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天文二十三年、一月二十五日。
村木砦が紅蓮の炎に包まれてから一夜。勝利の余韻に浸る間もなく、信長は軍を動かした。向かう先は、今川へ寝返り織田の陸路を断った花井氏の拠城――寺本城。
信長は城を攻め落とすことはせず、ただその城下町を、容赦なく灰燼に帰せしめた。
吹き抜ける冬風に煽られ、黒煙が天を覆う。逃げ惑う民の叫びと、爆ぜる家屋の音を馬上で聞きながら、信長は冷たく言い放った。
「背く者には救いがないと骨の髄まで刻み込め。なめられたら、その先は終わりよ」
血と煤に汚れた陣羽織を翻す兄の背中を、彦七郎はじっと見つめていた。
(……これが、兄上の選んだ道か。逆らう者には絶望を、従う者には未来を。このあまりに峻烈な一罰百戒のやり口……。いずれ兄上は、仏敵や人非人と蔑まれても止まらぬ、底知れぬ『異形』へと成り果てるのではないか)
彦七郎は、焼ける町を背景に、兄がその修羅の道を歩むなら、己も共に歩む決意を新たにした。
那古野城へと続く並木道。勝ち戦の報を聞きつけ、豪華な衣装に身を包んだ一団が道を塞ぐように待ち構えていた。
中心にいるのは、信長の同母弟・織田勘十郎信行。その傍らには、苦虫を噛み潰したような顔の林秀貞・通具兄弟が控えている。
「おお、兄上! 見事な勝利、心よりお祝い申し上げます!」
信行が白々しく声を張り上げた。
「我ら末森の勢も、兄上の無鉄砲を案じ、白山大権現様へ昼夜を問わず祈りを捧げておりました。こうして無事に戻られたのも、我らの祈りが通じ、白山様の加護があったゆえかと……」
「……で、あるか」
信長は馬を止めない。信行が差し出した祝いの品を一瞥だにせず通り過ぎようとする。
「なっ……! 兄上、せっかくの祝いですぞ! 少しは足を止められたらどうです!」
無視された信行の顔が、怒りで赤く染まる。その時、信長のすぐ後ろを歩んでいた彦七郎が、わざとらしく溜息をついた。
「勘十郎兄上、お声が大きすぎます。戦場帰りの耳には、いささか響きますな」
「彦七郎! 貴様、兄に対してその言い草は何だ!」
「いやはや、御祈祷、誠に痛み入ります。おかげで我らは、冬の荒海で死にかけ、凍える崖を指の皮が剥けるまで登る間も温かな心地で過ごせましたよ。……林殿も、暖かい城で頂く酒は格別だったのでしょう? 砦の壁に空いた狭間からは、逃げ帰る貴殿らの背中が、実によく見えました」
「貴様……ッ! 子供だと思って付け上がれば、ただでは済まさんぞ!」
林通具が激昂し、刀の柄を鳴らす。信行もまた、自分たちを「腰抜け」と断じた十歳の弟を指差し、声を荒らげる。
「おお、怖っ!」
肩を竦める彦七郎に信行が怒る。
「彦七郎、貴様は三郎兄上に毒されすぎだ! 林殿ら宿老を侮辱することは、織田の家法を汚すことだと知れ! 兄上、この無礼な小僧を叱りつけなされ!」
その時、沈黙を守っていた信長が、ゆっくりと首を巡らせた。
村木砦で数多の首を跳ね、返り血を浴びて戻ってきた「戦鬼」の眼光だ。その凄まじい圧に、信行は言葉を失い、たじろいだ。
「……信行」
「は、はい……」
「……耳障りだ。去れ」
「あ、兄上……? 私は、織田家の将来を思えばこそ……」
「二度言わせるな。祝いなら置いていけ。顔は見たくない。……失せろ」
信長の手が、愛刀の柄にかかる。カチリ、と小さな音が響いた瞬間、信行の背筋を凍りつくような悪寒が走り抜けた。
「……ッ、今日のところは引き下がりますが、母上にはこの件、しかと報告させていただきますぞ!」
信行は、震える声で精一杯の強がりを吐き捨てると、地団駄を踏むようにして自軍の馬を返した。屈辱に震えながらスゴスゴと立ち去る林兄弟を、彦七郎は冷ややかに見送った。
「兄上。あれでは、祝いに来たのか、新しい拳骨を貰いに来たのか分かりませんな」
「フン、小利口な真似を。……先を急ぐぞ」
信長は再び前を見据え、馬を歩ませた。
一月二十五日の夕暮れ。尾張を二分する兄弟の溝は、村木の勝利を経て、もはや埋めようのない深淵となって横たわっていた。
那古野の近く、志賀・田幡に布陣していた美濃勢の陣に到着した。
信長が安藤守就へ礼を述べに行っている間、彦七郎は竹中半兵衛を美濃の陣まで送り届けた。
二人きりになった静寂の中、彦七郎はふと思いついた「予感」を口にした。
「半兵衛殿。道三入道殿によろしくお伝えください。……『外の獲物ばかり見ていると子蝮に腹を食い破られますよ』と」
半兵衛の湖のように静かだった瞳が、かすかに見開かれた。十歳の子供が口にするには、あまりに物騒で、あまりに正確な予見。彦七郎は独り言のように、さらに思考の深淵を漏らした。
「……いや。それこそが、斎藤家としての『国盗り』の総仕上げ、というわけか」
「……どういう意味かな、彦七郎様」
半兵衛の問いは短く、刃のような鋭さを孕んでいる。彦七郎は淡々と答えた。
「道三殿は、わざと周囲に嫌われる『悪人』を演じている。そして嫡男・高政殿が実は土岐の血を引いているという噂を、あえて自ら散布したのではないか? 自らが息子に殺されることで、高政殿を『逆賊を討った正統な後継者』として美濃に君臨させる。そうすれば、『斎藤家が国を奪った』という事実は、父殺しの悲劇の裏で消えてなくなる。息子に国を継がせるための、究極の自己犠牲。それこそが、斎藤利政の頃から企てた壮大で、かつ、最後の計略ではないのですか?」
半兵衛の脳裏に、ある日の記憶が鮮烈に蘇る。
かつて、道三にこの推論を突きつけたときのことだ。道三は「知りすぎだ」と狂気を含んだ笑みを浮かべて刀を抜いた。その刃を前にしても、半兵衛は眉一つ動かさず、己の才が道三の描く「美濃の未来」にいかに有用であるかを淡々と説いた。毒蛇に喉元を噛ませぬまま、その牙を収めさせた静かな死闘。それを、今この目の前の少年は、まるで横で見ていたかのように語っている。
「……彦七郎殿、貴殿は何者だ」
半兵衛は一瞬で元の無表情に戻ったが、その声はわずかに震えていた。是とも否とも言わず、ただ目の前の子供の「正体」を問うた。
彦七郎はその問いには答えず、ただニヤリと、信長に似た不敵な笑みを浮かべた。
「ただ、やり過ぎるとウチの兄の様に、勝手に子蝮が動き出しますのでご注意を。……盤上の駒が勝手に動くってのは、何より面倒ですからな」
皮肉を込めた一言を残し、彦七郎は深々と一礼すると、美濃の陣を後にした。
一人残された半兵衛は、冬の枯れ野を歩く彦七郎の背中を見送りながら、独りごちた。
「……面白いな。尾張の麒麟は、未来の景色ですら、既に飽きているという顔だ」
天文二十三年。雪混じりの風が、尾張と美濃の境界を吹き抜けていった。
尾張の中心、清洲城。
かつての栄華を象徴する広間には、今や重苦しい沈黙と、焦燥感だけが漂っていた。
主座に座る織田大和守信友は、届いたばかりの書状を握りつぶし、床に叩きつけた。
「……村木が、一日で落ちただと? あの要塞を、三郎は一日で……!」
「それだけではございませぬ。援軍を拒んだ林ら末森勢を鼻であしらい、背いた寺本城下を文字通り灰に変えたとのこと。もはや、我らが知る『うつけ』ではございませぬ。あれは……飢えた若獅子にございます」
そう語る坂井大膳の顔は、かつてないほど険しい。清洲織田家の実権を握るこの老獪な男も、信長の動きに、生存の危機を感じていた。
「大膳よ、このままでは清洲は孤立する。斯波の御館様も、最近ではあろうことか我らを差し置いて、三郎側に成り下がろうとしておる! 最近では三郎と密かに文を交わし……武衛家までもが三郎に靡けば、我らは賊軍として討たれるぞ!」
信友の震える声に、大膳は細い目をさらに細め、冷酷な光を宿した。
「……靡くのであれば、靡かぬ者に挿げ替えればよいまでのこと」
「何だと?」
「守護・義統様は、もはや三郎の走狗。生かしておけば我らの害となります。……幸い、嫡男の岩竜丸様はまだお若い。あの方は、我らが手厚く『保護』し、言葉を尽くせば、清洲の正統なる旗印となってくださりましょう」
大膳の言葉に、信友は息を呑んだ。それは、名目上の主君である守護を殺し、その息子を新たな傀儡として担ぎ上げるという、後戻りのできない大逆の企てであった。
「岩竜丸様を丸め込み、御館様を……消すというのか」
「左様にございます。三郎が油断し、那古野で祝杯を挙げている隙に、尾張の頂を塗り替えるのです」
大膳の唇に、歪んだ笑みが浮かぶ。
清洲の暗がりに、新たな殺意の渦が巻き起こっていた。
尾張を揺るがす「清洲崩れ」の幕が、今まさに上がろうとしていた。




