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異聞天下布武~夢を見た信興、天下に足掻く~  作者: 松本ジョー


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「叔父上、よくぞ参ってくださいました」


彦七郎の言葉に、叔父である織田信光は豪快に笑い飛ばした。


「三郎が必死な顔で頼みに来るのでな。それに、知多を今川に取られれば、守山の俺も枕を高くして寝られん。……しかし林、お前ら兄弟まで来るとは珍しいな」


林秀貞は不快そうに鼻を鳴らした。


「勘十郎様が、兄上の無謀で織田の兵を無駄死にさせるなと案じておられるのです。我らは、その『目』として参ったまで」


(……つまり、隙あらば兄上を糾弾するつもりか)


 彦七郎は冷ややかに林兄弟を一瞥した。


 そうこうしていると那古野の地に、約束通り斎藤道三からの援軍、安藤守就率いる一千の兵が到着した。志賀・田幡に布陣した美濃勢の威容は、清洲や岩倉、織田信行派達の不穏な動きを物理的に圧殺する「重石」となった。


 だが、二十一日の出陣直前、波乱が起きる。


 信行方から出陣していた宿老・林秀貞、通具の兄弟が、道三の兵に援軍を頼み、留守を守らせるという信長の挙動を「正気の沙汰ではない」と断じ、自軍を引き連れて帰還してしまったのだ。


 家中が動揺する中、信長は鼻で笑い飛ばした。


「放っておけ。腰抜けは村木の火に焼かれずに済んだと喜ぶがよい。出すぞ!」


 一月二十二日。熱田は冬特有の強風に見舞われていた。


「殿、この風で船を出すのは狂気の沙汰! 船頭も水夫も首を縦に振りませぬ!」


 家臣らの必死の制止を、信長は一喝で退けた。


「この風こそが天の加護よ! 船を出せ。彦七が工夫した外套と温石があれば、この程度の寒さ、屁でもないわ。それでも出さぬと言うなら、その臆病風ごとこの場で斬り捨ててくれる!」


 信長の言葉が終わるや否や、側に控える馬廻りの兵たちが、一斉に刀をすっぱ抜いた。


 彼らにとって、信長の不興を買うことは死と同義。それに、ここで出陣を逃せば、再び那古野で彦七郎のあの地獄のような反復訓練に引き戻されるのだ。兵たちの瞳には、強風への恐怖よりも「命令に従わぬ者」への容赦ない殺気が宿っていた。


 船頭たちは、信長の狂気と、それを支える兵たちの殺気に圧され、震え上がった。確実な死と、もしかしたら生き延びる可能性のある航海。選ぶのは必然的に生き延びる可能性だった。


 無理やり出航させた船団は、荒れ狂う波を柿渋の防水服と懐に入れた温石で凌ぎ、わずか半刻で二十里の海を駆け抜け、緒川の地に滑り込んだ。


 二十三日、信長は緒川城にて水野信元と会談していた。


「兄上、無事のご着陣、何よりです」


 一足先に一益と共に知多へ入り、村木砦の最終偵察を終えていた彦七郎が、暗闇の中から音もなく姿を現した。


 挨拶を済ませた彦七郎の視線が、信長の傍らに控える一人の少年に止まった。自分とそれほど変わらぬ年格好。だが、その瞳には深山の湖のような、底知れぬ静謐さが宿っている。


「兄上。そちらの御仁は?」


「こいつか。竹中半兵衛だ。舅殿がわしを見定めさせるためにつけた目付よ。お前とそう変わらん年だが、舅殿曰く『天才』らしいぞ」


 竹中半兵衛は、静かに頭を下げた。


「ご紹介に預かりました、竹中と申します。天才などとんでもない。道三入道様より、織田様の戦をしかと見極めよとの命にて参じました。末席にお加えいただければ幸いです」


(……竹中半兵衛。ここで出てくるか)


 彦七郎は内心の驚きを隠し、淡々と自己紹介を返した。今、この部屋には、未来を知る者と、戦国最高峰の軍師、二人の「異能」が揃ったことになる。


 竹中半兵衛重治。言わずと知れた天才軍師。木下藤吉郎の与力となりその出世を助けた武将であった。


 それがこの時期、この場所にいるということは、少しずつ彦七郎が見た夢が変わってきているのだろうか。


 そんな事をつらつら考えていると、兄信長が軍議の開始を宣言した。


「軍議を始める。彦七、皆に説明せよ」


 信長の号令で、彦七郎は慌てて地図の前に立った。信光、信元、そして竹中半兵衛の視線が集中する。


「まず、現在すでに近隣住民を通じて村木砦には極上の酒を届けてあります。今頃、今川の将兵は『こんな嵐の日に織田は来ぬ』と信じ、酒盛りをして油断の極みにあります」


 彦七郎は指で北側の断崖を指した。


「明朝、攻撃を開始します。手順は以下の通り。


一、橋本殿率いる狙撃衆は、砦の狭間を絶え間なく狙い、敵が顔を上げられぬよう釘付けにする。


二、叔父上は大手門へ。ただし、深追い厳禁。厚い盾を並べ、門に火矢でも打ち込んで、敵の注意を引きつけることに徹してください。


三、堀側の各隊も盾を掲げ、無理な突撃は控えること。敵を甕堀側へ誘い出す『囮』と心得てください」


 信光がニヤリと笑う。


「暴れるな、と言われるのは慣れぬが、お前の策だ。乗ってやろう」


「そして……本命は北の断崖。私と一益、そして選り抜きの伏兵が、海側の崖から砦内に侵入。内側から門を開き、制圧します」


 一通りの説明を終え、彦七郎は最後に諸将を見渡した。


「質問はありますか?」


 半兵衛が、微かに目を細めて尋ねた。


「……もし、今川方が酒に溺れず、北の崖にも伏兵を置いていたら?」


「その時は、一益が一人で百人を斬り伏せる間に、私が新しい策を捻り出します。……ですが半兵衛殿、戦は始まる前に決まっているものです」


 彦七郎は不敵に笑い、言い放った。


「この戦、なるべく犠牲者を出さずに勝ちます。各自、訓練の通りやれば大丈夫。逸らず、冷徹に対処していきましょう」


 信長は満足げに頷き、柿渋の外套を羽織った。


「聞いたな。明朝、村木を灰にするぞ」


 その夜、彦七郎は自室で柿渋の外套を点検した。


(半兵衛に見られている以上、無様な戦は見せられないな……)


 九歳の軍師の初陣。その幕が、静かに上がろうとしていた。


 二十四日。まだ夜も明けきらぬ内に緒川城を出発した千五百の将兵は静かに、されど堂々と村木砦に向かって行った。


 それを祈るように見送る彦七郎。


 空が白み始めた頃織田・水野連合軍は村木砦に近づいた。さすがに前日酒宴だったとしても砦内の将兵を大きく超える人数が攻め寄せて来たのだ。砦内は蜂の巣をつついたように騒然としていた。


 南側では、早速信長が鉄砲衆を並べ、砦の狭間を正確に狙い撃つよう指示を出していた。


 大手門では、信光が火矢を放ち、門の破壊を試みる。ここまでは彦七郎の計画通り。だが、砦を守る今川勢も、落とされてはならじと必死である。槍を構え、矢を放ち、まさに一所懸命、命を的に防戦するのであった。


 狭間からは弓を引く者もいたがその度に狙われて命を散らしていく今川勢。


「狭間を塞げ! 板を張れ! 隙間を埋めて撃たせるな!」


 被害に耐えかねた敵が、厚い木板を内側から狭間にハメ込み、物理的に狙撃口を封鎖した。


 鉄砲の音が止み、一瞬、戦場に不気味な静寂が訪れる。


 狙撃で敵を釘付けにするという彦七郎の前提が、ここで崩れた。


「……殿、これ以上は弾の無駄にございます。彦七郎様の合図があるまで、一度兵を下げ……」


 側近である丹羽の進言に、信長は耳を貸さなかった。


 彼の瞳には、狭間を塞いだ板の隙間から、嘲笑うように突き出された今川の長槍が見えていた。


「……待てるか」


 信長の奥歯が軋んだ。


 彼にとって、戦とは「見る」ものではなく「成す」もの。九歳の弟が用意した「完璧な盤面」は、確かに合理的だ。だが、目の前で兵が血を流し、鉄砲の狙撃にて怯んだ今、その合理性によって冷まされていた信長の「熱」を急激に高めていく。


「後ろで指をくわえて、弟の合図を待てというのか。……この信長に、飾りに徹しろと申すかッ!」


 信長は、羽織っていた柿渋の外套を乱暴に引きちぎった。


 その下から現れたのは、戦場では死を招くほどに鮮烈な、真紅の陣羽織。


「今が好機ぞ!敵は狭間と共に自らの『目』を塞いだのだ。今行かずして、いつ行く!」


 信長は近習から長槍をひったくると、制止する声を背中で浴びながら、泥濘の甕堀へ向かって躍り出た。


「全軍、突っ込めッ! 堀を死体で埋めてでも、あの土塁を駆け上がれ!」


 総大将自らの突撃。


 それを伝令から聞いた大手門の織田信光も、戦鬼としての血を抑えきれなかった。


「がははは! さすがは我が甥。三郎に遅れるな! 門を直接ぶち破るぞ!」


 二人の「織田の怪物」が吠える。千の兵が、絶対に入るなと言われていた「殺戮の箱」へと雪崩れ込んでいく。


 その頃、北の断崖の下。


 彦七郎は、一足先に登った兵が垂らした紐を掴み、中腹まで這い上がっていた。指先に岩が食い込み、海風が体温を奪う。


 だが、その時……


「……殿! 狼煙です!」


 一益の鋭い声。


 彦七郎が振り返ると、南の空に一本の煙が上がっていた。


「もし兄上が我慢できずに動いたら、狼煙を焚け」……前線の連絡兵に預けた、最悪の事態の合図だ。


「……あの、馬鹿兄貴……ッ!!」


 彦七郎は崖の中腹で凍りついた。


 今、南側で突撃すればどうなるか。


 狭間を塞いだ今川兵は、敵が堀に充満した瞬間に板を外す。そこには、身動きの取れない「織田の主力」が並んでいるのだ。


「叔父上まで一緒になって突っ込んでどうするんだ! またぞろ泣く羽目になるぞ!」


 彦七郎は毒づきながら、例の夢で信長が村木砦の戦であまりの近侍における犠牲者の多さに呆然となり、涙を流したと信行達が嘲笑していた記憶が脳裏をよぎった。彦七郎は登攀の速度を上げた。指の皮が破れ、岩肌を血で汚しながらも、必死に上を目指す。


 隣を登る従者に背負われた竹中半兵衛が、信じられないほど冷静に戦況を分析していた。


「……彦七郎様。今の突撃で、南の軍はあと一刻も持たないでしょう。……貴殿の『犠牲者を出さない策』は、完全に破綻しましたね」


 崖の上からは、南の絶望的な光景が見え始めていた。


 今川の狭間が一斉に開き、堀の底で身動きの取れなくなった信長たちへ、無数の弓矢が向けられる。


「……クソッ、間に合わせる……間に合わせるんだ!」


 十歳の軍師の初陣。


 合理性が崩壊し、家族の命が風前の灯火となったその瞬間、彦七郎は崖の縁を掴み ……

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