弟の勘十郎信行を謀殺することでようやく終息した。兄が弟を殺すなど下克上の世の中では珍しいことでもないが、実施した者からしたら、その精神的負担は相当なものだったろう。それこそ、人が悪鬼羅刹になるほどに。


(へまはせぬ。今度こそ、兄上にそのような業は背負わせぬ。まずは城へ戻り、父上の最期を見届ける。それから、兄上の信頼を得ねばなるまい)


 古寺の幻術に惑わされ、薬という幻を追った自分を、彦七郎は激しく呪った。薬など、あるはずがなかったのだ。この乱世において、人の命を救うのは霊薬ではなく、力だ。誰にも負けぬ武力と、誰にも欺かれぬ知略。それだけが、兄を支える唯一の手段なのだと、今の彦七郎は知っている。


(――と同時に、もしあの夢が正夢だったとしたら、大きな武器を得たことになる)


「彦七、見て! 燈りが……!」


 半左衛門が指差す先。森を抜けた視界の先に、末森城が姿を現した。だが、そこにあるはずの「夕闇に沈む城」の姿はどこにもなかった。


 城は、異様な輝きを放っていた。夕闇を黄金色に焼き尽くさんばかりの、数百、数千の提灯の光。まだ夜の帳が完全に下りきる前だというのに、その光は太陽を模倣するかのように鮮烈で、まるで城そのものが巨大な怪物となって、天を飲み込もうとしているかのようだった。


「……始まったか」


 彦七郎は、小さく呟いた。


 城の異様な空気に立ち竦む半左衛門の手を引き、いまだ眠りから覚めぬ八郎の体を背負いなおして、土埃にまみれて城内へ帰り着いた時、彦七郎は自分の目を疑った。


 悲しみに沈んでいるはずの城内は、静寂とは対極にある熱狂の中にあった。広場には津島天王祭を模した巨大な「巻藁船」の櫓が組まれ、数え切れぬ提灯がびっしりと吊るされている。ゆらゆらと揺れる無数の火の玉は、死を待つ父の魂を呼び戻そうとしているのか、あるいは死神を追い払おうとしているのか。


 その光の渦の中心で、三郎信長が太鼓を打ち鳴らしていた。


「ハッ、ハッ、ハァッ!!」


 上半身を肌脱ぎにし、撥を振るう。その音は、死神を威嚇し、父の命を現世に繋ぎ止めようとする、肉体そのものの絶叫だった。


「三郎兄上……! 何を……何をされているのです!」


 三兄・勘十郎信行が血相を変えて叫ぶが、その声も激しい鼓動と、周囲で踊り狂う連衆の怒号にかき消された。


 一方で信秀は、広場に面した奥御殿、その縁側に最も近い板の間に横たえられていた。病の熱を逃がすためか、あるいは嫡男の荒ぶる魂をその目に焼き付けるためか。重臣たちが止めるのも聞かず、縁側の御簾を上げさせ、夜風の吹き抜ける場所に布団を敷かせていたのだ。ただ、父の意識は既に無く、臨終の時は間もなく訪れようとしていた。


 彦七郎は、その光景をただ見つめていた。どこか、きれいだとも思った。


(……ああ、そうだ。これが、俺の天王祭の最初の記憶だ)


 一度目の人生で彦七郎は、この祭りが大好きだった。だが、死線を潜り抜け、働き盛りの武将としての視座を得た今の自分には、兄の真意が痛いほどに解った。


(兄上は、祈っておられるのだ。……己の魂を削って、父上を現世に繋ぎ止めようと!)


 その鬼気迫る姿に、冷ややかに見ていた重臣たちも、いつしか言葉を失い、頬を涙が伝い始める。彦七郎もまた、溢れる涙を止めることができなかった。


 その時、奇跡が起きた。


「……三郎、か」


 喉の奥で鳴るような、か細い声。


 死の淵にいた「尾張の虎」は、死力を振り絞って首を持ち上げ、眩い光の海の中に立つ櫓、その上の息子を見上げた。


 朦朧とした意識の中で、信秀は確かに見た。自分を救うために、数千の提灯が放つ黄金の光の中で、獣のように踊り狂う嫡男の姿を。


 信秀の唇が、かすかに弧を描いた。それは「うつけ」として育て上げた息子への、最初で最後の、慈父の微笑みだった。


 太鼓の音が、止まった。


 櫓の上で、信長が父の視線を真っ向から受け止める。信長は撥を握りしめたまま、父へ向かって静かに、だがはっきりと告げた。


「……さらばだ。父上」


 その言葉は、突き放すような冷たさではなく、最期まで織田を背負って逝く父への、武士としての引導であった。合図を受けたかのように、信秀は満足げに最後の一息を深く吐き出した。微笑みを湛えたまま、尾張の虎は静かにその目を閉じた。


 彦七郎の頬を、冷たい風が撫でた。数千の提灯が一斉に揺らめき、幾つかが一度に火を失う。


(……逝かれた)


 彦七郎は、その場に膝を突いた。父を愛し、救おうとした兄が、自ら「さらば」と別れを告げた。その瞬間の、兄の孤独。


(兄上、見ていてくだされ。父上が去り、あなたが独りになるこの乱世。……今度こそ、俺があなたの盾となり、矛となり、織田の血を最強の力へと変えてみせる)


 涙を拭った彦七郎の瞳には、子供の純真さを超えた、不退転の決意が宿っていた。


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