17
完成まで三月、完成してからは六月、その時まで、村木砦の夜はあまりに穏やかであった。
知多の寒風が砦の櫓を叩いていたが、内側に流れる空気は酒の香りで甘く、弛緩しきっていた。
「……信長など、来るはずもなかろう」
砦の守備を任されていた松平家忠は、奥部屋で重い瞼を閉じていた。
ここ数日、近隣の百姓たちが「今川様への忠義」と称して、極上の酒を何度も差し入れていた。当初は毒を警戒したが、百姓たちに毒見をさせても異常はない。連日の宴で兵たちの士気は上がり、何より外は冬の強風が吹き荒れている。
熱田から知多へ、この荒海を渡って攻め寄せる狂人など、この世にいるはずがない。
その「常識」が、今川勢の命取りとなった。
ガァン!!
突如として、大地を揺らすような爆音と、兵たちの悲鳴が松平の意識を叩き起こした。
「何事だッ!」
具足を掴み、飛び起きた松平が目にしたのは、夜明けの霧を貫いて飛来する、無数の鉄砲の火花であった。
「敵襲! 織田、水野軍が着陣しております!」
「馬鹿な……船を出したというのか、あの強風の中に!?」
二日酔いで重い頭を我慢しながら櫓に駆け上がった松平は、信じられぬ光景を目の当たりにする。
眼下には、織田の軍勢が整然と布陣していた。それだけではない。兵たちは皆、見たこともない「黒っぽい外套」を纏い、冬の寒さに震えるどころか、湯気を立てるほどの熱気で砦を包囲している。
「怯むな! 狭間から射返せッ!」
松平が櫓の上で声を荒らげる。だが、それに応じようとした今川兵の指先は、ガチガチと小刻みに震えていた。
ガァン!!
火薬の炸裂音が響くたび、狭間に身を寄せた兵が、声もなく崩れ落ちる。
「……ま、またか! 顔を出した瞬間にこれだ!」
「顔出すな!一分の狂いもなくこの隙間を狙ってやがるぞ!」
今川兵たちにとって、砦の防御の要であるはずの「狭間」が、今や「死神の覗き窓」へと変貌していた。一人が僅かに動くだけで、外側から鉄の礫が吸い込まれるように飛び込んでくる。壁に着弾する鈍い音と、絶え間なく続く銃声が、兵たちの精神を確実に削り取っていった。
「ひっ……! 嫌だ、俺はもう見たくねえ!」
「どこを狙えばいいんだ! 外は煙と土煙で何も見えねえのに、向こうは俺たちの動きを全部わかってやがる!」
現場は混乱に陥っていた。反撃しようにも、弓を番える余裕すら与えられない。目に見えない精度で一方的に命を刈り取られる恐怖に、歴戦の兵たちさえもが、砦の奥へと後ずさり始めた。
松平は、血の気が引いた顔で周囲を見渡した。このままでは戦う前に、恐怖で軍が瓦解する。
「……狭間を塞げ! 早くしろ! 板を張れ、隙間をすべて埋めてしまえッ!」
松平の悲鳴に近い命令に、兵たちは我先にと重い木板を掴み、震える手で狭間を塞ぎ始めた。
自分たちの「目」を潰し、砦を巨大な箱に変える。それは戦術的な敗北を意味したが、今の彼らにとっては、一瞬でも「外からの視線」を遮ることだけが、唯一の救いだった。
やがて、鉄砲の音が止み、不気味な静寂が訪れる。
板の隙間から外を覗くと、鉄砲の音が止み、織田軍が攻めあぐねているように見えた。
(……勝機あり。このまま持ち堪え、岡崎からの援軍を待てば……)
そう確信した瞬間。
松平の目に、信じがたい光景が飛び込んできた。
織田の本陣から、一人の男が躍り出た。
外套を脱ぎ捨て、むき出しになったのは、戦場では自殺行為とも言える「真紅の陣羽織」。
「織田信長だ……っ、あやつ、正気か!?」
信長は、底なしの泥濘と化した甕堀へ、自ら先頭を切って飛び込んだ。その背中を追って、織田の兵たちが「死」を忘れたかのような怒号を上げて雪崩れ込んでくる。
「がははは!射て ! 矢を注げ! 堀を織田の血で染めてやれ!」
松平は狂喜し、板を外して一斉射撃を命じようとした。
「板を外せ! 堀の鼠どもを射ち殺せッ!」
松平の怒号が響く。今川兵たちが一斉に木板を取り払い、弓を番え眼下の「赤い影」…信長へと向けた。
勝った。誰もがそう確信した、その時。
「……五月蝿いな」
松平の背後。誰もいないはずの櫓の影から、低く、冷え切った声が響いた。
松平が凍りついたように振り返ると、そこには返り血を全身に浴び、漆黒の外套を濡らした小柄な影が立っていた。
崖を登りきった彦七郎は、鼻を突く硝煙と、鉄錆のような血の臭いを深く吸い込んだ。
(ああ……これだ)
十歳の子供の心臓が、早鐘を打つ。だがそれは恐怖ではない。かつての夢、幾多の戦場を駆け抜けた記憶が、細胞の一つ一つを呼び覚ましていく。
彦七郎は足元に転がっていた、血に汚れた名もなき足軽の素槍を拾い上げる。
ずしりと重い。子供の腕にはあまりに長い。だが、彦七郎はそれを重荷とは感じなかった。
夢から醒めたあの日から、彼は一日たりとも欠かさず己を追い込んできた。未来を知るだけでは、守りたいものは守れない。
だからこそ、武芸百般に通じている滝川一益を相手に、大人でも音を上げるような過酷な鍛錬を自らに課してきたのだ。幼い筋肉を極限まで引き締め、一益がくりだす槍を千回、万回と受け流し、その重心の捌きをこの体に叩き込んだ。
槍の重心、風の抵抗、突き出すべき角度。
かつての武将としての知識と、この数年間で磨き上げた「十歳の肉体」が完璧に噛み合った今、この安物の槍ですら、彦七郎には「己の体の一部」も同然だった。
「殿……本当にやるんですか」
一足先に上がっていた一益が、槍を構える彦七郎の横顔を見て息を呑んだ。
そこには、昨晩まで軍議で知略を披露していた「幼い主君」の姿はなかった。一益との手合わせで見せていた、餓狼のような鋭い殺気が、戦場の空気に触れてどす黒く膨れ上がっている。戦という化け物に愛された、一人の武将の「眼」を湛えた化け物だった。
「一益、兄上達を狙っている奴ら、一人も生かして帰すな。……これ以上、兄上に無駄な涙を流させるわけにはいかない」
彦七郎は地を蹴った。
十歳の小さな体が、戦場においては逆に「死角」となる。
松平が刀を引き抜くより早く、彦七郎は拾った槍を突き出し、最短距離で敵の喉首を貫いた。
「が、は……っ!?」
松平が崩れ落ちる。
彦七郎は止まらない。流れるような所作で槍を引き抜き、背後から襲いかかろうとした今川兵の足を払い、転倒したその胸元に切っ先を突き立てる。
隣で竹中半兵衛が、その光景に立ち尽くしていた。
半兵衛は知っていた。戦いとは、技術だけではない。人を殺めることへの「迷いのなさ」こそが、最も残酷な才能であることを。
(……恐ろしい。この御方は、既に『此岸』にはいない……!)
「一益、閂を外せ! 大手を開けるんだ!」
彦七郎が叫ぶ。
今川の守備兵たちが、自分たちよりも背丈がある敵と、影のように足元を刈り取っていく死神に混乱を起こし始めた。
「背後から奇襲が――!!」
悲鳴が上がるが、もう遅い。
一益の剛力が、巨大な木の閂を外した。
ギギギ、と重い音を立てて大手門が内側から開放される。
門の外で織田信光がその異変を逃さなかった。
「……ほう! 彦七の野郎、本当にやりやがったか!」
信光はニヤリと笑うと、背後の将兵に向けて槍を掲げた。
「門が開いたぞ! 甥っ子に先を越されて面目丸潰れだ。者共、三郎が来る前にここを真っ赤に染め上げろッ!」
信光率いる西門軍が、開放された大手門へ怒涛の勢いで雪崩れ込む。
その混乱の最中、彦七郎は櫓の上から、堀の底で飛来する矢を叩き落としていた「赤」を見つけた。信長だ。彼は信光の突入を見て、自らも土塁を駆け上がり、大手門へと回り込んできたのだ。
返り血で真っ赤に染まり、拾った槍を杖にして立つ、十歳の弟。
信長は、その「戦鬼」のような弟の姿を門の内側に見つけ、一瞬だけ呆然と足を止めた。だが、すぐにすべてを察して、狂おしいほどの歓喜で喉を震わせた。
「……がははは! 彦七、貴様! 遅いんだよッ!!」
信長が跳んだ。
信光が開け、彦七郎が確保したその門から、鮮烈な真紅の陣羽織が嵐のように突入する。
「全軍突撃! 彦七が道を空けたぞ! 今川の首をことごとく並べろ!」
二人の「織田の怪物」が城内で合流したことにより、村木砦は、完全に「詰み」を迎えた。
砦の内側に、織田木瓜の旗が翻っている。
信長は血刀を肩に担ぎ、上機嫌で彦七郎の元へ歩み寄る。
「見事であったぞ彦七! あの崖を登り、背後から門を奪うとは! 褒美は何が良い、望むものを……」
「……兄上。叔父上」
彦七郎の声は、酷く冷ややかだった。
返り血で泥だらけになった顔で、十歳の少年は、尾張を代表する二人の猛将を射抜くような目で見上げた。
「……何か、おっしゃいましたか?」
「いや……その、褒美をだな……」
「褒美より先に、言うことがあるでしょうがッ!!」
彦七郎の怒号が、燃え盛る砦の音をかき消した。
「私が、あれほど『盾の後ろにいろ』と言ったはずです! それを揃いも揃って…… 叔父上も叔父上です! 兄上が突っ込んだら、後ろから襟首を掴んででも引き止めるのが副将の役割でしょう! もし私が一瞬遅れていたら、今頃お二人は今川の串刺し肉ですよ! 少しは自分の立場を考えてください!」
静まり返った砦の跡に、十歳の少年の怒声が響き渡る。
返り血で汚れ、肩で息をしながらも正論を叩きつける彦七郎の気迫に、周囲の将兵たちは生唾を飲み込んだ。あの「尾張の猛虎」信光と「大うつけ」信長を同時に説教するなど、前代未聞である。
信長と信光は、顔を見合わせた。
そして、どちらからともなくニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「……三郎、聞いたか? この小僧、兄に向かって随分と生意気な口を利くようになったな」
「ああ、叔父貴。誰に似たのか知らんが、可愛げというものが欠片もなくなっておる」
「えっ……?」
彦七郎が毒気を抜かれた瞬間だった。
「「これか! この生意気な口は!!」」
信長と信光が左右から同時に手を伸ばし、彦七郎の両ほっぺたを「ムギュッ」と力任せにつねり上げた。
「あふっ!? ひ、ひふえ……」
「がははは! 策を練るのも良いが、子供ならもっと『兄上、怖かったですぅ』と泣きついてこい!」
「そうだぞ彦七。お前の顔は、小難しく歪んでいるより、こうして引っ張られている方がマシだわ!」
左右にびよーんと引き伸ばされる頬。
さっきまで戦場を支配していた冷徹な軍師の面影はどこへやら、そこにはただの、歳の離れた兄と叔父に玩具にされる十歳の子供がいた。
「は、はなひてっ! れっこうのつるきが……!」
「やかましいわ! 勝利の勝ち鬨より先に説教する奴があるか!」
信長はようやく彦七郎の頬から手を離すと、その真っ赤に腫れた顔を見て、満足そうに鼻を鳴らした。そして、腰に下げた自身の太刀を鞘ごと外し、彦七郎の手に押し付けた。
「え……?」
「彦七。この戦、お前の策に始まり、お前の手で門が開いた。……ならば、最後を締めるのもお前の役目だ」
信長は砦の最も高い場所、今川の旗が引きちぎられた櫓の上を指差した。
「行け。尾張の兵たちに、誰がこの砦を落としたのか、その声で教えてやれ」
彦七郎は一瞬、呆然とした。
以前の夢の中でも、勝ち鬨とは常に「総大将」があげるものだった。十歳の子供、それも初陣の身に許されることではない。
だが、信長の瞳は本気だった。後ろでは信光も「やってやれ、彦七!」と背中を叩く。
彦七郎は唇を噛み締め、ずしりと重い兄の太刀を抱え、戦の跡も生々しい櫓の階段を駆け上がった。
まだ、階段の半ば。だが、そこは既に誰の頭よりも高い場所だった。
眼下には、血にまみれ、泥に汚れ、それでも勝利に沸き立つ千を超えるの織田・水野の兵たちがいた。その視線が、一斉に小さな影へと集中する。
彦七郎は天を仰ぎ、喉が裂けんばかりの声で叫んだ。
「――エイ、エイ!!」
その幼くも、凛として戦場に響き渡る声に、一瞬の静寂が訪れる。
そして。
「「「オーーーーッ!!!」」」
大地を揺らすような地響きが返ってきた。一回、二回、三回。
十歳の少年が上げる勝ち鬨に、歴戦の兵たちが、叔父が、そして兄が、魂を震わせて応える。
その光景を、櫓の下で見上げていた竹中半兵衛は、静かに目を閉じた。
(……織田三郎信長。あなたは、とんだ化け物を育て上げましたね)
半兵衛は、自身の懐に隠していた密命の書状を、指先で密かに破り捨てた。
道三に伝えるべき言葉は、もう決まっている。
「道三様。……尾張には、太陽が二つございます」
天文二十三年一月。村木砦陥落。
それは、織田彦七郎の、鮮烈すぎる歴史への登場であった。




