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天文二十三年、夏。
那古野城の一角、拝領したばかりの屋敷の庭で、彦七郎は泥まみれになっていた。
彼は庭の土を盛り、水を引いて、尾張全土を模した箱庭を作り上げていた。そこには無数の石が置かれているが、彦七郎の視線は、ひときわ白く滑らかな小石に釘付けになっていた。斯波武衛家、嫡男「岩竜丸」を示す石だ。
(……この石は、いずれ兄上の足を引っ張る。元亀元年の記憶に至るまでのどこかで、こいつは名門の意地を剥き出しにし、吉良や石橋と結託して兄上を尾張から追い出そうと謀叛を企てるはずだ)
彦七郎の脳裏にある「未来の記憶」は、元亀元年までであるが、その頃の兄信長は、足利義昭を奉じて上洛を果たし、天下の往来を堂々と闊歩し始めた英雄だった。その輝かしい歩みに、一分の停滞も、一点の曇りも残したくない。
「ここで坂井大膳に殺させれば、若武衛の謀叛は消える。それどころか、主君を殺した逆賊を討つという『完璧な大義名分』が手に入る。兄上は最短距離で尾張を呑み込み、上洛へと駆け上がれるはずだ……。死ぬのは、どのみち歴史から消える者。それが少し早まるだけのこと」
効率、合理、最短。
彦七郎の指が、白い石を泥の底へ沈めようとしたその時だった。
「……彦七郎様、それは一体、何をしておいでか」
政秀の懐には、一通の書状が忍ばせてあった。織田信長の奔放さに手を焼きつつも、この彦七郎という恐るべき麒麟児が兄を支えるならば織田の未来は安泰だ、そう確信した政秀は、「もはや老兵が教えることは何もない」と、晴れ晴れとした心持ちで「隠居願い」を届けに来たのであった。
彦七郎は顔を上げず、平坦な声で答えた。
「平手殿か。見ての通り、庭遊びですよ。……ところで、清洲で坂井大膳が動いたようです。守護・義統様は包囲されましたが、その直前、嫡男の岩竜丸様を川狩りと称して城から逃がしたとか。……ククッ、笑止千万だと思いませんか? ご自身を犠牲にして種を残したつもりなのでしょうが、その甘い『親心』が、かえって残された者の地獄を招くというのに」
「な、何だと……!? なぜそれを、貴方様が知っておいでか!」
驚愕する政秀。清洲の異変は、まだ那古野の本城にすら届いているか怪しい火急の報せだ。しかし、彦七郎は動じない。
「滝川一益に『草』を放たせておきましたから。……平手殿、一益にはこう命じてあります。若武衛様を追う坂井勢は、わざと肉薄させろと。そして、坂井の刃が若君に届くその瞬間まで、手を出すなと」
「……何と仰った」
政秀の顔から、先ほどまでの穏やかな色が消えた。
「岩竜丸様を救えば、いずれ織田の憂いとなります。いつか必ず兄上の背を撃つ。ならば、ここで死んでもらったほうがいい。これは、織田の家運を考えた上での、最善の『捨て駒』なのです。我らは何の汚れも負わず、清洲を潰す最強の刃を得る……。これこそが、誰も傷つかない最短の勝利ですよ」
彦七郎は、至極当然のことを語るように、淡々と微笑んだ。
その微笑みを見た瞬間、政秀の胸中にあった「安心」は粉々に砕け散り、代わって激しい戦慄と、己への怒りが突き上げた。
乾いた音が響き、彦七郎の頬を政秀の掌が弾いた。
十歳の少年の体は、その衝撃で泥の箱庭へと転がった。
「……黙れ。黙れッ! この、小賢しい小倅がッ!」
政秀の瞳からは、大粒の涙が溢れていた。
「わしは、お主のその溢れる才を見て、安んじて身を引けると思うていた……。この隠居願いを出し、あとは若き麒麟にすべてを託そうと、晴れやかな心地でここへ参ったのだ! だが、それは間違いであった!」
政秀は懐から書状を取り出すと、それを力任せに引き裂き、泥の上に投げ捨てた。
「守護様は、ご自身を犠牲にしてまで息子を逃がそうとされたのだ! その父の想いを、お主は『効率』の一言で踏みにじり、嘲笑うというのか! 人の情を解さぬ者に、天下の往来を正々と歩む資格などない! 三郎様を、お主のような怪物の道へ連れて行かせるわけにはいかぬッ!」
彦七郎は泥の中に転がったまま、愕然とした。
頬の痛み以上に、政秀が自分に抱いていた「信頼」と、それを自分の冷徹さが踏みにじったという事実が、胸の奥に深く突き刺さっていた。
「私は……ただ、兄上を殺させたくないだけで……。敗北の種を、今のうちに摘もうと……」
「お主が見ているのは『盤面』であって、人ではない! お主をそのような怪物に育てたのは、わしの不徳だ。この平手政秀、お主がそんな冷酷な策を是とするなら、今ここで腹を切り、冥土で先代・信秀様にお詫びを申し上げる!」
政秀は迷いなく短刀の鞘を払った。白刃が夏の陽光を跳ね返した瞬間、彦七郎の心の中で氷のように固まっていた「合理」が、音を立てて崩壊した。
(……俺は、何をしていたんだ?)
元亀元年までの知識。最短の統一。そんな「正解」を追うあまり、自分は自分を信じてくれた老臣を死に追いやり、見ず知らずの他者が紡いだ「命懸けの愛」を塵のように捨てようとしていた。
「待ってください! 待ってくれ、平手殿!」
彦七郎は泥の中から這い出し、必死に政秀の腕にしがみついた。
「……私がおかしかった! 私は、自分の知識を過信して、一番大切なものを忘れていた! 行きます、今すぐ岩竜丸様を救いに行きます!」
彦七郎は、叫ぶように泣いた。
「一益ッ! どこだ、一益ッ! 手はずを変更だ! 若武衛様に指一本触れさせるな! 坂井の手勢を一人残らず叩き潰す!」
影から現れた一益の瞳に、安堵の光が宿った。
「……御意。その言葉を待っておりました」
清洲城の奥深く、斯波義統は窓の外に広がる夏の青空を見つめ、己の命運が尽きたことを悟っていた。
織田信友や坂井大膳にとって、自分はもはや飾りの価値すら失った。信長へ送った密かな文の数々は、織田との縁を辛うじて繋いだが、同時に大膳たちの殺意を決定的なものにしてしまった。
しかし、義統の心は、かつてないほど凪いでいた。
「岩竜丸。今日は殊の外、暑いのう。城におっては気が滅入る。川狩りにでも行ってまいれ」
呼び寄せた十五歳の愛息の肩を、義統は慈しむように叩いた。その手の震えを悟られぬよう、力強く、何度も。
「念のため、わが護衛もすべて連れてゆくがよい。皆を存分に競わせ、涼んでくるのだぞ」
義統は穏やかに笑い、息子の背中をそっと押した。それが今生の別れになると知りながら。
案の定、岩竜丸が城門を出て間もなく、抜身の刀を手にした兵たちが居間を包囲した。
「御館様。……お覚悟を」
大膳の冷徹な勧告を、義統は満足げな微笑みで迎え入れた。
(……岩竜丸は逃げ延びたか。あの子さえ生きていてくれれば、もう何も望まぬ)
「織田信友、坂井大膳。……お主たちの不忠不義、わが血をもって天下に知らしめてくれよう。わが命と引き換えに、お主たちの歩む道には末代までの呪いと、織田三郎への『大義の刃』を遺してゆく」
義統は一文字に、迷いなく腹を掻き切った。その凄絶かつ高潔な最期は、清洲勢にとって拭い去れぬ「逆賊の汚名」となり、信長が振り下ろす正義の剣に、何よりも鋭い切先を与えることとなったのである。
清洲城を後にした岩竜丸は、胸の内に得体の知れないざわつきを感じていた。
川原が近づいたその時、後方から一騎の伝令が砂塵を巻き上げて駆け込んできた。
「緊急の報せにございます! 守護代・織田信友と坂井大膳が謀叛! すでに居館は包囲されました!」
「何だと……!? 父上は、父上はどうされた!」
「武衛様は……すでにご覚悟を決められております。若武衛様、一刻を争います。このまま那古野へ、信長殿を頼り落ち延びられよ!」
岩竜丸は何度も馬を回し、清洲の方角を振り返った。あの、痛いほどに何度も肩を叩かれた掌の感触。あれは、死地へ残る父が、未来へ逃がす息子に託した、最後の別れだったのだ。
「戻る! 父上をお助けせねばならぬ!」
「なりませぬ! 御館様のご意志を無駄になさるか!」
泣き叫ぶ岩竜丸を護衛たちが急がせるが、背後から地鳴りのような蹄の音が迫る。
森の獣道。坂井勢の先頭が、岩竜丸の馬に肉薄したその時だった。
乾いた雷鳴が、夏の静寂を粉砕した。
白煙と共に放たれた一撃が、先頭の武者を正確に撃ち抜く。動揺する追っ手たちの前に現れたのは、滝川一益と、その一党であった。
「一益、次だ。……若武衛に傷をつけるなよ。追い払うだけでいい」
一益の背後から、激情を鎮め、いつもの静謐を取り戻した少年の声が響く。彦七郎だ。一益は無造作に二挺目の火縄銃を構え、突き進む敵の組頭を粉砕した。
「ひ、退け! 伏兵だ、一旦退いて立て直せ!」
敗走する追っ手たちを、岩竜丸の護衛たちが猛然と追い打ちをかけた。父を捨てて逃げねばならなかった彼らの屈辱と悲しみが、猛り狂う刃と化していた。森は敵の血で赤く染まり、生き残った坂井勢は散り散りになって清洲の方角へ逃げ去った。
やがて、森には耳が痛くなるような静寂と、夏の蝉時雨だけが残った。
泥にまみれ、肩で息をする岩竜丸の前に、彦七郎がゆっくりと歩み寄る。
「……若武衛様。ご無事で何より」
彦七郎はそう言って、少年の顔で微笑んだ。だがその心中では、誰にも聞こえぬ声で、冷徹な誓いを立てていた。
(……将来、貴殿が我らを裏切るというなら、その時はまた私がこの手でねじ伏せて差し上げましょう。ですが、今は……この父上の想いを、繋がせていただきます)
那古野城へ戻った彦七郎を、信長が待っていた。
「……彦七。泥だらけではないか」
「兄上。私は……愚かでした。合理だけで、天下の往来を歩むことはできませぬ。岩竜丸様をお連れしました。……平手殿。隠居願いは、まだ預かっておきます。私の隣で、これからも『人の道』を、うるさく説いていただかねばなりません」
政秀は目尻を拭い、深く一礼した。信長は、弟の泥だらけの頭を乱暴に撫でる。
「……で、あるか。清洲を灰にせよ。主君を殺した逆賊に、織田の怒りを叩き込むぞ!」
夏の空に、熱い風が吹き抜けた。元亀元年までの記憶に頼らず、一歩ずつ「今」を足掻きながら生きる決意をした彦七郎。その瞳には、もはや怪物のような冷たさはなく、ただ一人の武士としての、熱き覚悟が宿っていた。




